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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
終章
27/27

 明治十年一月。

 冬の陽は低く、縁側に差し込む光もどこか淡かった。

 琴乃の元へ、一通の文が届いたのは、そんな午後のことだった。

 差出人の名を聞いた瞬間、琴乃の胸の奥が、ひとつ脈打つ。

「……藤次さん」

 おすみが読み上げる声を頼りに、琴乃は膝の上で指を組み、静かに耳を澄ませた。



 琴乃殿


 寒さの厳しい折、身体の具合はいかがだろうか。夜は冷えると聞く。どうか無理はせぬように。

 こちら鹿児島も、冬の風が強く、海から吹き上げる潮の匂いが、骨身に染みる。それでも、日々は変わらず過ぎていると、そう書ければよいのだが……

 町の空気が、少し張り詰めている。皆、言葉を選び、笑みの奥に何かを隠しているようだ。

 だが、心配はいらぬ。ただの取り越し苦労かもしれぬし、薩摩さつまは元来、気性の荒い土地だ。

 それよりも、東京にいる同志から、貴女の語りのことを聞いた。遠く離れていても、貴女の声が誰かの胸に届いていると思うと、胸が温かくなる。

 どうか、そのままでいてほしい。

 貴女に一つ、伝えておきたいことがある。

 兄が、貴女に会いたいと言っていた。

 いつまでも、二人の仲を認めぬわけにはいかぬと、ようやく、そう言ってくれた。

 俺たちが、生半可な気持ちで慕い合っているわけではないことは、前から分かっていたのだそうだ。だが、それを認める踏ん切りが、どうしてもつかなかったと、兄は打ち明けてくれた。

 急に考えが変わったわけではない、とも言っていた。ただ、この時代、この空気の中で、言わずにいることのほうが、よほど卑怯だと思ったのだと。

 世の中が、穏やかではないからこそ、伝えるべきことは、今、伝えねばならぬ。兄もまた、そう感じているようだ。

 いずれ、必ず会いに行く。

 その時は、胸を張って、貴女の隣に立てるように。

 どうか、それまで、元気で。


 藤次



 文を読み終えたあと、琴乃はしばらく動けなかった。

 祝福の言葉。未来へつながる約束。

 なのに胸の奥で、何かが静かに軋んでいる。

 それから、藤次からの文は途絶えた。

 一日、二日、そして十日が過ぎ、月が変わっても、何の音沙汰もない。

 重苦しい噂が、町を満たし始めた。

 鹿児島で、士族が蜂起したという話が飛び交い、西郷隆盛の名が、再び人々の口に上り始める。

 西南戦争、勃発ぼっぱつ

 琴乃は、文を胸に抱いたまま、立ち尽くす。

 祝福の言葉が届いた、その直後に訪れた沈黙……そして、戦。

 それはまるで、

 時代が、個人の幸せを許さぬと告げているかのようだった。

 琴乃は目を伏せなかった。

 藤次が選んだ道を、信じると決めていたからだ。

「……藤次さん」

 名を呼ぶと、胸が締めつけられる。

 遠く鹿児島で、彼は何を見ているのだろう。何を感じ、何を言葉にせず、文に滲ませたのだろう。

 琴乃は文を胸に抱き、静かに息を整えた。

 この手紙は、別れの前触れではない。

 そう、信じたかった。

 だが時代は、再び大きく、音もなく、動き始めていた。

 

 京都。

 春の気配がただよいはじめた頃だというのに、木戸の屋敷はひっそりと静まり返っていた。

 伊織は抜刀隊の装束のまま、奥へと通される。

 部屋に入った瞬間、薬草の匂いが鼻をついた。

 床に伏せる木戸孝允は、かつての鋭さを失い、驚くほど痩せていた。

「……来たか」

 それでも声には、あの人のままの理が宿っている。

 伊織は膝をつき、深く頭を下げた。

 言葉を用意してきたはずなのに、喉がうまく動かない。

「戦の鎮圧のため、抜刀隊に選ばれました」

 木戸は、静かに目を閉じた。

「……そうか」

 短い返事だったが、その奥に、数え切れぬ重みがあった。

 伊織は拳を握りしめる。

「僕は……これまで、貴方を恨んでいました」

 奇兵隊の脱退騒動を鎮圧した木戸は、兄を処刑した。

 胸に積もり続けてきた言葉が、ようやく形になる。

「正義の名の下に、人を切り捨てる人だと……そう思っていた」

 木戸は何も言わず、ただ伊織の声を待っていた。

「でも、今は……」

 伊織の声が震える。

「友を討たねばならぬ立場になって、ようやくわかりました」

 同じ釜の飯を食い、背中を預けた友。

 今、その友が、敵として戦場にいるかもしれない。

「誰かを守るために、誰かを切らねばならない。その決断を、毎日、毎日、背負い続ける……」

 伊織は顔を上げ、木戸を見た。

「貴方は……そうしてきたんですね」

 しばし、沈黙が落ちる。

 やがて木戸は、微かに笑った。

「私は……強い人間ではない」

 息を整えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「だからこそ、制度を作り、理屈で人を縛るしかなかった。情に流されれば、もっと多くを失うと、恐れていたのだ」

