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王都にある噂が届き始めた時に、パスコー公爵は耳を疑った。家令も何も聞いていないと首を振り、積極的に情報収集をした。決して悪い話ではなかったが、今までそういった方面でなんの音沙汰もなかった息子の噂話、すぐさま息子の住まう屋敷へと馬車を走らせた。
「一体どういうことだ、オーランド!」
変わりない屋敷、主として当然慣れた足取りで息子であるオーランドがいそうな場所を探し、みつけた背中にすぐに問いただしたが、その刹那声が詰まった。いつも猫背で髪の毛の一つも整えない息子が、随分と様変わりしていて、問いただす内容が増えてしまった。
「父上、えーと、おかえりなさいませ?」
「・・・あぁ、今帰った。見違えたなオーランド」
「あー。うん、ありがとう。こっちくる連絡あったっけ?」
「先触れがあったことは昨日の朝食には言いましたわよ私」
急に背後から知らない女の声に、パスコー公爵は驚いて振り返った。閑散としたこの屋敷には似つかわしくない内から輝くような女が立っており、着用している服が妻のものだったことに気づいて二重で驚いた。
「オーランド、お前・・・どういうつもりだ。婚約者は確かに決めていなかったが」
「父上、彼女をちゃんと紹介させてくれ」
「得体の知れない女に現を抜かしているなど・・・」
穏やかでない空気に原因たる女が、艶っぽく微笑み二人の間へするりと割り込んだ。その様は不躾のはずなのに優雅で、ますます何者か訝しむことになる。パスコー公爵の記憶にはないが不思議な、ある種高貴なる人間独特の空気がする。
「私のことは一旦家庭教師ぐらいに思ってくださいまし」
「・・・身なりに気を遣うとか、そういったことを教えて欲しいと僕が彼女に頼んでいるんだ。誤解をしないで欲しい。それに、得体が知れないなんてこの完璧な淑女をみればわかるだろう」
「どこかのご落胤だとでもいうのか?ふん、お前が女に浮かれているようにしか見えん。どれだけ大層な出でも、その身が隠されているならば厄介な話だと気づいているのか」
「僕を放置していたのはそっちだろう、放っておいてくれ。だいたい、父上は噂を聞いて帰ってきたんじゃないのかい」
本題だ、とオーランドが振り切るように居間へ入っていく。パスコー公爵もその背を追ってオーランドの向かいのソファへ腰かけた。テーブルにはオーランドの万年筆の一振りで茶器がセットされ、パスコー公爵は瞠目した。三人分のティーカップがそれぞれの前に音もなく用意され、二度見するが言葉は飲み込んだ。オーランドの隣の美しい女のせいだろうと察しがつく。
「・・・どこまで真実なのか見極めに来た」
「全部だよ、僕は魔石さえあれば魔力がなくても使える魔方陣を復元させて、貧民街で普及させている途中なんだ」
一番確かめるべき内容が、真実だと語られてパスコー公爵の肩はどっと重くなった気がした。同時に期待と興奮がある。本と研究の虫で、貴族の儀礼的な部分にまるで興味を示さないコミュニケーションの取れない息子が、世界を変える結果を持ってきた。動揺を表には出さずにオーランドの話に耳を傾ける。
「魔道具の製造はこれから大きく変わる、魔石の価値もね。商会にも話を通してる」
アンジェのフォローがあってだけど、とオーランドは気まずそうに視線は遠くへやった。パスコー公爵は、それ以前の問題で、こんなにもはっきりと話をしている、という点で感慨深くなっていた。
「しかし貧民街にまで手をいれるなんて」
「父上、魔石利用の魔方陣を作成するにはまず魔力を一切含まずに作成し、最後の最後に枯渇魔法をかけなければいけないことがわかったんだよ」
「魔方陣なのに魔力を含ませない?」
「そう、魔方陣は魔方陣であるだけで魔力を求める。普通に書くと勝手に周囲の微量な魔力を吸い上げ続けるんだけど、まったく魔力を込めずに魔方陣を書き、さらにその魔方陣に枯渇魔法をかけると魔力を吸い上げられず、魔方陣は強く魔力を求め、接触した魔石からだけ強く吸い上げる・・・簡単にいうとそういう理屈なんだ」
「・・・つまりこの魔方陣の作成には魔力のない人と最後の仕上げをする魔力のある人が必要になる、と」
「だからこそ貧民街への新しい仕事になります。パスコー公爵、こちらを」
会話の切れ目を見計らいアンジェはいくつかの紙束を押し出した。関連書類だろうか、とパスコー公爵が受け取り目を通すと、オーランドの名前があった。
