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星を語り継ぐ者  作者: 夏野
一章 語り部と邏卒
1/10

 目の前で馬車の通り過ぎる音を聞いた。ガタゴトと鉄のかたまりが、ひづめの勇ましい音とともに遠ざかってゆく。せわしなく通り過ぎたその馬車は、何処どこかへ急いでいるようだ。

 今度はガラガラと、鉄の音に混じって健脚の駆ける音が通り過ぎる。これは人力車だろう。

 頭の片隅でそんなことを考えながら、店の表口の前まで見送ってくれた主人の声で、我に帰る。

「ありがとうございました、琴乃様。うちの子どもたちはいつも元気が過ぎるものを、あんなにじっと聞き入らせてしまうなんて、さすがでございます」

「いえ、そんな」

 と、琴乃は小さく謙遜けんそんした。

「さっそく次はいつ来るのかと、それはもう楽しみにしておりますよ」

 ぱっと、明るい顔をした琴乃は、声に似合う主人の穏やかな表情を想像してみた。

 そう、琴乃は想像するしかない。目には見えないその景色を。

 盲目の琴乃は様々な物語を語る、いわば語り部をしている。ときには昔話を、あるときは感動する小話を、心の中で様々な彩りを織りなし、老若男女の耳に届けているのだ。

この日も贔屓ひいきにしてくれている商家で仕事を終え、帰路に就こうとしていた。

「旦那様、それが……」

 店の丁稚でっち奉公をしている小僧が、頼りなげに主人に声をかける。主人は琴乃が持参した杖を丁寧に彼女に渡しながら、先を促した。

「困ったな……」

 小僧が言うには、琴乃の仕事が終わる頃、帰りの人力車を手配しようとしたが、馴染みの車夫も、他の車夫もつかまらなかったそうだ。というのも、近くで洋館の建設中に事故があり、多数の負傷者ができて、近くの車夫たちは医者の元へ運ぶのに駆り出されているというのだ。

 では先ほど急いでいた馬車たちは、きっとその事故現場へ行ったのだろうと、琴乃は一人納得する。

 馬車に人力車、どちらもここ数年で巷に溢れるようになった、新しい言葉だ。どちらも文明開化の象徴である。

人々は事あるごとに、御一新や文明開化と口にする。ある者は新しい時代の到来に浮かれながら、ある者は旧時代の終わりにやるせなさそうに。しかし琴乃は、そのどちらにもなれなかった。

 音や香りに今までにない変化を感じても、事実どんな風景が広がっているのかを、目で確かめることができない。人力車はよく使うが、昔の景色との違いがわからなかった。二百年もの間、天下を治めていた徳川将軍家は、江戸から姿を消した。だからといって、琴乃の生活が変わるわけでもなかった。文明開化を拝めない琴乃を哀れむ者もいるが、彼女は少しも悲観していない。目には映らないその世界を、誰よりも鮮やかに見ていると言ってくれた人がいるからだ。

 明治五年の春、十九歳になった琴乃は、語り部として軌道に乗っていた。

 はてどうしたものか。常ならば琴乃と一緒に住んでいる女中のおすみが付き添いで来るのだが、この日はおすみに所用があり、琴乃が一人でおもむいていた。まさか盲目の琴乃を一人で帰らせることもできず、ましてや日は暮れかけている。誰ぞ奉公人に付き添いを頼もうかと主人が考えていたときだった。

「ご主人、お困りですか?」

 若い男の声が聞こえた。何故だか琴乃はその声に、身体が少し強張こわばる。

「これは……」

 主人も少し緊張しているようだ。声の主は誰だろう……?

「よろしければ手助けしましょう。我々は民の安寧を守るのが仕事ですから……なぁ?」

 声の主は誰かに同意を求めているようだ。すぐにああ、その通りだと、これも若い男の声が聞こえて、どうやら二人はいるのだと察する。

「実は……」

 もしやこの二人は邏卒らそつではないかと、琴乃は見当をつける。

 邏卒とは、市中見回りを仕事とする、江戸の頃で言えば同心のような兵卒で、去年から採用されるようになった。

 はじめ主人が緊張していたのは、昔の馴染み深い同心ではなく、新設されたばかりの、しかもそのほとんどが薩摩さつま出身という、はたして彼らが薩摩出身かとはともかく、縁もゆかりもない兵卒に対しての態度だったのではないか。だがすぐに、彼らが善良な市民を助けると胸を張って言われ、安心したように主人が事情を打ち明けたのではないかと、琴乃は考えを巡らす。

