愛したかった日常
さも最初からかばね町の住人だった様な雰囲気が出ているが、人生の全体で考えれば俺がジュードだった期間なんて一年どころか半年も経っていない。それなのに何故だろう、人は記憶を片隅に追いやってしまうのだろうか。銃声が聞こえず、乱闘がなく、探そうとするだけですぐに死体が見つかる事もない。闇市も開かれず、無免許運転もなく、誘拐もされなければ人間災害も居ない。
あまりにも平和で、元々この世界の住人だった俺でさえ浮足立つ様子を隠せない。暫くは龍仁一家の領地なので、ニーナが歩く事に慣れるまで俺も心の準備を整える事にする。
「あ……う、きゃっ!」
「流石に目が見えないのに歩くって難しいよな。杖とか持ってた方がいいのかな」
「ほら、これ貸してやっから使ってみな」
「すみません。見ず知らずの俺達に」
「ま、こういうのは持ちつ持たれつってな。中で十分理解したろ。俺も暇なんだよあんちゃん」
龍仁一家の人間もたまには息抜きに町の外で羽を伸ばすという事か。杖で体重を支えようとして、支えるまでは良いが歩こうとする転んでしまうニーナを何度も抱き留めて練習させる。この様子じゃ俺が手を引いて歩いてもまともに進めそうにない。せめて何もない所では歩けるようになってほしい。
「どうして私、目を潰してしまったのでしょうか……」
「それは……責められるような事じゃないよ。君の環境は異常だったんだ。ほら、もう一回やってみよう。んー目が見えてる俺がやろうとしてもな……」
目を瞑って歩けない訳じゃない。最初から視界がないのと目を瞑って消す視界は全く別の概念だ。目を瞑る直前、俺には視界があった。記憶を頼りに進めば、まあ直線くらいなら問題なく歩ける。体幹が歪んでたりすると、まっすぐ歩いたつもりが曲がっていたみたいな話はあるだろうが、それはともかくとして。
ニーナにはその記憶が作られない。だって最初から目が見えていないから。寄り添おうとしてもそれはなんちゃってだ。
「杖で地面を叩いた反響で空間を把握するとかって出来ない……か」
「コウモリかなんかだな! そういう事出来る奴は居るらしいが、まあ一朝一夕じゃ無理だろう。嬢ちゃんは初めて杖すら触ったようだしな」
「うう、まだ頑張らせて下さいませ……」
「大丈夫だって。明らかに君が歩けなさそうな場所は俺が抱きかかえるから」
四六時中抱きかかえていればこんな練習をする必要はないかもしれない。その通りだ。だがそれは本当にニーナの為になるのか? 外の世界を自分の足で歩くという経験こそ重要ではないのか?
精神的な話は抜きにしても、運動しないと筋力が衰えて本当に使い物にならなくなるかもしれない。だから歩かせたい。俺にどれだけ迷惑がかかってもいいから。
そうして二時間程練習に費やし、ニーナの歩きはおぼつかないながらもまともになってきた。
「杖があった方がいいかい?」
「はい。杖があれば……あ、慌てなければ高低差くらいは把握出来ます。あんまり早くは動けません、けど」
「おーおー。んじゃあその杖は貸してやんよ。戻ってくる時に返してくれや。このマンションの二〇一号室に俺はいっからよ。じゃあなー」
「すみません、親切にしてもらって。名前は、聞かない方がいいんですかね?」
「詮索屋は嫌われるってか? はっは。町の中じゃねえんだからそんなこたぁねえけど、名乗る程のモンじゃねえよ。大体俺もよ、ヤクザ稼業に疲れてここに居んだから、細かい話はなしにしようぜ。ふあ~あ。じゃあ、寝るわ……」
名もなき極道との別れを背に、俺達は今度こそ本当に外へと歩き出した。暫くは高低差もなければ凹凸もない綺麗な地面が続いている。かばね町は、度重なる人間災害の暴威に晒され路面状況が劣悪だ。復興がまるで間に合っていない。川箕の車に乗せてもらっている時に景色を見たが、広がったエリアはまだまだ復興自体が終わっていない様子。一番復活しているエリアは果たしてどこの組織が取った場所なのだろう。
「静か、ですね。騒がしくないです」
「確かに川箕の家は騒がしいよな。銃声然り、夜になったら誰かが大抵乱闘してる声がする。でもこれが普通なんだよ。おかしいのは俺達が生きてる場所であって、日本って国は本来世界でも指折りの安全な国なんだ」
「そうなのですか?」
