黒の正体
真っ青な空から容赦なく照りつける太陽を睨みながら信号を待つ。連日の茹だるような暑さに悲鳴を上げる日本列島だが、太陽を見ても気温が下がるわけでもないから止めた。
熱でアスファルトに溶けてしまいそうになりつつ、僅かな日陰に身を隠す。
乗っている自転車のハンドルに寄り掛かりながら、車を買おうか真剣に考える。我が家に車は1台しかない。その車も今朝、旦那が使うからと乗って行ってしまった。車が無くても何とかなるかと思っていたが、流石にこの暑さで自転車は耐え難い。旦那が帰ってきたら相談してみようと思い、信号が変わったのでペダルを漕ぎ出す。
横断歩道を渡り切ったところで、視界の右端に黒い塊が入る。交差点の角にある、コンビニの跡地の駐車場に黒い塊が幾つもある。ゴミ袋か何かかと思いながら見てみると、ゴミ袋なんかじゃなかった。
160cmくらいの高さがありそうな黒い塊だった。粗大ゴミ捨て場でも無い場所に、不自然にある黒い塊。じっと見ていると、モゾモゾと動き出す。
どうやら、中に人が入っているようだ。
気味悪いと思いながら見ていると、一斉に動き始める。こっちに向かってくるかと思いきや、信号とは反対方向に進んで行く。その集団が向かった方は住宅地や田畑が広がる地域だ。何があるのか気になったが、関わらない方が良さそうなので、私は左にハンドルを切りペダルを漕いだ。
「黒い集団??」
その日の夜、帰宅した旦那に昼間見た事を話すと旦那は訝しげに首を捻る。
「そう。車通りも多い交差点だから、そんな怪しい集団が居たらもっと騒ぎになってもいいと思うのよね。でも、夕方のニュースでもそんな事言ってなかったから、よく居るのかなって」
「ふーん。少なくとも俺は見た事ないな」
「住宅地の方に行ったから、地区の子供会の出し物とかかしら」
「そんな出し物あったら、子供は怖いだろ……。まあ俺も会社で聞いてみるわ」
そう言うと、この話は終わりとでも言うように夕飯を催促してきた。最近、私の話は興味無さげにさっさと切り上げてしまう事が多い。それに不満を持ちつつも、伝えると喧嘩になるので私は黙って夕飯の支度をする。夕飯を並べながら、ついでにお願いしようと「車、もう1台買わない??」と聞いてみた。だが、旦那はテレビを見ながら「必要無い」と即座に断る。
「何でよ〜」
「今でも十分だろ??自転車だってあるんだし」
「それじゃ暑い日大変だから言ってるんじゃない。買い物も沢山出来ないし」
「沢山買い物する日を予め言ってくれれば、俺が自転車使って仕事行くから。どうせ、奈美は職場が近いんだから使わないだろ??維持費だけ掛かって無駄だ」
「予め言ってても、朝になると『やっぱり車使う』って乗って行っちゃうじゃない」
文句を言いながら、夕飯を並べ終えると私が座るのを待たずに旦那は食べ始める。自分が都合悪くなると、勝手に話を切り上げるのは旦那の悪い癖だ。
これ以上、何言っても無駄だと思い私も座り夕飯を食べる。すると、旦那が思い出したように「忘れてた」と声を出す。
「金曜日、会社の飲み会だから夕飯いらないわ」
「金曜日……明後日ね。分かったわ」
「ついでに、弁当もいらない」
「どうして??」
「遅く帰ってきてから洗うの面倒だろ」
それなら会社で洗うなり何なりすればいいのにと思うが、言ったところで実際にはやらないのは分かってるので、何も言わずに了承した。
翌日、同僚の平野に昼休憩に談話室で、昨日見た黒い集団の話をしてみたが、知ってる人はいなかった。
「住宅地の方に行くなら、回覧板とかに書いてそうよね」
「そうなんだけど、私の住んでる地区じゃないから分からくて……」
「ニュースでもやらないって日常茶飯事なのかしら」
「さぁ……。でも車から見た人もいると思うのよね」
2人であれこれ考えるが、何も思い浮かばない。やっぱり誰も分からないかと諦めた時、平野が「こういう時は」と手を鳴らす。
「情報通に聞くのが1番よね」
平野が言う『情報通』とは、会社の古株で噂話が大好きな経理のおばちゃんだ。どこから仕入れてくるのか分からないくらい、色んな人の情報を持っている。何か知られているのではないかと不安になるので、なるべくなら近寄りたくない人だが、平野は聞く気満々でおばちゃんが休んでいる会議室へ向かう。私も慌ててその後を追った。
「黒い集団??あぁ、たまに見るわね」
「流石……。ご存知なんですね」
「ええ、まあ座りなさいな」
私達に座るよう促して話を続ける。
