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1-5 おいしい蕎麦屋を見つけた

読みに来てくださってありがとうございます。

やっと「おいしいもの」が入ってきました。

これから作るのも食べに行くのも含めて、少しずつ入れていきます。

よろしくお願いいたします。

 受付時間ギリギリに市役所に着いた美月と郁は、急いで転入届を提出した。婚姻届について尋ねるとは時間外受付もしてくれるらしく、時間外受付の所にも婚姻届が置いてあった。そう言えば、芸能人が真夜中の役所に婚姻届を出しに行ったなんていう話もあったなと美月は思い出しながら、婚姻届を予備も含めて2部もらい、市役所を出た。この時期日の入りは18時くらいだから、17時の今、いかにも夕焼けらしいオレンジ色の空が広がっている。


「晩ご飯、どうする?」

「あ……」

「僕もまだ段ボール開けていないから鍋とか食器とかまだ使えないし、どこかで食べて行く? それとも何か買って帰る?」


 マンスリーマンションに引っ越してきた当初、自由になるお金もあまりなかったことから、100円ショップでとりあえず鍋などを買った。そう長くは住まないだろうと思ったからということもある。今回の引っ越しで改めて長く使える物を買おうと、美月は食器や調理器具を全て処分して来てしまった。


「その前にホームセンターに寄ってもらえませんか? 鍋とか全部処分して来たので、買わないと」

「それは明日以降に僕の持っているものを確認してからにしたらどうかな? 東城先生が使いにくそうだとか、これは自分の物を持っていたいっていうものをチェックしてから買いに行った方が、無駄な出費にならないと思う」

「いいんですか?」

「お互いの生活には踏み込まないつもりだよ。でも、夕食は一緒にと願ったのは僕だ。学生時代から使っているものだから傷んでいるものもあるだろうし、捨てた方がいいものもあるかもしれない。そういう意味でも、一緒にチェックしてくれると助かるな」

「ええ、そうしましょう」

「それなら今日はとりあえずどこかで食べて、帰りに明日の朝ご飯になるような物だけ調達して帰ろうか」


 郁はスマホで飲食店を調べ始めた。


「飲食店も大変だよね。格付けサイトみたいなの、便利だけれども変なことを書き込まれることもあるらしいし。あ、ここどう? 予約なしで入れそうだし」


 郁が見せてくれたのは蕎麦屋だ。夜営業がメインの蕎麦屋というものに馴染みのない美月だったが、その分好奇心が勝った。


「おいしそうですけど、お酒飲めないですよね?」

「昨日送別会であれだけ飲まされたんだから、今日は飲む気はなかったよ。それに、飲み会の時は飲むけど、元々あまり飲まないんだ。酒にはいい思い出がないからね」

「そうなんですね。私もほとんど飲まないから、お料理をしっかり楽しめそうですね」

「そうだね」


 市街地のはずれにあるその蕎麦屋には、既に車が何台も停まっていた。店の小さな木の扉は背がそれほど高くない美月には問題がなかったが、やや背が高めの郁には小さすぎたらしい。入る時に額を軽くぶつけていた。思わず笑った美月に、郁も柔らかく笑う。


「東城先生、そうやって笑っていた方がいいよ」

「え?」

「いつも、すごく肩に力が入っているから」

「バレていましたか」

「肩が上がっているからね」

「毎日緊張しっぱなしでしたから」


 BGMにジャズが流れるその蕎麦屋は、食事を楽しむ人や酒のアテとして蕎麦や蕎麦がきなどを楽しむ人で既に満席に近い状態だった。空いていたのは奥の半個室のようなスペースだった。座ると周りの目が気にならない。存在感は感じられるのに視線が気にならないという空間は落ち着けるな、と美月は思った。


「はい、メニュー」


 郁が手渡してくれたメニューを開くと、思ったより豊富なメニューに驚いた。


「決まった?」

「はい」

「すみませ~ん、注文お願いしま~す」


 こういう時に、すぐに奥さんに命じる旦那がいるが、郁は自分が動いてくれる。やはり元夫とは全然違うのだということを再認識しながら、美月は「天ざる蕎麦」を、郁は「ざる蕎麦大盛りとミニ天丼セット」を注文した。


「さっき他のお客さんが蕎麦湯を頼んでいたよ」

「いいですね。蕎麦湯って蕎麦がおいしくないと飲めませんからね」


 BGMがジャズからバラードに変わった。美月も知っている「My Foolish Heart」だ。テナーサックスが甘くメロディーを奏でていくと、蕎麦屋がまるでバーのような雰囲気に変わっていく。子ども連れがいないのは酒類を楽しむ店だからだろうと思ったが、この大人な雰囲気の店だと知る人であれば、雰囲気を壊さないように配慮したくなるような店だからだろうかと美月は思った。


