一
明治十年一月。
冬の陽は低く、縁側に差し込む光もどこか淡かった。
琴乃の元へ、一通の文が届いたのは、そんな午後のことだった。
差出人の名を聞いた瞬間、琴乃の胸の奥が、ひとつ脈打つ。
「……藤次さん」
おすみが読み上げる声を頼りに、琴乃は膝の上で指を組み、静かに耳を澄ませた。
琴乃殿
寒さの厳しい折、身体の具合はいかがだろうか。夜は冷えると聞く。どうか無理はせぬように。
こちら鹿児島も、冬の風が強く、海から吹き上げる潮の匂いが、骨身に染みる。それでも、日々は変わらず過ぎていると、そう書ければよいのだが……
町の空気が、少し張り詰めている。皆、言葉を選び、笑みの奥に何かを隠しているようだ。
だが、心配はいらぬ。ただの取り越し苦労かもしれぬし、薩摩は元来、気性の荒い土地だ。
それよりも、東京にいる同志から、貴女の語りのことを聞いた。遠く離れていても、貴女の声が誰かの胸に届いていると思うと、胸が温かくなる。
どうか、そのままでいてほしい。
貴女に一つ、伝えておきたいことがある。
兄が、貴女に会いたいと言っていた。
いつまでも、二人の仲を認めぬわけにはいかぬと、ようやく、そう言ってくれた。
俺たちが、生半可な気持ちで慕い合っているわけではないことは、前から分かっていたのだそうだ。だが、それを認める踏ん切りが、どうしてもつかなかったと、兄は打ち明けてくれた。
急に考えが変わったわけではない、とも言っていた。ただ、この時代、この空気の中で、言わずにいることのほうが、よほど卑怯だと思ったのだと。
世の中が、穏やかではないからこそ、伝えるべきことは、今、伝えねばならぬ。兄もまた、そう感じているようだ。
いずれ、必ず会いに行く。
その時は、胸を張って、貴女の隣に立てるように。
どうか、それまで、元気で。
藤次
文を読み終えたあと、琴乃はしばらく動けなかった。
祝福の言葉。未来へつながる約束。
なのに胸の奥で、何かが静かに軋んでいる。
それから、藤次からの文は途絶えた。
一日、二日、そして十日が過ぎ、月が変わっても、何の音沙汰もない。
重苦しい噂が、町を満たし始めた。
鹿児島で、士族が蜂起したという話が飛び交い、西郷隆盛の名が、再び人々の口に上り始める。
西南戦争、勃発。
琴乃は、文を胸に抱いたまま、立ち尽くす。
祝福の言葉が届いた、その直後に訪れた沈黙……そして、戦。
それはまるで、
時代が、個人の幸せを許さぬと告げているかのようだった。
琴乃は目を伏せなかった。
藤次が選んだ道を、信じると決めていたからだ。
「……藤次さん」
名を呼ぶと、胸が締めつけられる。
遠く鹿児島で、彼は何を見ているのだろう。何を感じ、何を言葉にせず、文に滲ませたのだろう。
琴乃は文を胸に抱き、静かに息を整えた。
この手紙は、別れの前触れではない。
そう、信じたかった。
だが時代は、再び大きく、音もなく、動き始めていた。
京都。
春の気配が漂いはじめた頃だというのに、木戸の屋敷はひっそりと静まり返っていた。
伊織は抜刀隊の装束のまま、奥へと通される。
部屋に入った瞬間、薬草の匂いが鼻をついた。
床に伏せる木戸孝允は、かつての鋭さを失い、驚くほど痩せていた。
「……来たか」
それでも声には、あの人のままの理が宿っている。
伊織は膝をつき、深く頭を下げた。
言葉を用意してきたはずなのに、喉がうまく動かない。
「戦の鎮圧のため、抜刀隊に選ばれました」
木戸は、静かに目を閉じた。
「……そうか」
短い返事だったが、その奥に、数え切れぬ重みがあった。
伊織は拳を握りしめる。
「僕は……これまで、貴方を恨んでいました」
奇兵隊の脱退騒動を鎮圧した木戸は、兄を処刑した。
胸に積もり続けてきた言葉が、ようやく形になる。
「正義の名の下に、人を切り捨てる人だと……そう思っていた」
木戸は何も言わず、ただ伊織の声を待っていた。
「でも、今は……」
伊織の声が震える。
「友を討たねばならぬ立場になって、ようやくわかりました」
同じ釜の飯を食い、背中を預けた友。
今、その友が、敵として戦場にいるかもしれない。
「誰かを守るために、誰かを切らねばならない。その決断を、毎日、毎日、背負い続ける……」
伊織は顔を上げ、木戸を見た。
「貴方は……そうしてきたんですね」
しばし、沈黙が落ちる。
やがて木戸は、微かに笑った。
「私は……強い人間ではない」