「あの事故ではしばらく車夫はつかまらないでしょう。であれば、我々がそこのお嬢さんをお送りしましょう」

「左様でございますか。琴乃さん、邏卒の方が助けてくださるそうです」

 主人は渡りに船と、安堵している。対して琴乃は、素直に喜べなかった。主人の声は温かみのある、偽りのない声。邏卒の二人の声は、ひやりと頬をぜてゆく。

 琴乃は目が見えない故に、声や気配を敏感に感じ取っていた。その琴乃が、どこか軽々しく感じられる邏卒らに、主人のような態度ができなかった。

「さあ、お嬢さん」

 邏卒の一人が、琴乃の手を握る。

 きっと、慣れないなまりの所為せいだと、琴乃は言い聞かせる。聞き慣れない訛りは戸惑うが、善意を断る理由にはならない。では一人で帰れるのかと言われれば、断ることができなかった。

「はい……」

 主人に挨拶した後、店を出て、雑踏に紛れる。飛び交う人の声が、心の拠り所だった。

「お嬢さんはよくあの店に来てるね」

 何故、知っているのかとは、喉が怯えて言えなかった。主人は語り部の仕事のことまでは説明しなかったはずだ。

「見回りのときに、よく見たものですから」

 もう一人の男が言った。そうか、そうなのかと、琴乃は小さく、ええと答える。

「確かに、美しい声をしている。顔だって……」

 二人の笑い声が聞こえた。いや、実際には聞こえていないのだが、聞こえたと錯覚するほどに、彼らの本音を確信していたのかもしれない。容姿を貶しているのとは違う、いやな笑い声だ。

 今はどこを歩いているのだろう。家までは歩いて、四半刻はかかる。早く家に帰りたい。どうして邏卒の申し出を断らなかったのだろう。でも、あの場で断ることはできなかった。誰か……えと……

 あの方の声を無意識に探してしまう。そしてふと、人の声が途切れていることに気づいた。

 順当に帰路を辿れば、まだ大通りを歩いているはずだった。いつだ、いつ大通りを逸れてしまったのか。邏卒二人は恐ろしいほど、無口になっていた。

「もう大丈夫です。一人で帰ります」

 琴乃が手を離そうとするのを、逆にぐいと引き寄せられる。はずみで杖を手から離してしまった。

「馬鹿言っちゃあいけない。どうやって一人で帰るんだい?」

 今度は本当に、二人が笑った。その中には善意は一欠片もない。琴乃が確信したときには、もう遅かった。

 そもそもこの羅卒たちは、どうして事故現場に行かなかったのか。民の安寧を守ると言った羅卒が、なぜいち早く現場に駆けつけなかったのか。

 嘘だ。彼らの言葉は嘘だった。彼らが本当に羅卒だったとしても、あるべき姿の羅卒ではないのだ。

 昨夜降った雨の名残の泥濘でいねいが、足下を拘束こうそくする。逃げたいという気持ちを一心にした琴乃の身体は、宙に浮いた。どこに連れて行くのかと考えるのも束の間、琴乃は地面に降ろされ、一人は手首を地面に縫い止め、もう一人が叫びたい琴乃の口を塞ぐ。

 地面一面に生えている雑草が、冷たい露をはらみながら琴乃の肌に触れ、ぞわりとした不快感をもたらした。

 見えない世界に僅かの明るさも感じられなくなったのは、夜になってしまったのか、それとも、襲い来る獣が近くにいるからか。

「騒ぐなよ。大人しくしてりゃあ、すぐに終わるからよ」

 助けて。助けて。助けて。琴乃の頭の中には、それ以外の言葉が見つからない。

 祈る以外に、何ができようか。

 遠くで、足音が聞こえる。それはこちらに向かってくる。泥濘んだ地面を蹴る音が重く響いた。

「そん人を離せ」

 ひどく訛った言葉であった。低い声音は、わざと怒気を現すためにそうしているのかもしれない。

 琴乃を襲うことに夢中だった二人は、彼が近づいていることにも、琴乃を連れ去るところを見られたことにも気づかなかった。

 彼は琴乃の杖を、まるで刀の切っ先のように、琴乃の口を塞いでいた男の喉元に突きつけている。男は少し間を置いてから、小さく呟いた。

深山みやま……」

 深山、と呼ばれた男は、二人と同じ、邏卒の格好をしている。彼の殺気に気圧けおされた二人は、琴乃から手を離し、徐々に後退る。

「失せろ」

 冷たく鋭利な声で言えば、二人は足早に消え去って行った。

「お怪我は?」

 琴乃は小さく首を振る。

 先ほどまでぴりりと張り詰めていた空気をまとっていた深山は瞬時に、琴乃を心配してみせる。彼は杖や琴乃の様子から、彼女が盲目なのだと悟り、恐怖を与えないように気を遣いながら手を貸す。起き上がった琴乃の背中を、優しく汚れを払ってもくれた。