「今回の研究の論文です。既に査読も済み、学園の教師経由で学会誌掲載も決まっています。先走って貧民街への仕事や魔道具の商業的分野の開拓の話をしておりますが、もちろん破損した古代の宝物などの復元修復、そういった需要もあり・・・」
アンジェは今が攻め時と言わんばかりに不愉快に思わせない程度を見極めて話を途切れさせない。論文を書いたのはオーランドだが、彼に話をさせると研究内容ばかりで貴族としてのうま味の方面に話が膨らませられないので、アンジェが相手を誘導していく。
「どうぞ、論文はそのままお持ち下さいまし」
「・・・あぁ、明日中に目を通そう」
その日はパスコー公爵が王都から連れてきた使用人たちが部屋を用意し、食事なども何も言わずとも用意された。オーランドは久しぶりに傅かれることに狼狽え、アンジェはそもそもがここの主人であったと言わんばかりの馴染んだ態度であった。
パスコー公爵は夜、息子の論文を目に通せば、まるで悪魔のささやきのようだったアンジェの言葉が、絵空事ではないと気づく。貧民街の活用法、魔道具の商業ライン、王都の研究機関への影響、あらゆる点で有益だった。
「・・・ふぅ、この論文を王に見せないわけにはいかないな」
パスコー公爵は次の日にはオーランドを書斎へ呼び出した。
「俺の名代として王都のパーティへいけ、デビュタントが集まる日だ」
「みょう、だい・・・!」
「・・・次期公爵家当主として、王への顔見せは必要だろう」
オーランドは本当に久しぶりに父親の目をまっすぐに見つめることができた。そこにあったのは厳しくも優し気で、決してオーランドが思い込んでいたような無関心な瞳ではなかった。パスコー公爵の言葉はじわじわと沁みこみ、オーランドの返事は上擦っていた。それを小さく笑われて顔が熱くなったが、父親の表情がほころぶところなど初めて見た。
「随分、稀有な女性を得たじゃないか」
「あ、うん・・・その、まだそういう関係じゃ」
「そうか、必要になれば手を貸してやってもいい」
「え?」
■
最近の日課になりつつあった園芸植物への水やりは、既に使用人の手で終わっていて、アンジェは手持ち無沙汰に庭の散歩に興じている。刺繍をするか読書をするか、と思ったがどうにも気分が乗らない。パスコー公爵がいるため屋敷の中は常時人目がある。一人の解放感を味わったせいか、思いのほかそれが負荷になっていた。
(以前は平気だったのに、こんなので大丈夫かしら)
帰ったら、自由などないというのに。
よぎった考えが胸に翳りを落とす。アンジェは首元へ手を当てて、ぼんやりと空を仰ぎ見た。つい先ほど、鏡の前で洋服を整えたときに首元をみた。刺青は一つ減り、オーランドは父親に認められたのだと知った。
「アンジェ、アンジェ、父上が僕を名代としてパーティにいけって!」
下生えの草など気にしない様子で駆け寄ってくる姿はネズミというより犬のようで、アンジェは笑みが抑えられなかった。思わずといった笑顔で、いつもの上品さではなくどこか幼げな笑みに、オーランドは刹那、言葉が出てこなかった。
「おめでとうございますわ、拝謁は初めてでして?」
「もちろんだよ、今から緊張している」
乱れた髪を手でさっとなおし、姿勢と衣服を整えたオーランド。その姿はすっかり堂に入っていて、パーティでも決して見劣りしないだろう。むしろ上背があるため見栄えがする。アンジェは満足気に頷いた。
「ついてきてくれるかい、僕の、パートナーとして」
時が止まったような気がした。
アンジェは差し出された手を見下ろして、喉が締め付けられている心地になる。
「・・・なにをいうの、無理よ」
「なぜ?!父上は僕を認めてくれた!」
両者ともに信じられない、と顔に書いてあった。こんなにも真剣に見つめ合うなど初めてのことだったのに、アンジェはオーランドの瞳に裏切られたと言わんばかりの悲しみを見つけてしまった。
「そうよ。だからこそ、王宮拝謁のパートナーなど、婚約者にも等しいわ。身分もなにもない私がいくべきではない。なんと説明するの」
「そんな・・・だがそれこそ君以外なんて」
「オーランド、あなた私しか傍にいなかったから勘違いしているんですわ」
「まさか!違う、絶対違う」
子供が駄々をこねるように否定して、オーランドは感情をどう纏めたらいいかわからず涙が代わりに押し出され、視界がぼやけた。そんな彼をアンジェは人形のように無機質な表情でみつめた。
「それが三つ目の願いだというなら叶えるわ」
「・・・やめてくれ、悪かった。君は僕が勝手に呼び出した存在だ、元の世界がある・・・」
