1-3 共生婚の提案①
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インターホンを鳴らすと、今までのマンスリーマンションの音とは違う音がした。
「開いているから、そのままどうぞ」
インターホン越しに郁の声がしたので、美月は恐る恐るドアを開けると、「お邪魔します」と言いながら中に入った。
部屋の作りは、美月の306号室を反転させた形のようだ。玄関に入ってすぐにある扉を開けば、郁が段ボールを隅に追いやりながらスペースを作ってくれているのが見えた。やや高めの丸いローテーブルには、セットなのだろう、同様の素材の座椅子2つ、向かい合わせに置かれている。
かつて郁の恋人がこの椅子を使っていたのだろうか、等と勝手に想像が膨らむ。
「椅子が2つもあるなんてって、思うだろ? 前の学校に赴任した時に近くのホームセンターで買ったんだ。椅子2つとテーブルのセットの方がテーブル単品より安いってどういうことだよって思ったんだけど、大学卒業してすぐだったからお金もなくて、まあ足りないよりは多い方がいいかって……ははは、なんだか言い訳みたいだね」
そんなことを言いながら、レジャー用のクーラーボックスからペットボトルを取り出すと、美月に1本手渡してくれた。ジンジャーエールだ。
「冷蔵庫のスイッチ入れたばかりだから、まだ使えないんだ。醤油や味噌は前の家で使い切れないのが分かっていたから、クーラーボックスに入れて荷物と一緒に運んでもらった。保冷剤をたっぷり入れておけば、冷蔵庫が使えるようになるまでは代用できる。覚えておくと次の引っ越しの時に使える知識だよ」
美月は郁から醤油だの味噌だのという言葉が出たことに驚いた。元夫の口から「醤油をもって来い」という言葉は出たことがあったが、男性が自分で調味料を管理しているということが新鮮だった。もらったジンジャーエールは、冷たくはないがぬるくもなさそうだ。美月の口には馴染みのない、だがよく知っている炭酸飲料だ……元夫の、好物だったから。
「あ、違うものの方がよかった?」
「いいえ、見たことはありましたが飲んだことがないので、どんな味かなと思って……」
「そうなんだ。そういえば、いつも水筒を持ってきていたよね」
郁は座椅子に座った。
「改めて、昨日は驚かせてごめん。登場先生が結婚に拒否感を持っていることを知っていたのにどうして結婚なんて言い出したのか、ちゃんと説明する」
「はい」
・・・・・・・・・・
「前にも言ったけれど、僕は関東の出身で、この県にある大学の教育学部に入学するためにここに来たんだ。教員採用試験って、複数受ける人が多いだろう? あ、東城先生はこの県一択だったか。学生だと、3つや4つの県や市を受けるの、普通なんだ。
僕が合格したのはこの県と地元の県だった。地元に帰らなかったのは、前にも少し話したけれど、家族の所に帰りたくなかったから。あんまり仲がよくないんだ。
だから、自然と縁遠くなるように、こっちでの就職を決めた。気が楽になったのはよかったんだが、問題が1つ発生した。ここには僕の血縁関係者はいない。僕の身に何かあったとしても、誰も助けてくれる人がいないんだよ。大学生の時はそれほど問題だとは感じなかったけれど、社会人になったことで1人っていうことを意識するようになった。
もしこのまま明日の朝、目覚めなかったら?
もし急遽入院しなければならなくなった時に、同意書を書いてくれる人がいないとどうなるのか?
甘い考えだと思うよ。でもね、一度不安を感じると、誰かと繋がっていたい、特別な関係でありたいって思う気持ちが強くなった。それが恋愛だったら自然だったんだろうけれど、僕の場合、恋愛や結婚っていう形じゃなくてもいいんじゃないかと思ったんだ」
「恋愛や結婚という形に、拘らない?」
「うん。最初はルームシェアでもいいかなと思ったんだ。そうすれば、風呂場で倒れていても気づいてもらえる。でもさ、ルームシェアって、結構怖いかもしれないって思ったんだ」
「どうして?」
「所詮赤の他人さ。それに、許可を得て生徒の個人情報を持ち出し、家で仕事をすることだってあるだろう? そんな時、ルームメイトがそれをのぞき見してしまったら? 悪意のある奴ならその情報を拡散させたり売ったりするかもしれない。教育業界の人間じゃなきゃ、テストの点数や進路希望先の情報がどれほど守られるべき情報かなんて、考えもしないだろう。だから、よほど信用できる人でなければルームシェアはできないという結論に至ったってわけ」
美月は頷いた。時々「生徒の個人情報が入ったUSBメモリを教員が失くした」と全国ニュースになる。紛失防止のために、美月が講師になってから、貸与されるパソコンからUSBメモリに情報を書き込めなくなった。USBメモリからパソコンにデータを移すことは可能だが、USBメモリやSDカード等で情報共有できなくなり、共有サーバにデータをコピーして、元データは鍵付きの自分のフォルダを置くしかなかった。
私物のパソコンやタブレットを持ち込んで業務に使ったり校内LANに接続したりする場合は、情報課という分掌の担当者を通じて校長、そして県の教育委員会に申請し、許可を得なければならない。そうすれば私物のパソコンで作った機密度の低い授業用のパワーポイント資料や学級通信などは、家でも作業ができるようになっている。そんな持ち帰り仕事まで加えれば、教員の労働時間が1日15時間を越えるなどあっという間だ。
「ただでさえ慎重に扱わなければならないものがあるのに、その扱いを家の中でまでっていうのは肩が凝る。それに、ルームメイトでは対処できないこともあるんだ」
ジンジャーエールをまるでビールのようにぐいっとあおると、郁は続けた。
「入院とか死んだとか、そういう時には、ルームメイトじゃ法律的なことも含めて動けない」
「確かに」
夫婦別姓の問題で、姓を変更したくない、仕事の都合で姓の変更をするわけにはいかない状況の2人が、法律婚ではなく事実婚を選ぶケースもある。事実婚の場合法律上2人の関係は赤の他人ということになるので、入院の手続きもできなければ保険や銀行などの手続きもできない。つまり、事実婚を選ぶと保障がないのが現状だ。それが単なるルームメイトであれば頼みたいことほどできないというのもうなずける。
「逆に、外国人が在留資格を得るために偽装結婚することもある。あれはそもそも家族になるつもりがないのだから、アウトだ」
「そうですね」
そこでなんだよ、と郁が身を乗り出した。
「共生婚なら、いいとこ取りができる」
読んでくださってありがとうございました。
グルメはもう少し先になるかな。
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