「昼間じゃなくて、夜も出るらしいのよ。でも、昼と夜じゃ全然違うんですって」
「違う??」
「ええ、本当かどうかは分からないけどね。昼間は宗教関係で聖書を暗唱しながら町を練り歩くらしいわ」
黒い袋を被っているだけでさえ怖いのに、聖書を暗唱しながら歩くなんて正気の沙汰ではない。近付かなくて良かったと思ったが、夜は宗教絡みではないのだろうか。
「夜は男性が飲み屋街を歩きながら、若い子を引っ掛けてるって話しよ」
「何ですかそれ、クズじゃないですか」
「まあ浮気や不倫の温床よね〜。若い子が面白がるように、昼間と違って色々装飾してるらしいから、若い子も釣られちゃうのよ」
「なるほど……。飲み会だからって家族に行っておけば、飲み屋周辺に行っても怪しまれないですもんね。袋なんかは鞄に入れればいいし」
「そういう事」
おばちゃんはお茶を1口飲んでから続ける。
「あなた達、旦那さんいるでしょ??気を付けなさいね。若い子の中でも美人局とかやってる子もいるから、逆に引っ掛かると大変よ」
「肝に銘じて旦那に釘刺しておきます」
平野が敬礼しながら言うが、私は不安だった。
「………旦那、明日飲み会なんですよね」
「「あら」」
2人の声が重なり、心配そうに私を見てくる。私は思わず、ここ最近の旦那との生活を話す。
「それは怪しいわ〜」
平野が眉間に皺を寄せて言う。
「車の使用頻度が増えるのも、本当に仕事か分かんないし。維持費が掛かるって最もらしい事言うのも、それにお金を掛けられないって事でしょ??」
「やっぱりそうなのかな〜」
「少なくとも、奈美には必要最低限のお金しか掛けたくないって事よ。それが浮けば自分は遊ぶお金に使えるし」
平野の言葉ひとつひとつが胸に刺さる。確かに、ここ最近2人で外出も無いし、私が服やバッグを買おうとすると『家計が赤字になる』と言って許可してくれない。私だって働いているのに、自分の財布から出すのも許されない。
「まあ決定的な証拠が無いなら、何も言えないわよね」
「そうなんですよ。車のナビで履歴探ったとしても、そんな事してたら怪しまれるし…」
「そうよね、鞄とか漁ったらますます証拠隠されそうよね」
おばちゃんは困ったように、頬に手を当てながら考える。
「それこそ、明日飲み屋街に行ってみれば??」
「「え??」」
「黒い集団が飲み屋街にも出るって聞いたって言えば気になるから見に行くって口実も出来るし。私から聞いたって言ってもらって全然良いわよ〜」
ニコニコと楽しそうに提案してくるおばちゃんに、その手しか無さそうだなと思えてくる。
「よし、私も付き合うわ。一緒に行ってみましょ!!」
「あ、ありがとう」
翌日、仕事に向かう旦那に夜は同僚とご飯食べてくると伝えると「分かった」と簡単な返事で了承される。
「あなたも飲み過ぎないようにね」
「分かってるよ」
私の心配を煩わしそうに顔をしかめながら旦那は家を出た。溜息を吐きつつも、私も仕事へ行く支度をしてから家を出た。
昼間は通常通り仕事をしていたが、この後の事が気になりすぎて、いつもより集中出来なかったような気がする。もう黒い集団よりも、旦那の不貞の方が気になっている。
浮気をしていたなら、果たして何時からなのか、相手はどんな人なのか。気づかなかった私もよっぽどの間抜けだ。旦那が隠すのが上手かったのか、証拠を一切家に持ち込まなかっただけなのか。
そんな事を考えていると、時間が過ぎるのはあっという間で。いつの間にか定時を過ぎており、私は慌てて帰る支度をしてやけに乗り気な平野と共に会社を出る。
「さぁ、浮気の証拠を掴むわよ!!」
「まだ浮気と決まった訳じゃ…」
「そんな弱気でどうするのよ!!スマホで写真撮るの忘れちゃダメよ!!」
「………はい」
平野に腕を掴まれ、そのまま引き摺られるように私達は飲み屋街へ向かった。
時間がまだ18時過ぎという事もあり、飲み屋街に人は疎らだった。外がよく見える近くのファストフード店で軽く腹ごしらえをし、そこから黒い集団が現れるのを待つ。
「でも、何処から来るか分からないから、通り1本間違えれば見えないわよね」
「飲み屋街で、店に入らないでフラフラしてる方が怪しいわ。それなら19時くらいまでここに居た方がいいわ」
「それはそうだけど……」
それから、仕事の愚痴やら家庭の話をしながら外を見ながら時間まで待つ。ダラダラと話していると、平野が「…ねぇ」と話を遮る。
「黒い集団ってあれじゃない??」
「え??」