「銃が合法的に販売されてる国でもないから、それだけである程度は安全だよ。肌の色が違うからって何がどうなる訳でもないしな。肌が白かろうが黒かろうが、俺達にとってみれば外国人で一括りだ……あー、お互い様かな」
かばね町には良い奴も居ると訴えても外の人間は一括りにするし、それが安全に配慮するなら正しい行為だ。この辺りのすれ違いはどうにもなりそうにない。この町に犯罪者が集結しているのは事実だし、人間災害は相変わらず存在している。
―――じゃあそんな安全な国なら、本来かばね町なんて成立させないと思うんだけどな。
ニーナに売り込んでおいて何だが、ずっと気になっている事だ。自分で治安をアピールすればするほど、じゃあどうしてこの町がこうなるのを放っておいたのかが分からない。ここも間違いなく日本なのに。
龍仁一家の息がかかった地帯を抜けて、本当に外へと出た。閑静な住宅街から一気に交差点へ。車の通過する音や風が怖いのだろうか、ニーナは反対側に回って俺の陰に隠れた。
「あ、危ない気がしますっ」
「正解だ。車が走ってる。君はずっと家に居たから慣れないよな」
夏目十朗の悪行は全国的に報道されたかもしれないが、やはりそんな男が外に出ているとは露ほども思われないらしい。幾ら目が見えなくてもこんなあからさまに目隠しをしている少女は何処にでもいないだろうに、気づかれない。それはながら見携帯で歩いているからか、非注意性盲目が働いて『日常』の風景として処理されているのか。
「ここは所謂都会じゃないから、まだ静かな方なんだ。日帰りで帰るつもりだからそこまで遠い場所にも行ってやれないけどそれでもいいなら何処に行きたい? 具体的な店名とかはいいよ、何がしたいかとかでいいから」
「そ、そうですね。その、申し訳ないのですがずっと歩く練習をしていたらお腹が空いてしまって……何処かでお食事にしませんか? 人が居ても構いません。騒がしくても、ジュード様は傍に居て下さいますから」
「食事か。確かに本来育ちざかりであるべきだし、沢山食べるのはいい事だよ。どういうのがいいんだ? フレンチとか?」
「ジュード様が普段食べていらっしゃるようなモノで構いません。庶民的な料理?に興味があります。お父様はお抱えのシェフが手掛ける料理しか許してくださいませんでしたから」
「……? 好きな料理を作ってもらえてたんじゃないのか?」
「いえ、お父様の望んだメニューを。美味しかった事は間違いないのですが、その……」
ニーナは言葉に詰まって、黙ってしまった。言いたい事は何となく分かる。俺だけじゃなく、多くの人間が感覚でのみ完璧に共感出来るのではないだろうか。『気分じゃない』という奴だ。
美味しいから文句は言えないけど気分じゃないなんて言える間柄ではなかったのだろう。これまでもその節はあった。川箕が何を造っても彼女が文句を言ったなんて聞いた事もない。
「分かったよ。じゃあ行こうか、ラーメン屋とか」
「そうです! ラーメン! 私、そういう料理を食べてみたかったのです!」
「食いつきがいいな。そういや、俺も長いことラーメンなんて食べてないな。食べたら温まりそうだし丁度いいな」
「後、後! お洋服を買いたいです! ジュード様に、選んでいただければ……いいなと」
「よ、洋服……か。ああ、うん。分かった。確かに、目が見えない人はお洒落禁止なんてルールはないしな」
しかし問題は、ファッションセンス。
川箕に電話しようかな……
こんな事なら一緒についてきてもらえば良かったかもしれない。ラーメンを食べてる間にでも名案が思い浮かぶと良いけど。
「あ、後! 公園で遊んでみたいです! 遊具は危険だからと、お父様には禁止されていたのでっ」
「禁止されてばっかりだな」
抑圧なれど、親の愛。全ては子を想うが故? そうは思いたくない。俺も抑圧をされてきた側だ。相手に伝わらない愛なんて愛ではない。『お前の為を想って』とか『俺を助けると思って』とか、そういう人の気持ちに委ねる様な身勝手は嫌いだ。その言葉自体が嫌いというより、こういう事をいう奴が信用ならない。身勝手の正当化だと素直に言ってくれた方がまだマシだし、そういう思想だから端から虚言壁を公言する奴と友人になってしまった。
真司は最低なクズだが、それ自体は今も後悔はしていなかったり。
「……うん。近くにあったよ。行こう」




