烈日の胎動
意識を失っている時間を人間が知覚する事は当然出来ない。目が覚めたのは上っていた筈の太陽がすっかり沈んだ頃だ。
「…………透、子。川、箕」
記憶はハッキリとしている。意識がなくてもないなりに俺はずっと考えていたつもりだ。真司の奴は一体何を俺に打ったのだろう。倦怠感がまだ体に残っている。でもここでゆっくりしている時間はない。確かめないと。どうなったのか。感覚的に体を動かすのはまだ難しいようなので、思考を当てはめて補助をする。まずは腕で上体を起こす、足に力を込めて立ち上がる。扉に向かって歩く。
―――は、はあ!?
「あの野郎…………!」
閂をかけたか、元々そんな機能は備わっていないし鍵を借りられたとも限らないからそもそもの開閉を物で邪魔されているのだろう。どうする、屋上に閉じ込められた。閉じ込められた! ここは外だけど、俺が学校に向かう方法がない!
残念ながら非常階段も学校には設置されていない。用意された避難ルートは飽くまで校内を経由するルートのみだ。緊急の滑り台みたいな物もあったような気がするが、外に閉じ込められている以上使う余地がない。
そもそも屋上はフェンスに囲まれている。自殺防止の為にその高さは軽く上るには高すぎて衝動的な自殺の防止には非常に良く役立っている。それでも自殺をしたい強い意志を持った人間でも、最後に待ち受けてる有刺鉄線がやる気を削ぐ。
自殺の多くは、楽になりたいという動機で行われる。
投身自殺は失敗すると悲惨だが、成功すれば痛みもなく終わらせられるだろう。三階程度で確実に即死するかは俺に判断出来ないが、ともかく痛みを味わいたくないというのが常である。有刺鉄線は痛いだろう。死ぬ事には繋がらないかもしれないが、死ぬまでに痛い。それが抑止に繋がっている……とされている。効果のほどは不明だが、自殺者が居ないのは事実だ。
「…………」
フェンスの網を掴むと、倦怠感の抜けてきた体を必死に動かし素早く網を上った。上の有刺鉄線だが、学ランを脱いで上に被せる事で比較的安全に通過する。外側に張り付いて縁に立つと、死を呼ぶ風が俺の頬を撫でた。
―――少しでも気を抜いたら、風に押される。
これはここまで来てようやく思い止まろうとする人間を殺す風だ。気は抜かない。ゆっくり背中を向けてその場から足を下ろし、爪先の引っかかる場所を探す。
「はぁ、はぁ…………俺は、諦めないぞ」
疲労ではなく、緊張で息が大袈裟に上がってきた。だけど力を緩めたらその時点で死亡だ。しかし一階までこの調子で降りるのも無謀。何処かに開いている教室はないだろうか。三年生のベランダに飛び込むと、誰の姿もなくなっていた。かといって教室が大破している訳でもなければ誰かが残っている訳でもない。机は少し倒れているが、それを違和感と呼ぶにはどうも、ここは平時から治安が悪すぎるから。
「おい! 誰か! 誰か開けられるか!」
放課後だから誰も居ない? そのような感じはしない。もし通常通り部活を行っているなら下から声が聞こえる筈だ。何も聞こえない。何かあったと考えるのは当然だろう。そしてその何かとは、真司が言った…………
「…………」
脳にはリミッターがあるらしい。潜在能力の話ではなく、良識の話だ。硬いと分かっている物に対して鍛えもしないのに全力で殴れる人間は少ない。虚空では全力を出せても、怪我してしまうかもという脳の想像が力を加減してしまうのだ。暴力が本来衝動的であるのは、このリミッターがかかるよりも早く手が出るからである。だから人間は全てが終わった後―――つまり殴った瞬間に正気に戻る訳で。
「…………」
学ランを出来るだけ拳に分厚く撒いて、窓に向けて全力の一撃。いや、違う。加減した。身体が怖がっている。
「俺! 加減するな! 血が出てもいいんだ! 割れよ!」
ドン、ドン、ドン、ドン、ドン、ドンドンドンドンドン!
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。殴って殴って殴って殴って殴って殴ってそれでもガラスが割れず、手を痛めるばかり。
「割れよ! 割れってんだよ!」
透子は? 川箕は? 確認しないといけない。こんな所で諦めたせいで二人が死んだなんて言われたらもう生きていく理由がない!