平野が指差す方を見ると、空は薄暗くなっているが、街は明るい看板に照らされている中、光と闇に紛れて動く黒い影が見える。それも1つでは無く、いくつもあった。
「あれよ。私がこの前見たのもあんな感じだったわ」
だが、その時とは違うとこがある。私が見た時は本当に真っ黒の袋を被っていたが、今現れた集団は何やらキラキラしている。おそらく、パーティーとかに使うメタリックテープ等を貼り付けているのだろう。それが、店の看板や街灯で反射しているのだろう。
「なるほど……。ああやって目立って若い子を引っ掛けるのね」
「呆れるわね……」
私達が見ているとも知らずに、その集団は目の前を通っていく。全員が通り過ぎたのを確認して、私達は店を出た。
一定の距離を保ちつつ、黒い集団の後を追うが今のところただ歩いているだけだ。何処まで行くのだろうと思っていると、十字路を左折していく。その先は若い子達がよく集まっている居酒屋な多い通りだ。やはり目的は若い子なんだろう。
平野と共について行くと、楽しそうな声が聞こえてくる。店の影から通りを覗くと、黒い集団に若い女性達が群がっていた。
「今日は少なくない??」
「もっと派手な人もいるけど、今日は皆シンプルだね〜」
そんな会話が聞こえてきて、彼女達は日常的に彼らと飲んでいるのだろう。半ば呆れつつ見守っていると、彼女達は気に入った黒い袋の人を1人、また1人と連れて行く。連れて行かれた人は店の近くで袋を脱いで、姿を見せる。やはり、何処にでも居そうなサラリーマン風の男性が多かった。
その中に旦那がいないか注意深く観察するが、今のところ選ばれていないようだった。その事に安堵しつつも、少し情けなかった。あんな格好をしても若い子に選ばれないなんて、悲しくならないのだろうか。
そんな事を考えていると、また1人と連れて行かれる。私達が身を隠している店の近くまで来たので、慌てて少し離れる。連れて来られた人は、モゾモゾと身動ぎしながら黒い袋を脱ぐ。
顔が露になった時、私は思わず「あっ」と小さく声を漏らす。
「……旦那??」
私の声に察したのだろう。平野が私に確認するように聞いてくる。私は無言で頷く。
そう、女の子と意気揚々と店に入ろうとしているのは私の旦那だった。やはり、会社の飲み会なんて嘘だったのだ。
旦那は私達に気付いている様子は無かった。私はスマホを取り出し、日中にインストールしていた無音カメラで写真を撮る。もちろん、夜景モードなのでくっきり2人の姿が写っている。
撮られているのも知らず、旦那は店に入っていったので私達も少し後から店に入る。案内された席は後ろ姿だが、旦那と若い子の姿が見える席だった。平野がトイレに行く振りをしつつ、会話をこっそり聞きに行ってくれた。戻って来た時に平野は盛大に溜息を吐いた。
「旦那さん、初めてじゃないっぽいね」
「嘘っ!!」
「あの子、毎回旦那さんを選んでいるみたいよ。『今日も同じカラーリングのテープだったから、分かりやすかった』なんて言ってたわ」
「……常習犯だったのね」
毎回となれば、最早立派な浮気だ。現場を押さえたのはいいが、この先どうしようかと平野に聞く。
「ホテルとか行くとこを押さえれば、間違いないけど……。取り敢えず、2人が店を出るまで私達もここにいようか」
「そうね……」
正直、ホテルに入るとこなんで見たくない。だが、決定的な証拠を掴むにはそれしか無いのだろう。私はスマホでカメラをビデオモードにし、椅子に立て掛けてこまめに録画をする事にした。
飲みたくもないお酒をなんとか飲みつつ、2人が店を出るまでの時間を過ごす。入ってから2時間は経過しただろう。2人が荷物を片付け始めたので、私達も店を出る準備をする。会計で鉢合わせしないように、会計は平野にお金を渡し、私は店の奥に身を隠す。終わった頃に平野と合流し、先に出た2人の後を追う。
飲み屋街から外れ、かなりの距離を歩いている。何処まで行くのかと思いながらついて行くと、漸く足を止めたのは平野の予想通りホテルだった。ホテルに入るところを撮影し、私達はそのままホテルの前を通り過ぎ、十字路を右に曲がったところで足を止める。
「………嫌な予想が当たっちゃったわね」
平野が私を慰めるかのように、俯いている私の背中を優しく摩ってくれる。
「……なんか、こんな事に付き合わせてゴメンね」
私は申し訳なくなり平野に謝る。平野は首を横に振り、私の肩に両手を乗せる。
「何言ってんの、確かめようと言ったのは私なんだから!!気にしないで」
「………ありがとう」
