2-2 いつの時代の離婚事由ですか
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義母に連れられて婦人科に行った後も、驚くほどに美月の周りはいつも通りだった。
祐貴の帰宅はいつも22時過ぎで、夕食を一緒に食べた記憶はない。その分、朝は10時までに出社すればいいらしく、7時から勤務する日勤の家政婦が朝食を作る時間は十分にある。
一度、家政婦と一緒に朝食を作ったこともある。元々美月は料理をすることが好きだった。実家では、包丁で手を切ったら大変だとかオーブンで火傷をしたら痕になるなどと言われて、すっかり料理することを諦めていたのだが、せっかく「妻」というものになったのだからと、美月は張り切った。
テーブルに着いた祐貴はどれが美月の手によるものかと説明などしなくても分かったらしい。その日の朝食を一目見るなり美月が作ったものだけテーブルの端に避け、一切手をつけなかった。家政婦にたしなめられると、「俺はアマチュアの料理など口にしない」と言い放った。
呆然とする美月に、自分が完璧な人間だと思っている祐貴は当然のように告げた。
「不完全なものを体に取り入れたら、俺が不完全になる」
美月はこの時、祐貴とは一生わかり合えないだろうと理解した。わかり合うことも歩み寄ることもなく、ただ命じられたこと……後継者となる子どもを産み、時代の社長として完璧に育て上げること、それだけのために美月がいるのだと思うと、美月の心は重くなった。
美月には、自分が完璧な人間だと思える祐貴の方が、信じられないほど鈍感だと思った。本当に完璧な人だったら、相手を傷つけるような言動を選ばないはずだと思うからだ。だいたい、自分を完璧だなどと公言してはばからない人が、完璧であるはずはない。笹岡の次期社長として、持ち上げられているだけだ。いや、それなりに才能はあるのだろうが、その傲慢な精神に選民思想的な教育の痕跡を見た美月には、ただの我が儘なお坊ちゃまにしか見えなかった。
朝、着物に着替えて祐貴と共に家政婦たちが作った食事を取り、祐貴が出社するのを見送り、1日ただ座って過ごす。本を読むことも、外出することも禁じられ、スマートフォンは取り上げられた。家事を手伝おうとすれば「また坊ちゃんに叱られますよ」と家政婦たちに言われ、美月はまさにかごの鳥だった。義母たちの計らいで義母たちとは同居していなかったこともあり、昼間は家政婦たちが作業をする音しかしない。
しんと静まりかえった家には、人が住んでいるように感じられない。家政婦たちだって、本当に生きている人間なのだろうか、等と、時間が有り余った美月はどうでもいいことを考えてしまう。
庭を見つめ、空を見上げることはできた。だが、時計の針はなかなか進まない。食欲もないので昼食は食べず、軽い夕食も1人で済ませ、後片付けを済ませた家政婦たちが帰るのを見送る。
「美月様、そろそろ袷のお着物を出しましょうか」
その日、衣装係の家政婦が美月に確認に来た。
「もう、10月になるのね」
「はい。来週の水曜日が10月1日ですね」
「昨今は10月でもまだ暑い日があるのだから、袷は11月からにして、10月一杯は単)でもよしとしてほしいわよね」
「普段はお家の中にいらっしゃるだけですからねえ。とりあえず涼しげな色合いの単衣は先に悉皆屋に出しておきます」
家政婦の言葉が、美月の心の柔らかい部分に包丁を突き立てた。そんなことなど思いもかけない家政婦は、畳紙のまま何枚か着物を着物箪笥から取り出すと、家政婦たちの作業部屋へと運んでいった。
家の中にいるだけ。仕事をするわけでもなく、ただそこに存在するだけ。呼吸をして、食事をして、排泄をして、子をなすためだけに夫に抱かれる。それが美月でなければならない理由などどこにもない。美月の遺伝子を持った子が欲しいわけでもないし、もっと気が利く女主人であれば、家政婦たちも動きやすかっただろう。祐貴だって、もっと楽しそうに生きられたはずだ。
私がいけないの?
