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アンジェは歩いているオーランドの猫背をみて、背後でそっと扇子を振った。次の瞬間にはオーランドの足元で爆竹のような音がなり、飛び上がって驚いていた。わたわたと周囲をみて、アンジェを見つけるとひきつった笑みを浮かべる。
「私のみていないところでも意識なさって」
「・・・はい・・・」
アンジェいわくみっともなく、覇気がなく、威厳のないオーランドは、現在しぶしぶながらアンジェの公爵家らしい振る舞い講座を受け始めた。まずはわかりやすい所から、と身なりを整えるところから始めているが、オーランドとしてはあまり納得できていない様子だった。
父親に先日に一件が報告したところそれなりの対応が必要になったのか、一週間ほど授業を休むように指示された。そのためオーランドはアンジェとほぼずっと付きっきりで教育を受けているため、うんざりしているのが本音なのだろう。
(休み明けが楽しみですわね)
アンジェはまじまじとオーランドを見つめた。鳥の巣のようだった頭は綺麗にとかしてヘアオイルを使わせ、後ろへ流して整えるようにすれば存外整った顔立ちが露になった。十分な睡眠とマッサージを繰り返させれば目の下の隈もむくみの消えた。
「・・・なにかな」
「いいえ、お部屋に戻られます?」
「・・・さっき教えてもらったシワ伸ばしの魔術、ちゃんとかけるよ」
「それは結構です、男の方はあまり知らない魔術ですからね」
アンジェはどんな男でも手玉にとって操る手腕に自信があったが、オーランドほど見栄や欲の少ない男ははじめてだった。当初は扱いにくい、と思ったものの彼が陣形魔術以外に、極普通の魔術であっても、無詠唱であったりすれば興味を示すのに気づいてからは簡単だった。そもそもオーランドの知識は割りと片寄っており、淑女が覚えるべき魔術であったり使用人必須の魔術を知らなかったりする。
シワだらけの制服を着るな、と言ったときには不満そうにしていたがシワのばしの魔術を教えてやれば嬉しそうに練習をして、しっかりと習得していた。アンジェは優秀ではある、とオーランドの評価を修正していく。
「伸び代があって、どうにも楽しくなってきましたわ」
アンジェは人形遊びをするような乙女心をときめかせ、身なりを整える次はどうしようかしら、とのんびりと考えていた。
そして休み明け、スライムを投げつけてきた男たち、中心にいた二人はほぼ確実に退学処分になっているとアンジェに言われ、オーランドはまさかと笑った。しかし教室にはいった瞬間に漣のように沈黙とざわめきが広がり、視線が集まる。動揺で汗をかくのがわかったが、アンジェに教えられた通りにできるだけ顔には出さないように努めて席へついた。
「パスコー、くん?」
「あ、はい」
もっとはっきり話すようにアンジェから言われているが、こちらは中々矯正できずにいる。声をかけてきたのは教室でも目立っている子で、返事をすれば瞠目して変わったね!って言った。それを皮切りに他の生徒も集まり、オーランドを取り囲んだ。ひぇ、と声が漏れたのも仕方がない。
「休んだから?すごく顔色いいね!」
「やっぱあいつらがいたストレスだったのかな」
「前髪あげてる方が絶対いいですよ!」
傍からみればちやほやとされている状態だが、オーランドからすれば尋問に等しい。何故取り囲まれているかもわからず、思わず猫背になりそうだった。陣形魔術の教授が教室に入ってきてようやく解放され、オーランドはいつもよりさらに陣形魔術へ敬意をもって授業を受けた。
家や道中ではわからなかったが、背筋をのばして廊下を歩くだけで、視界がいつもより広く感じる。噂話に興じている女子生徒は意外と背が低くて、走り回っている男子生徒もオーランドに気づいて歩き始めた。パスコー家の、という枕詞で会釈や挨拶が飛んで来るようになった。それはオーランドがパスコー家の人間だということがあまり知られていなかったのか、それともそうとは認められていなかったのか。オーランドへちょっかいをかけて二人ほど退学になったことが牽制となっているのか。
ビハブくん、という単語が完全に聞こえてこなかったわけじゃない。だけれどそれを言った人間は同意を得られず頭を叩かれて注意されていた。
こうもあからさまに態度が変わると戸惑いと呆れが起こる。なんなら教授陣も前よりもずっと優しげだ。というよりも、いい方向に変化したようで安心した、君の陣形魔術の成績には一目をおいていると実際に言われた。
(・・・どれだけひどかったんだ僕は)
付け入る隙を与えていた自分が甘いのだと、アンジェの貴族的見解が証明されてしまった。陣形魔術は軽んじられていなかった。むしろ、人気はないが面白い学問なのでこのまま頑張って結果を出してくれとまで教授に言われた。
