1-6 できる男には秘密がある
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鍵を開けて部屋に入った美月は、スーツケースから明日着るスーツを取り出してハンガーに掛けた。オール電化タイプなのでガスの開栓に来てもらう必要もなく、すぐにお風呂にも入れる。昨夜の悩みは解決したが、本当に結婚することになって、なんとなく気持ちがわふわしたしている。その気持ちのままシャワーを浴びて、パジャマに着替えた。
さあ寝よう、と思って寝室を開けた美月は頭を抱えた。
マンスリーマンションで何もかも借りていた美月は、寝具さえ持っていないことを忘れていたのだった。ついでに、洗濯機も、掃除機も、冷蔵庫も、電子レンジも。照明とエアコンは備え付けのものがあったが、これだけでは全く生活できない。
「仕方がない、今日はこのまま寝ますか」
美月がつぶやいた瞬間、スマホの通知音が鳴った。手に取れば郁からのメッセージだ。
『美月ちゃん、そういえばお布団あるの?』
なぜバレている。何もかもお見通しだ。
『もしないなら、もう一組あるから貸そうか?』
なんというできる男!
美月は2分ほどためらってから、『お借りしたいです』とメッセージを送った。
『持っていくから、待っていて』
5分ほどでインターホンが鳴った。美月は急いで玄関に飛び出し、布団を抱えた郁を招き入れた。
「郁さん、ありがとう。今日は床に寝転がるしかないかと思っていたところ」
「もう少し早く気づけばよかったよ」
そう言って手前の部屋に布団を置いて美月の方を振り返った郁は、ぎょっとした顔をして顔を覆った。
「どうかしました?」
「美月ちゃんのパジャマ姿……いかん、帰る」
「はあ、とりあえず買うまでお借りしていいですか?」
「いいよ、あげる。他にも必要な家電があるだろうから、お金はそっちに回すべきだ」
「はい、ありがとうございます!」
美月の方を見ないようにしてそそくさと隣室に帰っていった郁に、美月ははっとして自分の服装を見た。
「ああ……パジャマだった」
どんな形式であれ結婚という形を取る以上、2人は家族になるという口約束を交わした。ただ、2人の間にはいわゆる恋愛感情がない。ないとしても、女性のパジャマ姿というのは、郁には刺激が強かったようだ。
それに郁さんは、誰とも付きあったことがないと言っていたわよね。
美月は一度結婚したが、元夫は美月の服装に何の感慨も持たなかった。ただ、その服がTPOに合っているか、そして高級なもの見えるかどうかを気にした。着物で生活することを求められたのも、「妻に高級な着物を着せられるほどの男だ」という称賛を得るためだったのだろうと思う。小紋や紬は許されず、いつも一つ紋の色無地や軽い付下げを着るようにと命じられた。どこにも出かけず、来客もない家の中で、なぜ絹の略礼装を着用しなければならないのかと美月は不満に思っていたものだ。
なんだか女性として見られたような気がして、少しだけうれしかった。友だちというものは相手を性的な対象として見ないものではあるだろう。だが、相手の性を尊重できることは、人として大切なことだと美月は思う。友だちだからと言って「こいつ、がさつだからさ」とか「女っ気感じないだろう?」なんて言う人はデリカシーに欠けている。
女性としてちゃんと見てくれる。それは、女性という性を自他共に認識する美月にとって、自尊心を守られたと感じられることだった。
郁は慌ててきてくれたのだろう、枕はあったがシーツはなかった。それがなんだか人間らしくて、美月は微笑んだ。
寝室に布団を運び込むと、ベッドフレームを買って布団を敷くか、ローベッドにして布団を生かすか、などと考えながら布団に潜り込んだ。ふわりと、郁が今日つけていたのと同じ香水の匂いがした。おしゃれな人だと思う。今度、何をつけているのか、聞いてみよう。誕生日がいつか知らないが、プレゼントにもいいかもしれない。郁の香りに妙に癒やされる自分を感じながら、美月は眠りに落ちていった。
・・・・・・・・・・
その頃、305号室では郁が悶絶していた。
これまで一度も性的な対象として美月を見たことはないし、おそらく今後もそういうことはないだろう。だが、パジャマ姿の美月は可愛かった。いつもキリッとしていた美月のイメージとは違った。
美月が訳ありだと言うことは、校長から聞かされていた。女性だけでは対応しきれないようなことがあったらサポートしてやってほしいとも言われていた。
校長が郁に美月の見守りを頼んだのには、理由がある。郁がアセクシャルを自認しているからだ。アセクシャルとは他者に対して性的欲求を抱きにくいという性的指向を持つ人のことを言い、それは自分の体と相手の性別を問うことがない。郁自身は自分を男性と自認しているが、中学生・高校生の頃は、女性を性的に見て喜んでいる同級生の中に入ることができず、自分はおかしいのではないかと悩んだ時期もあった。それが家族に問題を抱える郁の後天的なものなのか、先天的なものなのかはわからない。ただ、誰と仲良くなっても友だち止まりだった。
そういう訳で、郁は誰とも交際したことがない。美月のパジャマ姿を見てかわいいと思っても、手を伸ばそうという欲求は起きない。女性の中にはアセクシャル男性を「安全な人」と考える人もいるだろうが、本人にとっては極めて重たい問題だ。それが「なんとしてでも跡継ぎを」などというような家庭であればなおさらのことだ。
それは郁が実家と距離を置く理由の1つでもある。いずれは美月にも話さなければならないと思うが、もう少し距離を縮めてからでないとアウティングは難しい。
校長にだけ伝えたのは、校長が教育相談の世界で一目置かれた存在だったこと、それから独身教員を結婚させることに執念を燃やすようなお節介な先生が校内にいて、その魔の手から逃れるためだった。
外見がそれなりに整っている郁は、独身と知られるやいなやすぐにその先生のターゲットになった。ハラスメント以外の何物でもないのだが、本人はよいことをしていると思っているのでたちが悪い。校長にハラスメントを訴えてこの教員にお見合いの斡旋を止めてもらうようにするためには、カミングアウトが必要だったのだ。この校長ならアウティングなどしないだろうという信頼もあった。そして、それは今でも守られている。
美月は、独身だけでなく既婚の男性教諭たちからも興味を持たれていた。それを知った郁は、すぐに校長に報告した。そして、校長から美月を守る騎士となるよう、命じられたのだ。
「ックション、うわあ、寒」
郁は床の上に、毛布を敷いて転がった。そんな事情のある郁が、布団を二組も持っているはずがない。あれは郁が使っていた布団だ。美月が家具家電の話を全くしなかったことに気づいて慌ててメッセージを送ったら、案の定布団なしで寝るつもりだったようだ。
明日有給を取っておいてよかった。新しい布団のセットを買いに行っても、美月は昼間いないから、自分の布団を使わせているとバレないだろう。
翌朝、郁は再び顔を赤くした。シーツが目の前にある。シーツなしの布団を使わせたのかと思うと、ごめん、と謝りたくなったが、ここは敢えて触れないようにしようと郁は決めた。
世の中には、知らない方がいいことがある。これもその1つだ、と。
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