美月は唐突に、流産したと告げられた時のことを思い出した。義父も義母も祐貴も、誰1人美月の悲しみに寄り添ってくれなかった。それどころか、罪人のように扱われた。実家の両親からも「この役立たず!」と電話越しに罵られた。
そう言えば、腹痛を起こしたのは、本屋にいって本を探している時だった。スマートフォンで在庫があると確認できた店は、歩いて400メートルほどの距離だったから、運転手に車を出してもらうほどでもないと思った美月は1人で歩いて書店に向かった。そして、その書店で倒れて救急搬送され、「残念ですが流産です」と告げられたのだ。
帰宅した美月は、スマートフォンを取り上げられ、本屋に行くことも禁じられた。縁起でもないからだ、と祐貴は言ったが、おそらく義母に命じられたのだろうと美月は思った。その日以来、スマートフォンと本は、美月の生活から消えた。楽しみにしていたシリーズ物や、大好きだった作家の新刊が出版されたかどうか、今の美月には知る術がない。この家にはテレビさえないのだ。美月は外の世界から遮断されたこの邸の中で、ただじっと、息を潜めるように生活していた。
・・・・・・・・・・・
妊娠しにくい体質だと宣告されてから1ヶ月後、突然美月は義家族に呼び出された。祐貴と一緒に運転手付きの車で義実家に向かった。義実家に行くと息が詰まりそうな気がして美月は既に青い顔をしているが、祐貴は全く気に掛けることなく、ただ窓の外を見ている。
本家に到着すると、使用人たちの様子がいつもと違うことに美月は気づいた。今まで以上に、素っ気ない人が多い。違和感を覚えながら応接室に入った美月は、そこにいるはずのない両親が座っているのを見つけた。
「お父さん? お母さん?」
美月は驚いて祐貴の顔を見た。祐貴は東城の両親が来ることを知っていたようで、驚く様子もない。義母に美月は東城の母の隣に座るよう命じられ、困惑しながらも指示に従った。
「このたびは、娘がご迷惑を……」
「仕方ないことです。ブライダルチェックでも問題ないと言われていた訳ですから」
「ええ、では、サインさせましょう。美月、書きなさい」
目の前に置かれたのは、既に美月のサイン以外の全てが記入された離婚届だった。美月の書くべき場所には、既に捺印までされている。
「祐貴さん? これ……」
「美月に子どもが産めないなら、他の人に産んでもらうしかない。だが、他の女性が産んだ子どもを君に育てろというのも酷な話だろう? だったら離婚して、君も自由になった方がいい」
不要品とされた訳か。
義家族は冷たい目で美月を見ている。涙が落ちた。
「泣いている場合ではないだろう! 早く書け!」
父に強く言われて、美月は初めて自分の思いをぶつけた。
「私は祐貴さんとは結婚したくないとはっきり言ったのに、お父さんとお祖父様が無理矢理結婚させたんじゃない! それなのに今度も私の意志を確認せずに離婚させるのね! 最低!」
父も母も美月の声に反応しない。いや、聞こえないふりをしているのだ。祐貴だけは驚いたような表情で美月を見ると、「美月は俺と結婚したくなかったのか?」と言った。
「ええ。あなたが私では不満だと心の中で思っているのが、ありありと見て取れたから」
「知っていたのか?」
「確信はなかった。でも、仕方なく結婚するんだっていうのはよく伝わった。私を外に一歩も出さなかったのだって、祐貴さんは私が妻では恥ずかしかったからでしょう?」
「それは……」
「離婚に応じないと言っているわけではないのです。どうして一言、祐貴さんの口から説明してくれなかったのか、それはあまりにも不誠実だと言いたいのです」
美月の言葉に、一同は押し黙った。間違ったことは言っていない。だが、ここまで便利な操り人形としか見做してこなかった美月が声を荒らげたことに、そしてそれが正論であるために、誰も何も言えなかった、それだけだ。
美月は父親の手から万年筆をひったくると、怒りにまかせた字でサインした。書いた瞬間に父は美月の手から離婚届を取り上げ、恭しく笹岡の義父に手渡した。
「明日の朝、美月を引き取ります。美月はそれまでに荷物をまとめておきなさい」
悔しかった。それでも、美月は義家族に手をついて「お世話になリました」と言うことだけは忘れなかった。
「礼儀正しい、いいお嬢さんだったのだけれど、子どもを産めない女は嫁にしても仕方がないから」
義母の言葉に、心が抉られた。その後のことは何も覚えていない。祐貴に促されて自宅に戻ったが、祐貴は何も言わずに自分の部屋に閉じこもってしまった。
美月は荷物をまとめながら、3年半ここに住んでも、下着を交換したくらいで自分の為には何も買っていなかったと気づいた。誕生日プレゼントも、結婚記念日も、何も特別なことはされなかった。祐貴の誕生日には、家政婦に頼んでささやかだがプレゼントを用意し、食事もいつもよりもよいものを用意してもらっていたが、そもそも祐貴は夕食に時間には帰ってこなかったのだから、どうでもよいことだったのだろう。
食事の支度ができたと家政婦に伝えられた美月は、祐貴の部屋の扉に向かって声を掛ける。返事はない。玄関を見れば、いつの間にか靴がなくなっている。
翌日の朝になっても、祐貴は帰ってこなかった。実家が手配した引っ越し業者が荷物をトラックに運び込もうとしてスーツケース2つしかないと知るや、「今からでもキャンセルできますが」と言ってくれた。東城の父は4トントラックを2台手配していた。美月は申し訳ないと頭を下げ、帰ってもらった。
「あの、本当にこれだけなんですか?」
「嫁入り道具は一切不要と言われてここに来たから」
「ですが、お着物などは」
「あれは笹岡さんの趣味で誂えられたもので、笹岡家のお金で買われた物です。私が東城の家に持っていくわけにはいきません」
実家から手伝いに来ていた使用人が絶句している。美月は車のトランクルームにスーツケースを運んでもらい、最後に邸を振り返った。自分の家だという気持ちは、最後の最後まで起きなかった。
「あの、本当にもういいんですか?」
運転手に声を掛けられた。東城の家にいた頃、大学に通う美月を乗せてくれた運転手だ。
「いいんです。ゴミがいつまでもあるのは目障りでしょうから」
「ゴミだなんて……」
美月は「お世話になりました、どうぞ新しい奥様とお幸せに」とだけ書いた一筆箋が入った手紙をポストに入れると、頭を下げている家政婦たちに「ありがとう」とだけ言い、車に乗った。
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