息を整えながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「だからこそ、制度を作り、理屈で人を縛るしかなかった。情に流されれば、もっと多くを失うと、恐れていたのだ」
伊織の胸が、痛む。
「……僕は抜刀隊として戦場に行く資格があるのか、わかりません」
正義も忠義も、今はぐらついている。
木戸は、伊織を真っ直ぐに見据えた。
「行かずともよい」
伊織は息を呑む。
「京都に留まれ。私が手を回そう」
「ですが……」
「友を討って生き残るより、生きて悩み続ける者が、必要な時代もある」
その言葉は命令ではなく、願いだった。
伊織は、深く、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
木戸は、ゆっくりと目を閉じる。
「伊織。迷うことを、恥じるな」
その声はかすれていたが、確かだった。
「迷い続ける者だけが、いつか、誰かの痛みに気づける」
それから数ヶ月後。木戸孝允は病で死去。
知らせを聞いた伊織は、京都の空を見上げた。
あの人が背負い続けた孤独と、決断の重さを、今ならわかる。
「……遅すぎましたが、あなたの正義を、理解しました」
風が吹き、雲が流れる。
木戸もまた、誰かを想い、誰かを切り捨てながら、それでも前へ進もうとした人間だった。
伊織は静かに踵を返す。
友の行方を、そして、まだ終わらぬ時代の行く先を胸に抱きながら。
*
田原坂の夜は、湿った土と硝煙の匂いを孕み、重く沈んでいた。
藤次は銃を膝に置き、戦の音から身を離す。
耳を澄ませば、遠くで断続的に響く銃声。だが今は、不思議と静かだった。
ふと、空を見上げる。
曇天だったはずの夜空に、裂け目のような晴れ間が生まれ、そこから星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。
「……見えたな」
誰にともなく呟き、藤次は息を吐く。
星の光は弱く、それでも確かにそこにあった。
この混沌の中で、なお消えずに在るもの。
藤次は、胸の奥にいる影へと、静かに語りかける。
「江藤さぁ」
名を呼ぶ声は、夜気に溶けた。
「迷いは、もうない」
かつて信じていた正義が崩れ、疑い、怒り、憎み、それでも手放せなかった問い。
脳裏に浮かぶのは、東京の小さな家。
見えぬ瞳で、それでも誰よりも遠くを見つめていた、あの人。
「守りたいものがあるから、ここにいる」
それが答えだった。
江藤が生きていたなら、何と言っただろう。
藤次は、星空に向かって、深く頭を下げた。
その直後、再び戦の音が夜を裂いた。
藤次は立ち上がり、闇の中へと身を投じていく。
星は、もう見えなかった。
一方、東京にて、琴乃はその夜も眠れずにいた。
春が近づいているはずなのに、夜気は冷たく、胸の奥に、拭いきれぬ不安が居座っている。
藤次の名を、声に出さず、何度も呼ぶ。
祈るように、ただ無事を願う。
そのとき、縁側に出ていた梅が、はっと息を呑んだ。
「……琴乃さん」
「どうしたの?」
「流れ星……見えた」
琴乃は、胸の前で指を強く組む。
「……綺麗だった?」
梅は、しばらく空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「うん。でも……」
言葉を探すように、少し間を置いてから言う。
「今日も、どこかで散っていった誰かの命の、瞬きみたいな気がした」
琴乃の胸が、きゅっと締めつけられる。
星は願いを叶えるものだと、誰が決めたのだろう。
もしかしたら、星はただ、命が確かにあったことを知らせているだけなのかもしれない。
琴乃は、夜空の向こうにいる藤次を思い、静かに祈った。
どうか。
どうか、生きて。
田原坂の戦いは、なおも激しさを増し、その渦の中で、藤次の生死は不明となった。
文は届かず、名も呼ばれず、ただ、春の空だけが、変わらずに在った。
運命は、再び沈黙を選ぶ。
それでも、物語は、まだ終わらない。
*
五年後。鹿児島。
昼下がりの縁側で、幼い少女はうたた寝をしていた。
春の陽は柔らかく、畳の匂いと潮風が混じって、瞼が重くなる。
「……っ!」
はっと目を覚まし、少女は身を起こした。一緒に寝ていた猫も、びくりと飛び起きる。
胸の奥が、理由もなく急かされる。
