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1-2 漫画みたいなことが現実に起きた

読みに来てくださってありがとうございます。

早速のブックマークも、ありがとうございます。

よろしくお願いいたします。

 翌日、美月は全ての荷物をパッキングすると、マンスリーマンションの管理人が出勤する時間まで部屋を丁寧に掃除した。掃除機もマンションに備え付けの物だ。掃除機を掛け、雑巾で床を水拭きし、水回りの水気も取る。出たゴミだけは管理人に預けるほかないが、雑巾2枚と掃除機の中身程度の量なら許してくれるだろう。


 管理人は10時から出勤ということになっているが、実際には9時頃にはいつも出勤して、花壇の水やりや草取り、共用部分の清掃やゴミ集積所の片付けなどをしてくれている。日勤の管理人と平日に顔を合わせることは稀だったが、ここのマンスリーマンションは1週間、2週間単位でホテル代わりに利用するビジネスマンも多い。休日に入居する人も少なくないため、休日も勤務している。数人で複数の物件を交代しながら勤務しているが、休日はいつも同じ人が勤務していたので、土曜日午前中の部活指導を終えて昼過ぎに帰宅した美月は、休日担当の管理人と話をすることがあった。顔見知りになったことで、病院やスーパーやドラッグストアの場所、それにおいしい飲食店などを教えてもらうこともあった。


 車がないとこの県では生きていけないよ、と自動車学校まで紹介してくれて、美月は土曜の午後と日曜日を中心に自動車学校に通い、なんとかこの1年半で免許を取った。自動車を買うだけのお金はないし、正採用されないとローン審査も通らないから、まだ美月はペーパードライバーであるが、夏休みになったらボーナスとこれまでに貯めた物の一部を頭金にして自動車を購入する予定だ。


「管理人さんには、本当にお世話になりました」


 美月がそう声を掛けると、管理人は「寂しいねえ」と言いいながら、鍵とゴミを預かってくれた。


「マンスリーマンションっていう所は、人の出入りが激しいところだからねえ、挨拶なんてしない人が多いのに、東城さんは会えば挨拶してくれたからねえ。それどころかこっちから挨拶しても、無視する人が多いんだよ」

「そうだったんですか」


 美月はバッグの中から小さめの菓子折を取りだした。


「ありがとうございました。おやつ程度ですが」

「いやあ、いいのに」

「いえ、ゴミ出しの仕方を教えてくれたのは管理人さんでしたから」

「そんなこともあったねえ」


 ゴミの分別などしたことがなかった美月のために、この市の分別について教えてくれたのは、確か入居して1週間程度しか経っていなかった頃だ。一人暮らしに戸惑う美月はこの管理人に随分助けられた。


 思い出は尽きないが、いつまでもいるわけにはいかない。


「じゃ、私、行きます」

「ああ、頑張って。きっといいことが待っているよ」


 美月はマンスリーマンションを後にした。まだこの市を離れるのが名残惜しくて、気に入っていたのに忙しさのあまりたった数回しか行けなかったカフェに向かい、最後のコーヒーを飲んだ。店長が描くラテアートが可愛いと評判で、生徒と鉢合わせしたこともある店だ。かわいい犬のラテアートに気分をよくして電車に乗り、不動産やに立ち寄って鍵と書類を受けとって引っ越し先に移動したというのに。


 嘘でしょう?


 新しいアパートの部屋番号を確認して鍵を差し込んだ時、隣の部屋から引っ越し業者が出てきた。隣人も今日引っ越してきたらしい。作業が終わって帰るところなのだろう、隣人が扉から顔を出して「ありがとうございました」と作業員たちを見送っている。


