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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
一章 語り部と邏卒
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 一つ、溜息を吐いた。

 外は琴乃の陰鬱な気持ちとは相容れない、穏やかな春の陽だまりが、小鳥のさえずりと共に照らしている。

「お嬢さま、大福でも召し上がりください」

「うん……」

 おすみがお茶と大福を、琴乃の側にそっと置いた。長い付き合いで、茶はここにあると示されずとも、琴乃にはその場所が分かっている。おすみは琴乃が手を伸ばすのに、ちょうどよい場所を理解していた。

 琴乃は返事をしたものの、大福にも湯飲みにも、気が向かなかった。

 きっとおすみは、朝食もろくに食べていない自分を心配して、用意をしてくれたのだろう。けれど、喉も渇かなければ、食欲もなかった。

 どうしてだろうと、琴乃は自問自答する。

 邏卒らそつに襲われそうになった恐怖がよみがえり、琴乃を支配していた。未遂で終わったとはいえ、その恐怖は尾を引きずるほどのものである。でも……と、琴乃は考える。藤次がそばにいてくれたときだけは、恐怖は鳴りを潜めていた。しかし、藤次が帰り、おすみ、実はねと事情を話そうとした瞬間、ぷちんと糸が切れたように決壊し、涙が止まらなかった。それから、もう泣くことはなかったが、家の門から一歩を踏み出すことができず、とても仕事のできる状況ではなかった。

「琴乃」

 空を切るするどい、だけど琴乃には真綿のように届いたその声に、はっとする。

 声のした方を向いて、今やっと彼の気配に気づいた。

 男はいつものように、勝手知った琴乃の家の、中庭に面した場所へと回り込んできた。

 常ならば彼の気配で、声をかけられるよりも前に、琴乃はその存在に気づき、笑顔で迎え入れていた。だが、今日は彼が来たことに、声をかけられるまで気づかなかった。

「……江藤、さま」

 彼はこの年、司法省の長官たる司法卿に任命されたばかりの、江藤新平である。

 琴乃の反応があまりにも遅いことに、頭脳明晰な江藤は、刹那せつなに彼女の異常を感じ取った。

「申し訳ございません。私、ちっとも気づきませんで……」

「構わない。それより、体調が悪いと聞いたが……」

 江藤はこれまで、何件か仕事先を紹介してくれていた。どれも懇意にしている古着屋などである。その一つに立ち寄った際、琴乃が体調を崩していると耳にし、江藤は急ぎ彼女の元へと赴いたのだった。

「横になっていなくていいのか?」

「はい。もうだいぶ、よくなりましたから」

 江藤に心配をかけてはいけない。彼は、娘一人を気にかける暇などないほどに多忙で、本来は雲の上の存在なのだと、琴乃は自分に言い聞かせる。だけど……

「何があった」

 江藤の前では、誤魔化すことなど不可能なのだ。何より、弱り切った琴乃は、彼にすがりたがっている。

「…………」

 ただし、言いよどんだ。おすみのときのように、泣きそうになったからではない。邏卒に襲われそうになったという事実を、どのような言葉で表現していいのか、迷っている。直接的な表現で言うには、あまりにも琴乃にこくなことである。

 江藤は縁側に座す琴乃の横に座り、おすみのれたお茶に手を伸ばすこともなく、静かに待った。

「邏卒の方に……」

 しかし回りくどく言ったとしても、過去の光景が琴乃をさいなみ、先が上手くつむげない。見かねたおすみが、そっと声をかけ、琴乃に了承をもらい引き受ける。

「私がいけないんです。あの日はお嬢さまを一人で仕事に行かせてしまって……仕事が終わって帰ろうとなすったときに、人力車がつかまらなくて、そのとき邏卒だという二人の男が送ると言ったそうで……」

 あとは琴乃に気を遣いながら、事の顛末てんまつを話した。

 事件の核心に触れた途端、江藤の目が見る見るうちに鋭さを増した。

 江藤は吐き捨てるように言った。

川路かわじは何をやっているのだ。民を守るべき邏卒が狼藉ろうぜきを働くとは……これでは、薩摩が愚鈍ぐどんあざけられるのも無理はない」

 江藤が糾弾きゅうだんしたのは、邏卒総長に就任したばかりの、薩摩藩出身の川路利良としよしのことである。明治維新において特に突出した雄藩を、俗に薩長土肥といい、江藤は特に、その薩長については、概ねこのような印象を抱いていた。琴乃も何度か、江藤がそう評するのを聞いたことがある。