「二次会三次会の後の締めはラーメンに限るっていう人がいるけれど、こういう店で蕎麦を締めにするのもよさそうだ」

「その方が体にも良さそうですね」


 そんな話をしている内に、料理が運ばれてきた。出てくるのも早い。ということは麺も細いのだろうと予想できたが、美しく切りそろえられた細麺に美月は思わず「わあ、きれい」とつぶやいた。


「いただきます」

「いただきます」


 まずは何もつけずに蕎麦だけを口に含む。噛むとしっかり弾力がありながらつるりと喉を過ぎていく。喉から鼻に抜ける蕎麦の香りに、美月は思わず目を閉じた。新蕎麦の時期なら、もっと香りが立つだろう。


「いい香り」

「おいしそうに食べるね。飲み会の時の顔とは全然違う」

「それじゃ、まるで飲み会の時のお料理がおいしくなかったって言っているみたいじゃないですか」

「実際、そうだったんじゃないの? 東城先生はそれなりの家のお嬢さんだったんだろう? なら、レトルトや電子レンジで温め直すだけの食材で回しているような飲食店の宴会料理に満足できるはずがない」

「そんなことありませんよ。確かに高級品とは違うかもしれませんが、あの価格で提供しながら利益も出せる企業努力とシステムには目を見張るものがあります」

「東城先生は、そういう見方をするんだね。経営に多少なりとも関わっていたっていうことが分かるよ」

「さあ、どうでしょう」


 二口目の蕎麦には、岩塩をごくわずかに振って口に含んだ。塩の甘みが蕎麦の味を引き立てる。


「東城先生のおいしそうな顔を見ていたら、僕もやりたくなった。岩塩、少しだけ掛けるの?」

「はい。つゆでいただくのもおいしいのですが、味が濃いのでつゆでいただくのはいつも残り半分だけと決めているんです」

「へえ、じゃ、僕もやってみよう」


 初めて岩塩で蕎麦を食べた郁は、目を大きく見開いた。


「うまいな」

「でしょう?」

「塩分の取り過ぎには要注意だな」

「確かに。夜中に喉が渇きます」


 こういうの、いいな。


 おいしいものをおいしいと言える。いや、自分がおいしいと思うものを、他の人もおいしいと言う。たったそれだけのことなのに、美月は心が震えるほどうれしかった。


「結城先生、天ぷらも衣が薄くてサクッとして、おいしいですよ」

「これも塩? 蕎麦つゆ?」

「一口目は塩がおすすめですね」

「オッケー」


 おいしそうにカボチャの天ぷらを頬張る郁に、美月は思いきって提案することにした。


「結城先生。私のこと、美月って呼んでください」

「いいの?」

「はい。だって、夫婦になるんですから」

「なんだか照れるね」

「ふふ。結城先生のことはなんて呼べばいいですか?」

「じゃあ、郁って呼んで。あと、僕に敬語を使うの禁止」

「分かった、郁さん」

「うはっ、結構ドキドキするもんだね」

「郁さん、彼女いたことないんですか?」

「ないない、彼女すっ飛ばしていきなり奥様ができた」

「なんですか、それ」


 なんだかおかしくて、美月はクスクスと笑った。


「ねえ、美月ちゃん」


 郁に呼ばれて、美月もドキッとした。顔が赤くなったのと自分でも分かる。その顔を見た郁も、顔を赤くして黙ってしまった。何とも言えない空気の中に、元気のよい声が飛び込んできた。


「蕎麦湯で~す!」


 ごくわずかな沈黙の後、「ああ、ありがとう」「いただきますね」という言葉をようやく発した美月と郁は、顔を見合わせてクスクス笑った。


「明日は僕がご飯を作るよ。美月ちゃんは明日、辞令伝達式で県庁に集合だろう? その後勤務校に顔を出して辞令書を校長に見せて、いろいろ事務手続きがあるから」

「郁さんはいいんですか?」

「僕は赴任期間で有給取ってあるから」

「赴任期間?」

「引っ越しを伴うような異動の時には、そういう名前で有休が取りやすいんだ」

「へえ。そういうのも含めて、色々教えてくださいね」

「もちろんだよ」


 楽しく話をしながらマンションに帰る。隣どうしだし、連絡先は1年ほど前に他の先生たちと一緒に交換してある。何か用があればすぐに連絡が付く。


「これからよろしくね、美月ちゃん」

「こちらこそよろしく、郁さん」


読んでくださってありがとうございました。

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