純潔の願い
「今日はもう帰った方がいいわ」
シャワーから戻ってくるなり、透子は俺達にそう言った。
「きゅ、急にどうした?」
「何かあったの?」
「マーケットをこの話に混ぜたせい……とは言わないけど、外が騒がしくなってきたわ。この話はあまり快く思われていないようね。これ以上は調査よりも命の危機よ。だから、帰った方が良い」
「お、俺のせい……なのか?」
「君のせいにしたくないわね。私が遠くに居たのが行けないんだし、一概に駄目だったとも言えない。マーケット側からの情報がないと手詰まりだった可能性もあるし……でも、三大組織の一角を話に混ぜるのはこういう事よ。君は、凄く危ない橋を渡ったのよ」
「ちょ、ちょっと透子ちゃん。そもそも原因は車に連れ込まれた事で……頷かなかったら命が危なかったんだよっ。だからあんまり悪く言わないで? 迂闊だったのは私もだし」
「いや、いいんだよ川箕。危ないのは俺も分かってた。分かってて……頷いたんだ。透子はさ、何でこの町に居るか分からないくらい普通の子で、ただ心配してくれてるだけなんだ。ごめん。次は気を付けるよ」
「………………」
透子はそれ以上何も言わず、個室の中で日傘を差した。
「今日は私も川箕さんの家にお邪魔するわね」
「え?」
「危険だったらその方がいいよな! 夜道を一人で歩かせるのって危ないし!」
透子を一人で帰らせるのは気分が悪いと常々思っていたのだ。ただ住んでいるという意味なら川箕だって同じ事だし、俺が片方に着いていったらもう片方は見捨てる事になる。しかし透子だけはこうなる前から一人で帰していた(というか俺が家まで送ってもらった)ので、断腸の思いでなあなあにしていた。
「じゃあ今日の部活はこれで終わりにするかっ……部活動って日誌とか書くんだっけ。俺らの場合は調査報告書をまとめないとか。どうしよう」
「じゃあ私が書記をやるよっ。とにかく、帰るって決まったら早く帰ろうよ!」
「とりあえず、ガレージに集合か?」
話がまとまった所で俺達はネットカフェを後にした。お金を持っていないので川見に全額払わせたのは正直申し訳なく思っている。多分本人は気にも留めていないのだろうけど、俺は気にする。こういうのは人間として情けないし、お金のやり取りは友情を壊すというからきっちり清算しておきたい。
透子の言う通り外は段々と騒がしくなってきている。
太陽は落ちて闇の帳が下りてきているのに、まるでこれから祭りでもあるかのように道行く人がそわそわ、そわそわ。何事か起きる勢いだ。日が落ちて陰が増えたのを良い事に、銃を持つ人間もちらほらと見かけるように。
「確かにこれは危険な感じだ」
「でしょ。まあ……花弁スタジオの動向を見る意味でも、ここは帰った方がいいわ。ついてきて。川箕さんの家のショートカットを知ってるから」
「え? なんで透子ちゃんが私の知らない道を知ってるの……?」
透子は嘘を吐かない。背中を追って歩いていくと三〇分程度で川箕の家に到着した。歩いてきた道が人間用ではなく恐らく猫用なのを除けば言う事はない。猫用だったので何度も怪我しそうになった。
ガレージは閉まっているが、ここには家主も居る。ただし防犯対策で外から開くにはロックを解除する必要があるらしいので、川箕が対応してくれるまでの一瞬、透子と近くの塀に座り込んだ。
「俺はお前の事が心配だよ透子。本当はずっと心配だった。心配だけして何もしないから早い話が偽善者なんだけど……何かあったら嫌なんだ。理由はどうあれ今日だけでも泊まってくれると、俺が嬉しい」
「…………私を心配するのは君だけよ。全く、物好きなんだから」
「女の子を心配する事の何が物好きなんだよ。今回の件みたいに、俺はまだここに来て日が浅いから色々やらかすかもしれない。でもいつかはもっとこの町のルールと付き合える男になって、お前を守れたらいいなって思うよ」
「……期待して、待っているわ」
「二人共、開いたよっ。はやいところ入っちゃって!」
催促されたので塀から腰を持ち上げる。一瞬立ち止まって、彼女は嬉しそうに言った。
「……絶対、迎えに来てね。何年かかっても、私は待つから」
「お、おお! 任せとけ!」
ガレージの中に入ると透子はようやく日傘を閉じて近くの壁に背中を寄せた。
「寒いわね」
「空調はないんだよねえ。ごめんっ! ぱっぱと日誌っぽいの作っちゃおっかっ。で、部活が終わったら私と夏目は仕事ね?」
「ま、まあ手を動かしてたら温かくなるかもしれないしな。分かった」
「部屋は悪いけど透子ちゃんと二人で使ってくれる? 家に入れちゃうと……大変だからさ。色々と」