 聞き覚えのあるその声に、そして見覚えのあるその後ろ姿に、美月は心臓が口から飛び出しそうになった。


「結城、先生?」


 美月の声にこちらを振り返った男性は、こちらを美月と目が合った瞬間、目を丸くした。


「と、東城先生?」


 美月の服装は、スリムなデニムパンツにニットのアンサンブル、その上にスプリングコートを羽織っただけという姿。体育祭の時にはジャージ姿ということもあったが、学校ではいつもスカートスーツをきっちり着こなしていた美月が、こんなラフな姿をしているのを同僚に見られたのは初めてだ。その上、いつもはシルバーの四角い眼鏡だが、黒くて大きな丸縁の眼鏡を掛けている。


 だが、その驚きは郁を目にした美月にしても同じだ。郁は今、青い縁の眼鏡を掛けているが、学校ではいつもコンタクトレンズだし、夏こそポロシャツを着ているがそれ以外の季節はきっちりワイシャツにネクタイ姿の郁が、いかにも部屋着といった感じの黒いスウェット姿。それはパジャマではないのかという言葉を飲み込んで、美月は尋ねた。


「もしかして、結城先生は305号室に?」

「ええ、今日引っ越してきました。東城先生も鍵を開けているということは……」

「はい、306号室です」

「うわあ」


 郁が顔を片手で覆った。昨日の事があるから、お互い気まずい。引っ越した先で隣同士だなんてまるでドラマか漫画の世界の話のようだと、2人の脳内では同じ事を考えていた。


「あ、あの、昨日はごめんなさい!」

「東城先生、ここ、廊下なんで、中で話しませんか? 昨日の話のこと、ちゃんと説明したいんです」

「分かりました」

「東城先生は、まだ部屋にも入っていない?」

「ええ、鍵を開けるところで……」

「じゃ、荷物置いてきてください。段ボールだらけですけど、僕の部屋なら座る場所あるんで」

「あ……」


 これまで家具家電付きの部屋にいた美月は、ベッドもテーブルも椅子もテレビも洗濯機も、ないことを思いだした。そう言えば今日、ここに来るまでにホームセンターに行って注文してくる予定だったことを、すっかり忘れていた。数日前、職員室で私物の片付けをしていた時、自分の荷物は着替えと本くらいしかない、家具も家電も備え付けだからと笑って郁に話したことを、郁は覚えていたのだろう。


「僕の部屋に来るのが嫌なら、外に出ますか? ちょっと込み入った話になるんで、カラオケボックスとか個室になるような所だといいんですが」

「ええと、まだ周りのことがわからないので、お邪魔してもいいですか?」

「いいですよ。鍵、開けておくので、東城先生のタイミングで来てください」

「分かりました」


 郁が扉を閉めたのを確認すると、美月は大きく深呼吸をした。1つ。2つ。そして、鍵穴に差し込んだままだった鍵を回した。ガチャッという音がした。ノブを回して扉を引く。


 オンライン内見だけで契約した美月なので、この部屋を実際に見るのは初めてだ。玄関は小さなホールになっていて、すぐ目の前に室内と玄関を区切る扉がある。中が見えないこの作りも、美月が気に入ったポイントの1つだ。これなら宅配業者が来て玄関の扉を開けても、室内は見えない。室内に続く扉を開けると、キッチンのある6畳間。この部屋は郁が住む305号室と隣接していることになる。とりあえず、ボストンバッグとキャリーケースを床に置いた。反対側に引き戸があり、8畳ほどの寝室がある。更に奥にはクローゼットがある。4枚の引き戸を1カ所にまとめれば、一部屋として使うこともできる作りになっているようだ。今までのマンスリーマンションの広さと比べると1.5倍くらいはある。寝室の南にはベランダが、東側には窓がある。この部屋は角部屋なのだ。


 美月はバス・トイレ・ベランダを一通り確認すると、マンスリーマンションから持ってきたトイレットペーパーをホルダーに設置した。それからキャリーケースから小さめの斜めがけショルダーを引っ張り出すと、スマホと財布とハンカチだけを入れた。靴を履き、部屋の鍵を閉め、305号室の扉の前に立つ。1分ほど逡巡した後で、美月はインターホンを鳴らした。


読んでくださってありがとうございました。

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