「・・・複雑」
ひとつ目の願いは叶ったと言えるだろう。そうオーランドが考えた時に、屋敷にいたアンジェの首の刺青は光輝き熱をもった。三つあった輪が一つ消えたことを確認した。
「ではさっさと二つ目を願ってちょうだい」
「そう言われてもなぁ・・・」
夕食の席でアンジェにそう迫られたオーランドは頭を抱えた。
何故あんなにも熱心に悪魔を召喚しようとしていたのか、その熱量がなんだったのか正直思い出せない。ただあの召喚の魔方陣が美しく夢中になってしまったのだ。そして何が何でもこの魔方陣を成功させて陣形魔術は素晴らしいと見せつけてやろうと考えていた。
三つも願い事を考えていたわけではない。
なんならその場で命を取られるかもしれないと思っていた。
(自棄になっていたんだな、僕は)
オーランドは自嘲気味に笑って、夕食で使用した食器をさっと万年筆を振って片づけた。この片づけの洗浄と運搬を兼ねた魔術もアンジェに教えてもらったものだった。アンジェもその出来に満足そうにうなずいて、代わりにと扇子を振ってティーポットとカップを用意する。
アンジェの優雅な手つきに見とれている間に、湯気の立った紅茶が注がれて、優しい香りに目を細めた。
「いつの間にお湯を?本当に器用だな、授業では水を沸かすとかアイロンの魔術とか習ったことがない。浮遊だとか炎だとかばかりだ。アンジェの世界は魔法が進んでいるのか?」
「さて、どうかしら。こういった生活の魔術は親から子への口伝なのでは?」
「なるほど、どっちにしろ僕は・・・」
「お手紙を拝見いたしましたけど」
アンジェは諦観にまみれたオーランドの言葉をよぎった。音もなくオレンジパウンドケーキを一切れ乗った皿が現れてオーランドの目の前に差し出された。アンジェが暇を持て余して作った茶菓子である。そちらに気を取られたオーランドは口を閉じてティーカップを置いた。素直にケーキを食べ始め、味について感想を述べた。
「美味しいよ」
「お口に合ったようでよかったですわ。・・・それで、先日のスライム騒ぎでの報告でご当主と手紙のやり取りをさせていただきましたが、貴方を見限っている印象はありませんでしたわ」
オーランドはいきなり冷水をかけられた気分になった。
アンジェが勝手に用意をしだすこのティータイムは、オーランドにとって大事な習慣となりはじめていたのに、台無しにされた気分だ。
「そ、れは何故」
絞り出した声は思いのほか大きかった。オーランドは落ち着かず、視界をよぎる前髪が恋しくなった。額を覆うように手で顔を隠してアンジェの返事をまつ。
「そうですわね、対応が早かったのはもちろんですけども王都でのガーデンパーティについて書かれてました。近況報告というよりあちらでの流行の情報ですわね」
「あぁ、あれがどうしたの」
「どうしたの、と言ってるということはご当主が自主的に教えてくださっているんでしょう?興味をもったら教育するつもりなのでは」
「なんでそうなるんだ?!ダンスやドレス、訪問カードのインクの流行りなんてのまで書いてくるんだぞ!王都に浮かれたおっさんじゃないか!」
「まぁ、少し綺麗にしたのにやっぱり野ネズミですわね」
オーランドが困惑のままに言えばアンジェからひどく冷めきった視線が返ってきた。たじろいで猫背になったオーランドを見下ろすようにアンジェの背筋はピシっと伸びている。流れるような手つきでティーカップを傾けて、深呼吸をひとつした。優雅な姿だが醸し出される空気は張り詰めていて威圧的だ。特に何も勝負はしていないがオーランドは既に投了を宣言したい。
「訪問カードの一つも扱えないものが招待状など扱えません、舞踏会や正餐会に流行はつきものであり、マナーもまた流行で変化します。それを理解していないからあなたは下手に次期当主教育を受けさせるより陣形魔術に傾倒させているほうが良いと思われているのでしょう」
「・・・つまり」
「あなたが意固地だから自由にさせているだけで、やる気があるなら教育する気があるということです」
「そう、なのかな・・・」
まっすぐにオーランドの瞳をみて断言するアンジェは美しく頼もしく、全てを鵜吞みにしたくなる。オーランドは自分が貴族であることも疑問であったし、迂遠で、ひたすらに顔色をうかがうような貴族仕草も苦手で、兎にも角にも貴族という存在が嫌いだった。だというのに、嬉しかった。父親に完全に見放されているわけでない可能性に欲深くも希望を見てしまった。
アンジェはうつむいて口を噤むオーランドを促した。まるで全てわかっているぞ、と言わんばかりに首の刺青へ触れる。その姿は妖艶で、やはりオーランドが召喚したのは悪魔だったのかもしれないと思った。
「ではいってごらんなさい、二つ目の願いを」
「次期当主として、父上に認められたい・・・!」