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
全力の突進が遂に窓ガラスをぶち破った。拳なんて生温い。素人が重さを加えないでどうする。
「うう、く、うあああああ…………!」
代償にぶつけた上半身から顎の辺りにかけてガラスの破片が突き刺さるばかりか、勢い余って転倒した際にも破片が腕に突き刺さった。痛みで身体が満たされる。死を望まぬ身体が動くなと命令を与える。黙れ、俺が主人だ。
「透子! 川箕!」
右腕に力を入れると破片が筋肉に食い込んで痛い。無事な左腕で扉を開けて廊下に出ると、すっかり人気が無くなっていた。これでは放課後ではなく……真夜中みたいだ。
「二人共……い、生きてるか! 生きてるなら、返事を! して……くれ…………!」
出血してしまうが、破片は抜いた方が良いと判断した。少し体を動かすだけなのにまるで杭を打たれたように全身が傷口を締め付けて痛いのだ。代わりに滴る血液が俺の寿命。流れ切ったら、気を失うだろう。
階段。
「…………!」
手すりにお尻を乗せて滑るように移動する。ただしブレーキは効かないので壁にぶつかるしかない。折り返し、繰り返す。
二階の廊下は、塗り絵のように真っ赤な鮮血で満たされていた。
「うわっ!」
まだ生気を帯びた血に足を取られて転倒する。真っ白いワイシャツが一気に赤く染まり、重くなった。身体が重いのは、不味い。学ランを投げ捨てて、歩き続ける。
「透、こ! かわ、箕!」
叫ぶ。力の限り、俺の命が尽きるまで。二人が無事ならそれでいい。正常な倫理は歯車を失い、理性は朦朧として認識出来なくなった。何でもいい。二人が無事ならいい。早く、無事な様子を見たい。見せてくれ。
「たのむ…………いきてて、くれ」
B組の人間は空、C組もそう。Dも、Eも、Fも。この惨劇を誰も知らずにいるみたいに、もぬけの殻だ。ならトイレはどうだろう。二階で一番使われている女子トイレに入ると、
「な、夏目え!」
「…………か、わ。み。川箕! 無事だった……か!」
川箕燕は女子トイレの一番奥の個室に隠れていたようだ。見たところ怪我はないが、代わりにブラウスがところどころ引き千切れている。
「こ、怖かったよぉおおおおおおおお!」
「おぐ…………」
どう見ても重傷な人間を頼りに抱きしめるのはどうかと思うが、それを注意する体力すら俺にはなかった。含んだ血液が彼女のブラウスに移り、忽ち真っ赤に染め上げる。川箕は気にも留めず、俺の中で泣きじゃくった。
「うぐ、えぐ、ひぐ、あぐ。こ、こわか。こわか…………」
「…………何が、あった」
泣きじゃくる彼女に説明を求めるのは酷だが、当事者なら詳しい説明が出来る。途中途中に嗚咽が混じって聞き取りにくかったが、要約するとこういう事だ。
休み時間に入った瞬間一部の女子に拘束され、また一部の男子と共に体育館に連れられて行った。D組では川箕燕を殺す代わりにアダルトビデオを撮影してかばね町に流す事で賞金相当の売り上げを得ようという目論見が生まれていた。新聞部の一葉真司からは現役女子高生の裏ビデオは高く買い取られると聞いていた為、お小遣い稼ぎついでに男子は気持ちよくなってしまおうという魂胆だったと。
元々が殺せという話だったので暴力に訴えかける事も辞さない集団に川箕はそれでも抵抗した。だが時間稼ぎにしかならず、注射器で大人しくさせられた所を――――
「……なんて言った?」
「か、壁を突き抜けて、突風が……ふ、吹いてね。みんな、体育館の壁で、爆散しちゃった」
「…………?」
「それで、ち、力が入らなくて動かないでいたら、だ、誰かが来て。覆面の人。私をここに運んでくれたの」
「…………と、とにかく。無事で良かった。無事で、本当に良かった」
体からは刻一刻と血が流れているのに、何故だろう。体に力が漲っているのは。彼女から体力を貰ったように軽い。力が出る。
「透子は何処に居るか分かるか? さ、探しに行かないと……」
「な、夏目っ。や、やだよ。ここに居てよっ! 透子ちゃんなら……し、心配ないから!」
「そういう訳にも行かないだろ。俺のお父さんが遂に狂いやがったんだ。一番狙われるのは透子だよ……何処に居る? 当ては、あるか?」
「――――――た、多分。校庭だと思うけど」
校庭?
