8.昔から知ってる
――ウィナ! ウィナ!! しっかりしろ!
暗闇で誰かの声が響く。きつく閉じた瞼を少しだけ緩めると光が差し込んだ。長い夢を見た直後のように、半覚醒状態の自我が浮遊しているような感覚。ウィナはぼんやりとした意識の中、全身を覆う脱力感に心地良さを感じた。
「――ぅっ!?」
前言撤回。頭が割れそうなほどの頭痛が走り、嘔吐感と眩暈があとから追いついてくる。平衡感覚が仕事を放棄し、濁流にでも飲み込まれているかのような猛烈な感覚に襲われた。
――医者を呼んでくれ! 水もだ! 氷嚢を作る!
また遠くで誰かが叫んでいる。背中に冷たく硬い感触を覚えて、壁に押し付けられているように感じた。片目を開けて確認すると、誰かの足が壁に張り付いている。違う。自分が寝かされているのだ。しかし、頭ではわかっていても、感覚器官の方は悟ってくれていないようで、不動のはずの地面が大きく傾斜してゆく。
しばらくして、やや治まってきた眩暈を振り切って瞼を開くと、視界いっぱいに顔が二つあった。誰かはわからない。霞んでいる上に、注視しようとしても視線があらぬ方向にズレていくのだ。
――ウィナお姉さま……!
顔に柔らかい感触と鼻孔をくすぐる飛燕草の香り。ラウィーリア家に勤める者が使用する香水だ。嗅ぎなれたその香りに意識が徐々に明瞭になってくる。大きく息を吸って目を瞬かせた。
「ウィナ、わかるか? 俺だ」
「ウィナお姉さま?」
気がつけば、こちらを覗き込んできていたのはバルネットとリタだった。坑道の中に寝かせられているのだろう。岩の天井が後ろに見える。
「よかった……。本当によかった」
言いながらバルネットは溜まっていた肺の空気を一気に吐きだして、ウィナの視界から外れた。状況が読み込めず声を出そうとすると、鼻に何かを押し当てられていることに気づく。
「もごもご」
「あっ……」
はっとしてリタが手を引くのが見えた。その手に握られていたのは青いハンカチだった。だが無残にも黒ずんだシミが広がっていて、それが自分の血だとウィナは察した。
ウィナは頭痛に顔をしかめながら、上半身を起こそうとゆっくりと身動ぎする。
「まだ寝ていた方が……」
「だいじょぶだいじょぶ」
止めようとするリタを手で制し、額を押さえながら周囲を見回した。ウィナは魔装から少し離れた場所に寝かされていたようだ。兵達が騒々しく走り回っているのが見える。
そこで目についた光景に違和感を感じ、「ん?」と息を漏らした。
瓦礫に横たわっていたはずの魔装が、今は膝をついて行儀よく座っている。その後ろには意味をなさなくなった足場が残っているので、ウィナの記憶違いなどではないだろう。
「あれ、動いたんだ」
ウィナの発言に二人は顔見合わせ、再び怪訝そうに視線を寄こした。
「覚えていないのか…?」
「落っこちたのは覚えてる」
「お前が中に入った後、魔装が動き始めたんだ。呼び掛けても返事をしないから、すぐさまお前を引っ張り出した。そうしたら……」
言葉に詰まるバルネットの代わりにウィナが続けた。
「鼻血出してぶっ倒れてた?」
「目からも出てたぞ」
「えっ、化粧ヤバっ」
おどけてみせるウィナ。それを見たバルネットはいつになく真剣な表情で、
「心配したんだぞ」
「……ごめん。助けてくれてありがと」
詫びたウィナにバルネットは短く溜息をついた。
「迂闊過ぎる」
「信じらんないと思うけど押されたのよ」
「技師長にか?」
ウィナは静かに首を横に振った。ラウルはそんなことをする人物ではない。それにウィナを突き落とすには離れた位置にいた記憶がある。
じゃあ何にアタシは押されたんだろうと考えていると、和らいでいた頭痛が再び襲ってきた気がして頭を押さえた。
「ウィナお姉さま。お医者様に見てもらいましょう」
心配そうに身を乗り出すリタの頭を撫でながら、ウィナはこくんと頷く。
左手につけられた腕輪の鈴が、音もなく揺れた。
◇
「皆さーん! おかわりもありますから、たくさん食べてくださいねー!」
坑道の外、青空の下で明るい声がキャンプに響く。快活な少女の呼びかけにあちこちから野太い返事が聞こえて、リタが笑顔を振りまいている。
リタは来て早々に自分の魅力を広め終わったらしい。キャンプ中の兵士がリタを見て表情筋の硬度を下げ切っている。あの可愛さはもはや一種の魔法に近いなぁ、などと思いながら、ウィナは鍋の中のシチューをかき回した。
横で調理道具を洗っているバルネットも同じ感想を抱いたようで、感心したように言葉が漏れる。
「本当に良い子だな」
「さすがはアタシの妹分よね」
「ああ、信じられないな」
「あ?」
「ん?」
坑道内での騒ぎの後、ひとまず魔装の周囲の足場を組みなおすこととなった。ウィナが乗った後に起き上がった巨人は片膝立ちで停止しており、そのままでは足をよじ登らねば装従席に入れない状況だ。そして、驚くべきことに騎士候補ではないウィナが乗って動いてしまったという事実。これが一度仕切り直す必要性を訴えている。
流石に兵士でも騎士でもなく、ましてお偉いさんの侍女であるウィナを、血だらけで救出されたあとに乗せることはできないとのことだ。そんなこんなで事情が複雑化し、まずは腹ごしらえをすることになって今に至る。
それはさておき。なぜこの男は手伝いをしているんだろうとウィナは視線を投げた。
「アンタ、もう食べたの?」
「あの子からもらった。美味かったよ」
「褒めて、もっと褒めて。我、ラウィーリア家の侍女ぞ?」
「お前の料理が美味いのは昔から知ってる」
手元を見ながら率直な感想を述べるバルネットに、今日はやたら素直だなとウィナは思った。
そうしている間にも、一杯目を食べ終わる頃合いなのか、次々と器を持った兵士が寸胴鍋の前に列をなしている。差し出された器にシチューを注いでいくウィナに、バルネットは「体調は大丈夫か?」と尋ねてきた。
「まぁね~。治癒魔法もかけてもらったし、軍医さんも異常ないってさ」
ウィナは大袈裟に肩をすくめる。
「もう二度とあれには乗るな。お前に何かあったらフィロメニアに合わせる顔がない」
「頼まれても乗らないわよ。もう手伝いはいいから、おかわり食べなさいって」
ウィナはそう言ってバルネットの器にもたっぷりとシチューを入れる。特段、具材を多めに、溢れんばかりの野菜と肉が食欲をそそる香りを漂わせた。バルネットは礼を言って、すぐにその場に座って食べ始める。
幼馴染が自分の料理をかき込む姿を見て、ウィナは満足そうに笑みを浮かべた。