「透子。間違っても日傘は差さないでくれよ?」
「私の本体をこれだと思ってるの?」
日傘がなくてもかなりギリギリだ。幾ら彼女の身体が細いと言っても人間一人には違いない。俺が案内するのもどうかと思うが、川箕がノートを用意している間に部屋に入れてみる。本当に狭かった。
「これ………ど、どっちがベッド使う?」
「……? 二人で一緒に使えばいいじゃない。お互い風邪を引きたくないでしょ」
「そ、そういう問題じゃなくてさ……」
わざとなのか本当に分かっていないのかどちらだろう。どちらもあり得るのが透子の分からない所だ。ホテルでは一緒に寝ていたから、その延長線だと考えている可能性もある。俺に言わせると密着度合いが比になっていないから、もしそういう考えなら永久に平行線だ。
一緒のベッドで眠りたくない訳じゃない。むしろ寝たい。透子を抱きしめたい。この矛盾した感情をどう説明するべきか悩んでいると、不意に彼女が持っている物が目に入った。俺の携帯だ。昔から使っていた方。
「あ…………それ」
「今日は置いていったのね」
「……俺にはもう、必要ないかなと思って。その内解約されて使い物にならなくなりそうだし」
「そう。じゃあ私が持ってても問題ないわね?」
「……いいけど」
俺の許可を取るのと同時にもうポケットに突っ込んでいる。何がしたいのだろう。もし思春期にありがちな恥ずかしい秘密を知りたいと思うなら無理だ。実際に彼女を作って彼女で味わえとか言われて揶揄われるに決まっている。少なくとも過去の俺はそう思っていたからそのようなデータはない。
コンコン。
「ノート持ってきたよっ」
「自分の家なんだからノックしなくてもいいんじゃないか?」
「急に入ってもなんか申し訳ないかなって思っちゃって。流石に三人だと部屋って呼べそうにないから外に出てきてくれない?机もこっちに用意したから」
ノート自体は平凡な、何処にでも売っている普通の物だ。表紙には油性ペンで『課外調査部調査報告書!!!』と気合の入った文字が書かれている。文字全体が丸っこいのは勢い任せに書いたからだろうか。そこはかとない愛嬌が感じられる。
「調査した噂から書いていこっか。復習も兼ねて、どんなだったっけ?」
「お化けの噂だな。花弁スタジオの社員が殺された事でお化けが出たって話。だったよな?」
「ティルナが聞いたのはお化けの話じゃなくて花弁スタジオの社員が殺されてるって話だけどね。龍仁一家が花弁スタジオに仕事を頼んだ日からバリエーションのある殺され方をされてるとか……お化けの話はこれが歪んだ物だというのが現状の見解だったと思うけど、改めてどう思う? お化けの話はこの殺人事件が歪んだ噂? それとも……別の話?」
本物のお化けという線は捨てたつもりだ。揃いも揃って住人があり得ないと一笑に付すし、俺もここまで治安の悪い町なら本物のお化けよりも遥かにトラブルが起きた可能性の方が高いと思う。
「お化けの話は……確かSNSからだよな。発端はお化けが出たって発言以降動きのないアカウントで……ティルナさんの情報を基にもう一回調べたら花弁スタジオの話が出てきたんだ。まだ保留にした方がいいかな……なんか、変だよな」
・花弁スタジオ社員が次々死ぬ話とお化けは関係あり?
・龍仁一家が任せた仕事とは?
・なぜかばね町では事件が隠れているのか?
大きく方向性を分けるとこの三つか。
「花弁スタジオは闇市に何かを求めてやってきた人間を追跡し、その末路までを撮影するノンフィクションの映像作品を作ってた。撮影日からして最近まで作ってたのは間違いない。ただ、一番最近の奴と過去作で作り方が違うって話をしたよな」
「それに、あのマーケットの人からの情報。誰かが依頼をし続けてるって話だったよね。龍仁一家じゃないって事かな? もしそうだとしたら……カラオケの店員さんは何処で龍仁一家が仕事を頼んでるって話を聞いたんだろ」
「一筋縄では行かなそうね…………これが火のついてないだけの火薬庫か、それとも小さな火種かは分からないけど、人間災害の前では些細な事よ。臆せず行きましょう」
「そうだよな。人間災害に挑むより遥かにマシだろうなとは思うよ俺も。犯罪組織が揃いも揃って恐れるんじゃな」
「…………おっけー。何となくまとめてみたよっ。とりあえずこれで今日の活動はお終い! だけど―――まだ仕事が残っていますっ! 夏目、準備は良いっ?」
「お、おお。よろしくお願いします……!」
「夏目君。頑張ってね。横から応援してるわ」
………………。
「で、何やればいいんだ……?」