笑顔で言う平野に、私も釣られて微笑んでお礼を告げる。
このまま、ここで出てくるのを待つか今日は帰るか悩むが、平野は「どうせなら、出てくるとこを撮ろう」と最後まで見届けるつもりだった。頼もしく思いながらも、遅い時間まで付き合わせる罪悪感も拭えない。だが、また謝ると今度は怒られそうなので、黙って頷くだけに留めた。
待つ事3時間が経過した。とっくに日を跨ぎ、車の音等も聞こえなくなってきた。欠伸を堪えつつ、まだ出てこないホテルの入口を見張る。そろそろ出て来てくれないかと思っていると、突如話し声が聞こえる。スマホを掲げ、ホテルの入口に向けると旦那と女性が出て来るところだった。その瞬間をカメラで捉え、平野と顔を見合わせ頷き合う。
意を決して、隠れていた物陰から2人の方へ歩いていく。旦那は最初、気にしていないようだったが、人の気配に気付きこちらを見る。すると、ホテルの照明に照らされている顔は真っ青になっていった。
「こんばんは、随分素敵なところで飲み会するのね」
「いや、あの……」
旦那は、必死に言い訳をしようと口をパクパク動かすが、言葉が出ないようだ。旦那に腕を絡めさせている女性は、呑気な声で「誰〜??」と旦那に聞いている。
「初めまして、主人が何時もお世話になっているようですね」
なるべく笑顔でそう告げると、知らなかったのか女性は「し、主人??…えっ??」と困惑しながら、私と旦那の顔を交互に見る。
「どんなに誤魔化そうとしても無駄よ。私達2人で、あなたが変な袋被ってその子と会う瞬間から全部見てたんだから」
平野も頷き笑顔で旦那と女性に言い放つ。
「しっかり証拠写真もあるので、逃げられませんからね」
「奈美、俺の話を聞いてくれ!!これは理由があって……」
「聞きたくないわ。弁明するのであれば、お義父さん達の前でして頂戴。しっかり連絡、報告させてもらうわ」
「親父に言うのか!?」
義父は教師を勤めており、とても厳格で真面目な人だ。怒る事は滅多に無いが、曲がった事は大嫌いなので相当絞られるだろう。
もう帰って来なくていいとだけ伝え、私は平野を伴いその場から離れる。
「ありがとう、ここまで付き合ってくれて」
「いいのよ〜、気にしないで。ただ、何であの姿だったのか聞き出したら教えてね」
「分かったわ。今日のお礼に今度お昼でもご馳走するわ」
「じゃあフレンチで」
2人で笑い合いながら、夜の色が深くなる街を歩く。朝になったらお義父さん達に連絡しなきゃと、色々やる事を考えながら平野と別れて家に帰った。
その後、義両親に私の連絡により旦那共々、日曜日に義実家に呼び出され詳細の説明を求められた。予想通り、旦那は義父に怒鳴られた。義母は「バカ息子!!」と言いながら泣いていた。そして実家で反省するまで監視する事になり、給料は義父が管理する事になった。その中から私への生活費も出してくれるらしい。そこまで義父がしてくれるのであれば、離婚まで考えていたが、もう少し様子を見る事にした。
「奈美さん、愚息が迷惑を掛けて申し訳無い。困った事があれば何でも言ってくれ」
「私達の育て方が悪かったのね……。ごめんなさい」
2人は頭を下げて謝罪してくれたが、旦那からは一言も謝罪が無かった。そんな旦那にさらに雷を義父が落としていた。旦那には呆れつつ、私は義実家を後にした。
暫くは一人暮らしを満喫出来ると思いながら、旦那と再構築出来るか不安だった。普通であれば難しいだろう。ただ、浮気相手の女性家族からも謝罪をしてもらい、慰謝料もきっちり支払ってくれると義父に連絡があったので、離婚する時のために取っておく事にした。一件落着とは言わないが、これ以上事を荒立てたくないので、取り敢えず良しとして平野に報告しなければと思いメッセージを贈る。
因みに、あの黒い袋を被っていた理由は会社の同僚に教わったとの事だった。その同僚も同じ手口で若い子と浮気をして、奥さんにバレて離婚されたようだ。何故旦那は、自分ならバレないと思ったのかは不思議でしょうがない。その同僚も知人から聞いたようで結局始まりは何処からかは謎のままだ。ただ、宗教団体の真似をすれば、若い子は物珍しさで集まるだろう。それに目を付けたのかもしれない。
平野に伝えると笑いながら「男ってバカだね〜」と返ってきた。
「でも、女性も中にはいるらしいよ。若い男の子捕まえるために」
「……あんま欲張っちゃダメよね」
「そういう事」
2人で乾いた笑いを浮かべながら、私も釣られないように気を付けようと改めて心に刻んだ。