僕のわがままで、すまないと零れ落ちるように謝罪をした。アンジェはなんと返すべきか分からず、口を噤んだ。ようやく開いた口からでたのは、公爵家の人間がすぐに頭を下げるべきではないというお説教だった。
アンジェは雨が降りそうだ、と言ってその場から離れたが、その後ろをオーランドが追ってはこなかった。予想通りにぽつぽつと頬を濡らす粒を感じて、速足で屋敷へ向かう。
「ねぇ!君は元の世界に帰りたいかい?!」
足が止まってしまった。ドレスが引っかかったように慎重に振り返り、アンジェは真っ青な顔をしているオーランドを見た。情けない顔だった。大声を出し慣れていないから掠れて、だが絞り出すようなそれは、彼の実直な本音だったと思う
「僕は、君に帰ってほしくない・・・!」
本格的に雨が降ってきても、二人はどうにもこうにも足が動かなかった。
■
オーランドはあちこちへ忙しなく出かけ、そして部屋へ引きこもり、姿をあまり見せなくなった。さながら人間を避けて行動するネズミのようだとアンジェはぼんやりと考える。刺繍は女中が絶賛するレベルでいくつも作品を作り、書斎の本はほぼ読破し、暇を持て余している。仕方がないので最近はオーランドの部屋の本棚を漁っている。
オーランドが忙しいのは、パートナー探しだろうかと詮無いことを考えながらおそらくオーランドお気に入りの陣形魔術の本をめくる。多種多様な魔術の本たちは、長年のコレクションらしくオーランドの趣味がよくわかった。
空間魔術、召喚魔術、陣形魔術、専門性が高いものが多いので、アンジェでも読めそうな初心者の本を漁っていれば、今よりも幼い文字で書き込みがたくさんされていたり、ノートの切れ端が入っていたりと、中々面白い発見がある。
「魔方陣を書くための専門道具の解説、この本がいいのかしら」
解らないものを探すのに本を読み、その本の解らない部分をさらに別の本を探して読む、なんてことを繰り返していれば、小さな丸い机には本が高く積み上げられていた。それがちょうどオーランドの資料庫や研究室の様子とそっくりで、こうして本棚に戻されずにうず高く積まれる本の森となるのだろう。
王妃教育に、こんな専門的な勉強はない。
「帰りたくないなぁ」
あぁ、出てしまったな、本音。
ハイネックで覆われた首元を撫でさすり、今朝はまだ刺青があったことを思い出す。三つ目の願い事は未だに保留状態だ。それをどう思えばいいのかわからない。
アンジェは公爵令嬢であり、王太子に嫁ぎに行く身分であった。17歳になってすぐにカミングアウト(社交界デビュー)を済ませ王妃教育を受けていた。ただ、第一王子は浮気性で不遜だったため己にふさわしい男だとは思わなかった。第二王子はコンプレックスの塊で頭のいい女を嫌っていた。それらは女学校と社交界での噂の域をでなかったが、噂になる時点で相当の問題児である。では両者をぶつけて共倒れてくれれば、と考えていた。実際にそうなるように動いていた。
(・・・あちらがどうなっているか、考えたくもないわね)
策略の手綱を中途半端な状態で放してしまった。大混乱で内乱になっていてもおかしくはない。そしてどの面下げて戻るというのか。大きくため息を吐きそうになったが深呼吸へと切り替え、大きく伸びをした。ずっと読書の姿勢でいたからか、ばきばきと音が鳴って驚く。
「アンジェ」
「オーランド」
「久しぶりに顔をみた気がする」
「それはこちらの台詞ね」
向かいに座り、万年筆の一振りで本が消え紅茶の用意がされる。オーランドの目元は薄く隈ができていて、疲労感がにじみ出ている。だが憑き物が落ちたように溌剌とした表情をしていた。そのちぐはぐとした雰囲気にアンジェは首を傾げながらも、乱れた髪の毛を整えてやった。照れ臭そうにするオーランドは暫く視線をうろつかせていたが、大きく深呼吸をしてアンジェとしっかり目を合わせた。
「アンジェ、レディ・アンジェ・ウェイス」
ぽかんと口を閉じるのを忘れてオーランドを見上げた。アンジェのその無防備な顔にしてやったりと目を細め、彼女の手をそっと覆った。
「君の身分を用意した。ウェイス家は地方の貴族だが由緒正しい名家だ」
重なった温かい手が気になって、耳に入って来る言葉をうまく呑み込めなかった。身分のロンダリングのために君の親戚が随分増えてしまった、後ろ盾として元我が国の王女協力で隣国の貴族に話をつけているし、と研究成果を披露するような口調だ。