 伊織の胸が、痛む。

「……僕は抜刀隊として戦場に行く資格があるのか、わかりません」

 正義も忠義も、今はぐらついている。

 木戸は、伊織を真っ直ぐに見据みすえた。

「行かずともよい」

 伊織は息を呑む。

「京都に留まれ。私が手を回そう」

「ですが……」

「友を討って生き残るより、生きて悩み続ける者が、必要な時代もある」

 その言葉は命令ではなく、願いだった。

 伊織は、深く、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 木戸は、ゆっくりと目を閉じる。

「伊織。迷うことを、恥じるな」

 その声はかすれていたが、確かだった。

「迷い続ける者だけが、いつか、誰かの痛みに気づける」

 それから数ヶ月後。木戸孝允は病で死去。

 知らせを聞いた伊織は、京都の空を見上げた。

 あの人が背負い続けた孤独と、決断の重さを、今ならわかる。

「……遅すぎましたが、あなたの正義を、理解しました」

 風が吹き、雲が流れる。

 木戸もまた、誰かを想い、誰かを切り捨てながら、それでも前へ進もうとした人間だった。

 伊織は静かにきびすを返す。

 友の行方を、そして、まだ終わらぬ時代の行く先を胸に抱きながら。


  *


 田原坂の夜は、湿った土と硝煙の匂いを孕み、重く沈んでいた。

 藤次は銃を膝に置き、戦の音から身を離す。

 耳を澄ませば、遠くで断続的に響く銃声。だが今は、不思議と静かだった。

 ふと、空を見上げる。

 曇天どんてんだったはずの夜空に、裂け目のような晴れ間が生まれ、そこから星がひとつ、またひとつとまたたき始めた。

「……見えたな」

 誰にともなくつぶやき、藤次は息を吐く。

 星の光は弱く、それでも確かにそこにあった。

 この混沌の中で、なお消えずに在るもの。

 藤次は、胸の奥にいる影へと、静かに語りかける。

「江藤さぁ」

 名を呼ぶ声は、夜気に溶けた。

「迷いは、もうない」

 かつて信じていた正義が崩れ、疑い、怒り、憎み、それでも手放せなかった問い。

 脳裏に浮かぶのは、東京の小さな家。

 見えぬ瞳で、それでも誰よりも遠くを見つめていた、あの人。

「守りたいものがあるから、ここにいる」

 それが答えだった。

 江藤が生きていたなら、何と言っただろう。

 藤次は、星空に向かって、深く頭を下げた。

 その直後、再び戦の音が夜を裂いた。

 藤次は立ち上がり、闇の中へと身を投じていく。

 星は、もう見えなかった。


 一方、東京にて、琴乃はその夜も眠れずにいた。

 春が近づいているはずなのに、夜気は冷たく、胸の奥に、拭いきれぬ不安が居座っている。

 藤次の名を、声に出さず、何度も呼ぶ。

 祈るように、ただ無事を願う。

 そのとき、縁側に出ていた梅が、はっと息を呑んだ。

「……琴乃さん」

「どうしたの?」

「流れ星……見えた」

 琴乃は、胸の前で指を強く組む。

「……綺麗だった?」

 梅は、しばらく空を見上げたまま、ぽつりと言った。

「うん。でも……」

 言葉を探すように、少し間を置いてから言う。

「今日も、どこかで散っていった誰かの命の、瞬きみたいな気がした」

 琴乃の胸が、きゅっと締めつけられる。

 星は願いを叶えるものだと、誰が決めたのだろう。

 もしかしたら、星はただ、命が確かにあったことを知らせているだけなのかもしれない。

 琴乃は、夜空の向こうにいる藤次を思い、静かに祈った。

 どうか。

 どうか、生きて。

 田原坂の戦いは、なおも激しさを増し、その渦の中で、藤次の生死は不明となった。

 文は届かず、名も呼ばれず、ただ、春の空だけが、変わらずに在った。

 運命は、再び沈黙を選ぶ。

 それでも、物語は、まだ終わらない。


  *


 五年後。鹿児島。

 昼下がりの縁側で、幼い少女はうたた寝をしていた。

 春の陽は柔らかく、畳の匂いと潮風が混じって、まぶたが重くなる。

「……っ!」

 はっと目を覚まし、少女は身を起こした。一緒に寝ていた猫も、びくりと飛び起きる。

 胸の奥が、理由もなく急かされる。

 草履ぞうりを突っかけ、家を飛び出すと、門の前でちょうど人影と行き合った。

「遅いぞ、鈴」

 男は、困ったように笑う。

「ごめんなさい!」

 鈴は息を弾ませながら、大きく、少し節くれだった手を取った。

 二人は並んで歩き出し、寺へと向かう。

 道すがら、鈴は何度も、男の腕に目をやった。

 その腕には、古い傷が残っている。深く、しかし今はもう癒えた痕である。

(お父さまも……)