外側から降りた時は何も聞こえなかったが、そこに隠れているのか。いや、確かに開けた場所なら遠くから見渡せるからと捜索を怠る可能性は高い。行かないと。
「……俺は、行くけど。いつまでもそんな恰好じゃ困るだろ。学ラン、血塗れで悪いけど」
「え、あ…………ありがと。せ、せめて気を付けて! みんな、おかしくなっちゃったから!」
彼女の頭に被せてから俺は出来る限りの早足で非常口まで向かった。こっちから出れば直接校庭だ。確認するのも早い。上履きの事なんて一々気にしていられるか。
校庭には、肉の山が築かれていた。
全校生徒、ではないと思う。確信は持てない。少しずつ近づいていくと何が山を作っているかハッキリと見えてくるが。肉だ。肉としか言いようがない。潰され、壊され、切断され、捥がれた様々な肉。原型を留めている存在なんて殆どいない。体育祭のシーズンでもなければお世辞にも雑草に彩られていた校庭も、今は赤いじゅうたんを敷いたように染まっている。ところどころに地割れが起きているのは…………何だろう。何故だろう。考えたくない。
「とう、こ」
俺が近寄ったのは何もこんな悍ましい光景を目に焼き付けたかったからではなかった。日傘を差して座り込む彼女の姿があったから。日傘を差すのは、透子しか居ないから。
彼女は山から少し離れた所で体育座りをし、身体を殆ど日傘の中に隠している。その日傘も体も血塗れで、透子と判断するにはあまりにも決めつけていた。
「とう、こ」
「…………………………なさい」
「透子!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「透子! ―――うおっ」
直前転んでしまう。構わない。這ってでも進む。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「とう、こ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ―――」
「透子!」
彼女の、足を掴む。続いて膝、太腿。そして身体。手繰り寄せる。日傘をどかして、露わになった彼女の身体を……抱きしめた。
「―――――――よかっ…………た」
「な、つめくん」
「無事で、良かった…………俺が、守らないと、なのに……ごめ」
遠くでサイレンの音が聞こえる。でも、もうどうでもいい。二人が無事だった事が分かった。それで充分だ。
「私は…………君の日常を。私のせいで…………私が、弱いから」
「…………弱くて、いいじゃ、ないか。弱いなら、俺、守るよ」
「違う、違うの! 私は怖くて君に……ずっと、過ごしてる間ずっと、言い出すのが怖くなって! でもそのせいで私は…………私、は…………!」
「……いいんだ。透子が居て、川箕が居るならそれでいい。俺は、何も要らないよ。あの町に行くと決めた日から……最初の人生は、終わってるんだから」
沢山の足音。
手を上げろという声。
耳に入れたくない。今は透子とだけ喋りたい。
「君は、私なんかの為に死ぬべきじゃないわ! 私は……不幸を呼ぶだけで、何も……」
「お前の為なら―――死ねるよ。生きる意味だった……からさ。俗物、かな。川箕とは……可愛いし、優しいから一緒に居たいし。お前とは……可愛いし、優しいから一緒に居たい。はは…………あ は は は は は は」
世界が終わりを告げる時。
それはいつだって災害の訪れる時。
―――――――――――――――――――
「撃てー!」
「鷹村総監。このような仕事に警察が協力してもよろしいんでしょうか」
「人間災害には息子を殺されていてな。仇を取れる手段があるならばそれに越した事はない。それは世界中の誰もが思っている事だ」
真司と呼ばれる人間から通報が入ったのは今朝の事だ。今日中に人間災害を殺すから協力してほしいと。そしてそれは、あの一心所長からの要望であると。殺せる算段がなければ誰が手を貸そう、しかし手筈は十分に整っているらしい。警察がするべき最後の詰めは一斉射撃による徹底的な破壊。それで人間災害は終わりを告げる。
この一大好機には軍も協力を惜しまず、今朝、真司と呼ばれる人間の指示を受けてかばね町からこの学校近辺の大規模封鎖を開始。周囲の非難が完了した所で警察も装備を自衛隊から借りる形で校庭に攻撃を続けている。
戦車すら用意し、砲撃を惜しまない。町の住人からの不信感など人間災害の討伐と比べれば大した問題ではなかった。
「私ね」
突如、拡声器越しの声が響き渡ったかと思うと、黒煙の中から祀火透子が姿を現した。
傷一つない。制服はボロボロだが、かすり傷一つなく、あらゆる攻撃を浴び続けている。その手に拡声器なんて、無い。
「好きな男の子が出来たの。こんな私を、守ってくれるっていう人。彼に嫌われたくなくて、私は彼にだけ正体を告げなかった。彼の楽しい日々を壊してしまうと思って出来るだけ手を出したくなかった」
「話を聞くな、続けるんだ!」
「今回もそのつもりだったの。私に攻撃してくる人しか狙うつもりはなかった。でもね、校内放送を聞いて考えが変わったの。今日失敗しても毎日毎日チャレンジするって。そんな事をされたら、私よりも先に彼が死んじゃう。彼を殺して無防備になった私を殺そうって人がきっと出る。川箕さんなんて本当に無関係だったのに、ただ町の出身だからってついでに狙われた」
私達は騙されたのか?
祀火透子の強固な身体は精神に依存し、精神的に不安定な時は通常の人間と同じくらいの耐久力である―――所長から聞いたという話を。真司という人間から。
しかしもう、止められない。止めたところで結末は変わらない。
「破壊する事しか求められなかった私を、人間として受け止めてくれた男の子が居て、私は普通に暮らしたかっただけなのに。私が居ると、彼は不幸になる。でも彼は、それでも私を心配してくれた。もう薄々正体なんて気づいているだろうに、可愛い女の子だって言ってくれた」
砲弾が手でつかんで受け止められるようになる。投げ返すでもなく、明後日の方向にぽいと捨てられる。銃弾は喰らおうが受け止めようが関係ない。人間災害には傷一つ入らない。
「そういえば前に、言ったのよ。半分そんな日は来ないつもりで、世界が亡んでも守るって。それって今かしら。私を殺す為に手段を選ばないなら、私だって彼を守る為に手段は選ばない」
祀火透子が拳を大きく振り上げる。如何なる手段を以てしても、その予備動作は止まらない。
「大丈夫。全力は出さないわ。ただこの場に居る全員に、彼を不幸にした何万人もの人類に罰を下すだけ。全員、死んでしまえばいい。よくも、よくも、よくも、よくも私の幸せを奪ったな!」
世界が、沈む――――――!