草履を突っかけ、家を飛び出すと、門の前でちょうど人影と行き合った。
「遅いぞ、鈴」
男は、困ったように笑う。
「ごめんなさい!」
鈴は息を弾ませながら、大きく、少し節くれだった手を取った。
二人は並んで歩き出し、寺へと向かう。
道すがら、鈴は何度も、男の腕に目をやった。
その腕には、古い傷が残っている。深く、しかし今はもう癒えた痕である。
(お父さまも……)
鈴の胸に、亡き父の姿が浮かぶ。
西南戦争で命を落とした、優しい父。
この人は、その父と同じ戦場に立っていた。同じ時を生き、同じ死を見てきた人だ。
寺の門が見えてくる。
中から、人の気配がした。
「始まるぞ」
男がそう言った。
鈴は息を整え、境内へ足を踏み入れる。
静まり返った堂内に、凛とした声が満ちていく。
「……語り継がねばなりません」
そこにいたのは、一人の女。
目は見えずとも、まっすぐに前を向き、言葉だけで人の心を照らす人。
琴乃だった。
西南戦争が終わって間もなくのこと。琴乃は、安否のわからぬ藤次を案じ、おすみとともに鹿児島へ来た。
その地で出会ったのが、鈴だった。
戦で父を失い、行き場をなくした子であった。不思議と、鈴は琴乃の傍を離れようとしなかった。
手を引けばついてきて、声をかければ笑い、夜になれば、琴乃の袖を握ったまま眠った。
やがて琴乃は、決めた。この子と、生きていこうと。
琴乃が住んでいた東京の家は梅に譲り、今では出世した伊織と共に暮らしている。
そして、藤次は生きていた。
大怪我を負い、長く囚われの身となったが、それでも、命はつながっていた。
今、ようやく、琴乃のもとへと帰ってきたのである。
二人は夫婦となり、静かに日々を重ねている。
語りが終わり、人々が去った後。桜島を望む浜辺で、潮の音を聞きながら、琴乃と鈴は並んで座っていた。
夕暮れの空は、淡い茜色に染まっている。
「ねえ、琴乃さん」
鈴が、少し緊張した声で言う。
「なあに?」
琴乃は、微笑みを向けた。
「私……決めたの」
鈴はぎゅっと、拳を握る。
「私も、語り部になる」
風が吹き、波が寄せては返す。
「お父さまのことも、戦で死んでいった人たちのことも……忘れられたくない」
琴乃は、しばらく黙っていた。
そして、そっと鈴の肩に手を置く。
「琴乃さんの語りを聞いて思ったの。言葉は、人を生かすこともできるって」
桜島は噴煙をあげながら、変わらぬ姿で、今日も静かにそこにある。
琴乃は、優しく言った。
「貴女の声で、貴女の言葉で、語りなさい」
鈴の顔が、ぱっと明るくなる。
波音の中で、新しい語り部の決意が、確かに生まれた。
それは、失われた命を悼み、それでも未来へと続いていく物語の、次の始まりだった。
波打ち際に駆け出した鈴を、おすみが心配そうにおいかける。
「……今日の語り」
傍に佇んでいた藤次が、ぽつりと言う。
「胸に沁みた。何度聞いても、その度に救われる思いだ」
琴乃は、砂の感触を確かめるように足を動かし、藤次の方へ顔を向けた。
「私は、見えないから」
琴乃は穏やかに言った。
「だから、忘れないの。声も、息遣いも、生きていた証も」
藤次は、拳を握りしめる。
「……おい(俺)は、多くを斬った。守るためだと言い聞かせても、夜になると、名前も知らない顔が浮かぶ」
琴乃は、そっと立ち上がり、迷いのない足取りで藤次の前に歩み寄った。
「藤次さん」
名を呼ばれ、藤次は顔を上げる。
「貴方が迷わずに立っていたこと、私は信じてる」
琴乃は、彼の胸元に手を置いた。
「あなたが背負ったものは、語られなければ、闇に沈んでしまう」
風が吹き、琴乃の髪が揺れる。
「だから……これからは、一緒に語りましょう。貴方は生き残った。それ自体が、語るべき物語よ」
藤次は、静かに琴乃を抱き寄せた。
戦場で失わなかった温もりが、ここにあった。
「生きて帰ってきてくれた。それが、私の物語の続きをくれたんです」
波が寄せ、白く砕ける。
「語りは、終わりもはん。おいたちがいる限り」
「ええ」
琴乃は、静かに頷いた。
「語る人がいて、聞く人がいて、生きようとする人がいる限り」
二人は並んで、桜島の方を向いた。
沈みゆく夕日が、海を赤く染める。
かつて血に染まったこの海は、いま、穏やかに光を返していた。
語られるべきものは、悲しみだけではない。生き抜いた証もまた、物語なのだ。