「でも……私を助けてくださった方も、薩摩の方でした」

 深山藤次と名乗った彼の声は、今も琴乃の耳に残響している。決して江藤に刃向かう気持ちはなかったが、彼が愚鈍ではなかったことを伝えたかった。

 江藤は少し言葉を詰まらせるようにしたあとで、そっと呟く。

「そうか、薩摩が……」

 琴乃も、江藤自身もわかっている。この一件、悪いのは薩摩などではなく、琴乃を襲おうとした邏卒らに他ならないのだ。

「必ず、君が安心して町を歩けるようにする。もう大丈夫だ」

 添えられた江藤の手は、藤次と同じくらいの温もりがあった。


「これじゃあ足らんのじゃの」

 巡察が終わり、屯所で支給された夕餉ゆうげを、味も分からぬような顔で、ただ腹を満たすために口を動かす男が、正面に座る藤次に同意を求めた。

 藤次は短くああと答えて、すでに空になった椀を見つめる。

「あん大福はあと一個しかなかで、やらんど」

 転んで怪我をした子どもを、巡察中の藤次が助け、その子の親がお礼にと大福をくれたのは昨日のことである。侘しい邏卒の食事の後で、藤次は同室に寝泊まりしている、目の前にいる久瀬くぜ伊織と共に、もらった大福を分け合った。あと二つ残っていたのを、昼間、屯所に戻った藤次が食べ、今に至るわけである。

「そねーなん言うて、いつもくれるじゃろうが」

 もともと残りの二つは一個ずつ、伊織と分けるつもりであった。少し冗談を言えば、伊織がむきになると思ったのだが、この男はいつも感情が荒ぶらない。

 伊織は長州藩の、下級武士の次男である。藩は違えど、同じ境遇で歳も近く、打ち解けるのに時間はかからなかった。

 廃藩置県で名目上は「藩」が消えたが、現実の空気は違う。とりわけ薩摩出身の藤次は、他藩の者から距離を置かれがちだった。だが伊織は、まるで意に介していない。

 出身など、そもそも気にしていないのか、長州は薩摩と同等であると思っているのか、それを本人に尋ねたことはない。藤次にとっては、どうでもいいことだ。馬が合うから仲良くする。それ以外に、理由などない。ただ伊織も同じであれば、なおうれしいのかもしれない。

「そうじゃ、あの二人、ほら、盲目のお嬢さんを手籠めにしようとした連中だが……」

 伊織が思い出したように話題にした。藤次のまゆが、ぴくりと動く。

「クビになったらしい」

「ないごて(どうして)……!」

 藤次は驚いて目を見開く。

 彼は二人の卑劣な行為が許せなかった。二人がしたことを邏卒総長の川路利良に報告し、二人をクビにするべきだと進言したのだが……川路は聞き入れなかった。二人のしたことはとても卑劣なことであるが、今は人員不足なこともあり、叱るにとどめると言ったのである。またあの二人に町を歩かれたのではと、琴乃の気持ちを考えるに、藤次も食い下がれなかった。

 結果、一兵卒の意見は無視され、藤次としても納得のいかないまま、悶々《もんもん》としていた。

 だからこそ、伊織の言葉には思わず声を荒げた。

「これがまた、意外なところから声があったようじゃ」

「意外ち……」

「まさか司法卿が口を挟むたぁな」

 口調は柔らかくとも、伊織の表情はしごく真面目である。

「ないごて、あん人が……」

「さあのう……いきなり川路さんとこ来てのう、得意の雄弁で二人はクビにすべきじゃ言うて説き伏せたらしか。ほんで、たじたじになった川路さんが、あっちゅう間にクビにしたっちゅう話じゃ。相手が司法卿じゃけえ、逆らいようもないんじゃの」

 その弁舌の鋭さ、的確さに、誰も司法卿こと江藤新平には敵わないとは、二人も噂で聞いたことである。

(江藤新平……琴乃さぁと関わりが……)

 なぜ江藤が、琴乃の一件を知っているのか。もしや彼女と何かしらの関わりがあり、だから知っているのではないかと、心の波が激しくなる。そして、自分では聞き入れてくれなかった川路が、なぜ今になって二人をクビにしたのか。

 権力。自分の言葉は川路の耳には届かず、江藤の言葉ひとつで事が動く。それが正しい結果をもたらしたとしても、藤次にはその言葉が、どうしようもなく忌々しく思えた。

――己の言葉では、何ひとつ変えられなかったのだ。

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