「ありがとう、ございます」

 琴乃の声は震えていた。おそらくもう一言、単語を発すれば、それとともに涙もこぼれ落ちているくらいに、恐怖は限界だった。深山はそんな琴乃の肩に、そっと手を置いた。

 大きく、無骨な手であった。でもその手がなければ、自分の足では立ってはいられないだろうと、琴乃がそう思うくらいに、安心できた。

 しばらく琴乃を支えてくれた手が、離れてゆく。琴乃の微かな震えを止めてくれるくらいに、彼の手から伝わる温もりがあった。

「邏卒の方ですか?」

「はい。……じゃっどん、先ほどの連中は邏卒の風上にも置けん奴らじゃ。安心してくいやんせ」

 次第に彼の言葉は、初めに聞いたとおり、酷く訛っていた。御一新の後でよく町中で聞くようになったこの訛りはきっと薩摩のもので、声は太いが、歳は若いだろうと琴乃は考える。事実、深山は琴乃より歳が三つしか違わない二十二歳であった。それに、無理に訛りを直そうとしているところが、少し可笑しかった。

「あ……えっと……江戸の言葉に慣れちょらんで……」

「お国言葉で構いません」

「薩摩の訛りは、江戸の人いは怖がられるんじゃ」

 深山は恥ずかしそうに、後頭部をかく仕草をする。琴乃には見えていないが、彼の気遣いに胸の動悸も落ち着いた。

「私は、怖くないです」

 笑おうとしたが、琴乃は上手く笑えなかった。まだ先ほどあったばかりの恐怖が尾を引いている。

 同じ邏卒では琴乃が怖がっているのではと懸念していた深山は、心底安堵していた。

「近くで事故があいもして、駆けつけた帰いに、たまたまおはんが連れ去られるとこいを見たんじゃが、ほんのこて(本当に)無事で何よりじゃ」

 お国言葉でよいと行ったものの、琴乃には聞き取りづらい言葉もある。だが、琴乃は駆けつけてくれたのが彼でよかったと、心底ほっとしていた。深山の口にする正義に偽りが感じられなかったからだ。それはあまりにも真っ直ぐだった。

「家までお送いしもす」

 深山は思い出したように、琴乃に杖を渡した。

 そして今度こそ琴乃は、帰路に就くことができた。家まで辿り着くと、門前では女中のおすみが右往左往しているところで、琴乃の姿を見て、泣きそうな顔で駆け寄る。

 辺りはもう、すっかり昏くなっていた。

「お嬢さま……!遅かったじゃありませんか」

 おすみの視線は、深山に注がれる。

「おすみ、心配かけてごめんなさい。この邏卒の方が送ってくださったの」

「まあ……」

 しきりに頭を下げるおすみに、深山は当たり前のことをしただけだと答えた。それがまた訛っているものだから、おすみを少し和ませる。

 ではと去ろうとする深山を、琴乃は呼び止めた。

「お名前を……」

 深山、だけではなく、下の名前も知りたいと、琴乃は考えるよりも口が先に出ていた。

 名乗っていなかったかとばつが悪そうにした後で、彼は名乗った。

「深山藤次(とうじ)じゃ……」

 優しくも、内に激しさがあるような声だった。声で人の感情の機微を読み取ることを得手としている琴乃は、けれどもこのとき、藤次の心情がまったくわからなかった。

 不思議なのは、邏卒たちを威嚇いかくしたときでさえ、藤次に対して恐怖というもの感じることがなかったのである。しかもあんな目に遭ったのに、藤次の声を聞けば、心の波は穏やかになるのだ。名乗る声さえ、静かに脳を侵す。

 踵を返そうとしていた藤次は、何故だか立ち止まる。彼は琴乃をじっと見ていた。その訳を理解したように、琴乃が答える。

「琴乃と申します」

 藤次はどうしてわかったのかと照れくさそうに笑って、その場を後にした。

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