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音楽東京  作者: 深澄
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師走の夜

 お腹が鳴る。喉の奥から唾がわいた。肉の焼ける香り、たれの甘く香ばしい匂い、炭火から立ち上る煙、人間に辛うじて残る動物としての本能が疼く。周りの客の笑い声が遠く聞こえるほど、目の前で脂が弾ける音に集中してしまう。

(アオ)さん、すごい顔してるよ」

「え?」

「目がらんらんとしてる。ほんとに食べてなかったんだな」

「いや……そんな……」

「もうちょっとで焼けるから待ってね」

 剣持さんは、にこにこと私を見つめながら甲斐甲斐しく肉を焼いてくれている。自分はほとんど食べずに、私の皿にばかり脂の滴る肉を盛った。

「あの……恥ずかしいんですけど……」

「いいのいいの」

「よくないです」

「あ、もう焼けたかな。ほら美味しそう」

「ありがとうございます。でも剣持さんも食べて」

「食べてるよ。俺のことは気にしないでいいから。次の焼いていい?」

「ちょっと、待ってくださいそんなに食べられません」

「はは、ごめんごめん」

 軽く睨んでも心底楽しそうな笑顔を見せる剣持さんに、私はふいにおかしくなった。小さく吹き出し、肩を震わせる。剣持さんが目を丸くするのも愉快で、そのまましばらく、湧き上がる明るい感情に身を任せた。こんなに笑うのは久しぶりだ。東京に来て以来――いや、もっと前からかもしれない。

「なんか、剣持さんってお母さんみたいですね」

 焼き肉屋からの帰り道、満たされて暖かくなった心と身体で私たちは十二月の夜を歩いていた。食べ放題で元を取るほど食べ、「奢り甲斐がある」というよくわからない褒め言葉をもらい、駅まで送ってもらっているところだ。

 何気なく発した呟きに、剣持さんは目を瞬かせる。

「え? お母さん?」

「意外と世話焼きなところが()()なぁって」

「どちらかと言うとお父さんかお兄ちゃんの方が嬉しいな」

「じゃあお兄ちゃんにしましょうか?」

「ありがとう」

 私たちの立てる小さな笑い声は、冬の夜空に白いベールを被せる。冷たく柔らかい風が、マフラーの隙間から忍び込んで首をくすぐった。

 どこからか、誰かの歌声が聞こえてくる。有名な女性歌手の、冬の歌のカバーだった。

「誰か、歌ってるね」

「そうですね」

 私と同じように、音楽で身を立てようとする誰かがこの街にはいるのだ。ライバル意識よりも仲間意識が芽生えたのは、心の奥底に自分の方が上手いという自負があったからかもしれない。思い上がりとも言えるが、自分を信じなければすぐに折れてしまう世界だということも、事実だった。

「また誘ってもいいかな」

 駅に着き、剣持さんはイルミネーションに彩られた街路樹を見上げながら尋ねた。目が合わないので、そこにある感情が読み取れない。黙り込んでいると、彼が言葉を継いだ。

「音楽って孤独だから、時々刺激が必要だと思って。別に変な意図はないよ、たぶん」

「たぶん、ですか」

 言葉が零れた。硬い声だった。剣持さんは、それに気づいてか眉の下がった微笑みを向けた。

「なんとなくだけど、青さん、男性苦手?」

「え……」

「目が合わないし、顔が近いと一瞬すごく嫌そうな表情になる」

「…………」

「いや、ごめん。責めるつもりはなくて……。俺はあなたの音楽が好きで、なんとか力になりたいとずっと思ってる。それだけだよ」

 私は彼の目を見つめた。確かに、今日初めて目が合ったような気がする。慈愛、心配、尊敬、罪悪感。その他ありとあらゆる感情が、水面に落とした絵の具のように、混ざりきれずに揺らいでいた。最後に付け足した「それだけだよ」という一言は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

 迷っているんだ。

 そう感じた。

 この人は迷っている。私に対する感情が何なのか、どう分類したらいいのか、自分でもよくわからずに悩んでいる。それはとても、誠実なことだと思った。

 誰かに本気で向き合おうとする時、私たちは迷う。相手とどういう関係でいたいのか、相手は自分をどう思っているのか、自分の感情は? 迷いながら、私たちは大切な人になっていく。

「ありがとうございます」

 それだけ言って、私は頭を下げた。私もまた、迷っているから。冗談でなく、肉親よりも頼りになる剣持さん。向けられる感情にかかわらず、私は彼を慕うことができるのだろうか。

「じゃあ、また店で。気をつけて帰ってね」

 剣持さんが片手を上げる。私も同じようにして応えた。

 ふいに、頭の中にメロディーが浮かんだ。重く切ない響きだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 五感に訴える作品。 描写がとても丁寧で文章が美しい。 会話文ではなく地の文で読ませる、そんな作品。 [一言] 良い意味でなろうらしくない作品ですね。 続き、楽しみにしています。
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