 鈴の胸に、亡き父の姿が浮かぶ。

 西南戦争で命を落とした、優しい父。

 この人は、その父と同じ戦場に立っていた。同じ時を生き、同じ死を見てきた人だ。

 寺の門が見えてくる。

 中から、人の気配がした。

「始まるぞ」

 男がそう言った。

 鈴は息を整え、境内へ足を踏み入れる。

 静まり返った堂内に、凛とした声が満ちていく。

「……語り継がねばなりません」

 そこにいたのは、一人の女。

 目は見えずとも、まっすぐに前を向き、言葉だけで人の心を照らす人。

 琴乃だった。


 西南戦争が終わって間もなくのこと。琴乃は、安否のわからぬ藤次を案じ、おすみとともに鹿児島へ来た。

 その地で出会ったのが、鈴だった。

 戦で父を失い、行き場をなくした子であった。不思議と、鈴は琴乃のそばを離れようとしなかった。

 手を引けばついてきて、声をかければ笑い、夜になれば、琴乃のそでを握ったまま眠った。

 やがて琴乃は、決めた。この子と、生きていこうと。

 琴乃が住んでいた東京の家は梅に譲り、今では出世した伊織と共に暮らしている。

 そして、藤次は生きていた。

 大怪我を負い、長く囚われの身となったが、それでも、命はつながっていた。

 今、ようやく、琴乃のもとへと帰ってきたのである。

 二人は夫婦となり、静かに日々を重ねている。 


 語りが終わり、人々が去った後。桜島を望む浜辺で、潮の音を聞きながら、琴乃と鈴は並んで座っていた。

 夕暮れの空は、淡い茜色に染まっている。

「ねえ、琴乃さん」

 鈴が、少し緊張した声で言う。

「なあに?」

 琴乃は、微笑みを向けた。

「私……決めたの」

 鈴はぎゅっと、拳を握る。

「私も、語り部になる」

 風が吹き、波が寄せては返す。

「お父さまのことも、戦で死んでいった人たちのことも……忘れられたくない」

 琴乃は、しばらく黙っていた。

 そして、そっと鈴の肩に手を置く。

「琴乃さんの語りを聞いて思ったの。言葉は、人を生かすこともできるって」

 桜島は噴煙をあげながら、変わらぬ姿で、今日も静かにそこにある。

 琴乃は、優しく言った。

「貴女の声で、貴女の言葉で、語りなさい」

 鈴の顔が、ぱっと明るくなる。

 波音の中で、新しい語り部の決意が、確かに生まれた。

 それは、失われた命を悼み、それでも未来へと続いていく物語の、次の始まりだった。

 波打ち際に駆け出した鈴を、おすみが心配そうにおいかける。

「……今日の語り」

 傍に佇んでいた藤次が、ぽつりと言う。

「胸に沁みた。何度聞いても、その度に救われる思いだ」

 琴乃は、砂の感触を確かめるように足を動かし、藤次の方へ顔を向けた。

「私は、見えないから」

 琴乃は穏やかに言った。

「だから、忘れないの。声も、息遣いも、生きていた証も」

 藤次は、拳を握りしめる。

「……おい(俺)は、多くを斬った。守るためだと言い聞かせても、夜になると、名前も知らない顔が浮かぶ」

 琴乃は、そっと立ち上がり、迷いのない足取りで藤次の前に歩み寄った。

「藤次さん」

 名を呼ばれ、藤次は顔を上げる。

「貴方が迷わずに立っていたこと、私は信じてる」

 琴乃は、彼の胸元に手を置いた。


「あなたが背負ったものは、語られなければ、闇に沈んでしまう」

 風が吹き、琴乃の髪が揺れる。

「だから……これからは、一緒に語りましょう。貴方は生き残った。それ自体が、語るべき物語よ」

 藤次は、静かに琴乃を抱き寄せた。

 戦場で失わなかった温もりが、ここにあった。

「生きて帰ってきてくれた。それが、私の物語の続きをくれたんです」

 波が寄せ、白く砕ける。

「語りは、終わりもはん。おいたちがいる限り」

「ええ」

 琴乃は、静かにうなずいた。

「語る人がいて、聞く人がいて、生きようとする人がいる限り」

 二人は並んで、桜島の方を向いた。

 沈みゆく夕日が、海を赤く染める。

 かつて血に染まったこの海は、いま、穏やかに光を返していた。

 語られるべきものは、悲しみだけではない。生き抜いた証もまた、物語なのだ。

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