アンジェは視線をそらすこともなく、オーランドをみつめ、こみあげてくるものに、喉をひくつかせた。唇を噛んで、まだぬか喜びをするなと言い聞かせる。
「随分と貴族的な根回しが上手くなりましたのね」
「君の教育のおかげさ」
「ご当主の力添えがありましたんでしょう?そうでないと・・・」
「ねぇ、アンジェ。パートナーになってくれるかい」
重ねられた手を握り返して、アンジェとしては珍しい、どこか迷子のように尋ねた。
「・・・三つ目の願いは、何かしら」
不安を丸めたような言葉に、オーランドは柔らかく、そしてしっかりと笑い返した。
「三つ目の願いは、僕のお嫁さんになって、かな」
「・・・無茶なこと!結婚した瞬間私は消えてしまうわよ!」
呑気な台詞に激昂したアンジェだったが、オーランドは余裕のある面持ちで、手を取ったまま席を立ち、踊るように部屋へ促された。連れてこられたのはオーランドの資料庫、アンジェが召喚された部屋だ。当初と違い現在は風も通り埃も舞い上がらない。インクと紙の香りのする、そんな部屋だ。
まだうっすらと残っていた、召喚の魔方陣。その中央に立たされて、アンジェは思いのほか恐怖した。どういう意図で連れてこられたのか、わからなかった。
ぺらり、大きめの紙が掲げられた。魔方陣が描かれているのはわかるが、アンジェに内容はわからない。ただ、随分珍しい形だと思った。首を傾げていると、意気揚々とオーランドが口を開いた。
「僕をなんだと思っているんだ?人生の九割を陣形魔術に捧げて、君を召喚した男だぞ」
「それはそうね」
「召喚の魔方陣を改良した。この新しい魔方陣の上に乗ってくれ。打ち消しの魔方陣だ。君が願いを叶えて元の世界に戻される瞬間、その帰還魔法を打ち消すためのものだ」
アンジェは、今日何度驚いたらいいのだろうと思った。
「まさか、そんな」
「頼むよ、元の世界に帰りたいなら、それでいいんだ」
このままで結婚に了承してくれればいい、と徐にポケットから指輪ケースを出した。なんてロマンのない出し方!とアンジェは点数をつけた。もしかしたら混乱しているのかもしれない。
「もしも、この世界に残ってくれるなら・・・この打消しの魔方陣の上に乗ってほしい」
オーランドは見せていた紙を召喚の魔方陣の上に置いた。人一人が乗るくらいには問題ない紙のサイズではあるが、見栄えもしないし儀式的でもない、本当にただの紙だ。アンジェの心もとない気持ちを察したのだろうか、オーランドは苦い顔をして言った。
「・・・ごめん、ぶっつけ本番なんだ。理論上は合ってるけど」
オーランドの困った顔に、アンジェは逆に冷静になれた。恐る恐る差し出された手と、見慣れた八の字の眉。
「・・・僕のお嫁さんになってくれる?」
背筋を伸ばして、扇子を片手にアンジェはまるでエスコートの手を取るようにして、打消しの魔方陣の上へ乗った。もちろんよ、と完璧な淑女の微笑みを携えて。
アンジェの左手にはオーランドの用意した指輪がはめられ、暫定的にお嫁さんという・・・三つ目の願いは叶えられた。刺青の入った首元が熱を持つのがわかる。そして足元から魔力が立ち上る気配もあった。
召喚の魔方陣が帰還の魔方陣として光を放ち、そして同時に打消しの魔方陣も眩く光を放った。反発して巻き起こる竜巻のような風に周囲の本が巻き上げられる。
二人の手も離れないように強く握られた。
ついには雷鳴が響き、思わず目を閉じた。風の音と雷の音、重力が反転したようなふわふわとしたおかしな感覚のあと、暴力的な圧力で身体が投げ飛ばされるのがわかった。爆発音、耳がきぃんと鳴り響き、頭がくらくらとした。
ぱちぱちと何度も瞬きをして、霞む視界を慣らした。
「アンジェ!」
薄い膜を隔てたような声だったが、確かに名前が呼ばれた。本棚が倒れ、窓ガラスにヒビが入っているのも見える。アンジェの口から笑いが漏れる。様変わりした部屋だったが、確かにオーランドの資料庫だ。
「この私に、こんな扱いをするなんてオーランド」
「なんて言ってる?まだ耳がおかしいんだ」
打消しの魔方陣が正しいことを証明できた!凄い!とオーランドは爆風でバサバサの頭をかき回して興奮している。倒れたアンジェのために差し出された手を、力強く握り返して、アンジェは起き上がって大きめの声で宣言した
「まだまだ教育が必要なようですわね、オーランド!」
アンジェの首に刺青はもうない。
「もちろん、君にふさわしい男になるまで頑張るよ」
読んでいただきありがとうございました。
長くなるので色々削ったため駆け足気味ですが、物足りない部分はええ感じに脳内補完してください。