4.お暇を頂けますか
この世界では世間一般的に七日働いて一日休むというのが常識だ。火、風、土、水の四属性から成る曜日を二回繰り返し、一週目を陽、二週目を星として、陽火日、星火日と呼ぶ。週の最後にくる星水日をレゼの水祭になぞらえて休みとし、火という文明を太陽と共に昇らせることで新しい週を始めるのだそうだ。
しかし、基本的に侍女の仕事に休みの日はない。それについて特に不満はない。この仕事に就いたときからそうなので慣れてしまっているし、願い出れば暇をもらうこともできた。それに加えて館での仕事を終えた後の誰にも邪魔されない、自分にとって自由時間が必ずある。
その時間を利用して、ウィナは館の裏庭で木剣を振っていた。星空だけ見守る中、幼い頃に母から教わった剣の型を何度も繰り返す。
剣の鍛錬をしている最中は剣だけに集中せよ、との母の教えに沿って、この時間だけは日々の雑念を振り払うことができる。だからこそ今日もこうして剣を振っているわけだが、今日は著しく精細を欠いていることを自覚していた。
手に伝わる感触に集中しようとしても、夕方のバルネットとの一件が脳裏にちらつく。その度に胸にチクリとした痛みが走る。
ウィナは気づかないうちに心の声を口にしていた。
「アタシッ! だってッ! わかってッ! んのよッ!」
騎士――それは両親が貫いた道だ。両親はラウィーリア家に騎士として務め、この地でも最高位の騎士だった。ウィナの思い出の中の二人はいつも穏やかで物静かな夫婦だったが、騎士としての戦場に向かう姿はまるで別人のようだったと覚えている。沢山の人の喝采と敬意を持って見送られ、歓声と熱気に包まれながら街に戻ってくるところを幼馴染たちと手を握り合って何度も見た。そんな両親の姿を目に焼き付けてきたウィナにとって、騎士という存在に憧れるのは当然のことだった。
いつか両親が自分を守ってくれたように、自分がフィロメニアを守る。それがウィナの憧れた騎士だった。
だが現実は冷酷だ。魔装を操るための絶対条件——魔法の才に恵まれなかった。魔装は魔力で操る巨人であり、その巨体を通して魔法を増幅する兵器だ。いくら剣術を極めようと、いくら志が高かろうと、魔法が使えない人間に巨人は応えない。
そんなことは、もうずっと昔からわかっている。わかっているはずなのに。
「なのにッ!」
激情に任せた振りが、ひと際鋭く風を切る。
バルネットに当たってしまった。フィロメニアを交えて幼少時代を共にした幼馴染は、意味もなく皮肉を言う男ではない。バルネットは彼の酷く荒れた手とウィナの白く細い指を見比べて、感じたことを口にしたのだろう。きっと不器用なあの男はこう思ったのだ。
できれば、この白い指のままでいてほしいと。
そんなことくらいわかっていた。自分が幼馴染に傷ついてほしくないと思うように、バルネットもまた傷ついてほしくないと思っていることを。そして、それはフィロメニアも同じなのだ。魔法の才能に秀でる彼女にとって自分は弱い存在で、盾とすべき騎士などではない。
だが――瞼の裏に焼きつく母の剣が、父の背中が忘れられない。心の奥に燻る騎士への憧れが、叶わぬ悔しさが消えてくれない。
気がつけば息を切らし、突き立てた剣を支えに膝をつく自分がいた。額から流れ落ちる汗を拭って、その場にへたり込む。
「なにやってんだろ。アタシ」
両親に命を救われ、領主の館に雇ってもらい、才ある者が集まる学院に通わせてもらって、良き友人たちがいる。これ以上、なにを望むというのだ。世界にはその一つすら与えられぬ者が大勢いるというのに。このまま侍女としての役目を果たし、平穏に暮らせば良いではないか。
巡らせる思考が自らの心を突き刺す。その痛みに自分を嫌いになってしまいそうで、ウィナは考えを抑え込むように両手で顔を覆った。
「ウィナお姉さま?」
声にはっと振り返る。庭木の影から小さな影がこちらを伺っていた。ウィナよりも背丈が低く、暗がりでも判別できる特徴的な輪郭にその名を口にする。
「リタ?」
「お邪魔してしまいましたか……?」
リタと呼ばれた少女が恐る恐る顔を出した。日に照らされた稲穂を彷彿させる金髪に、自分とお揃いのリボンが揺れている。
それを見て、ウィナは慌てて曇っていた表情を繕って、小さな来客に手招きした。
「そんなことないよ。こっちにおいで」
リタは微笑みかけられたのが嬉しかったのか、小さな顔にぱっと笑顔が咲く。その手にはタオルを抱えていて、どうやら自分のために持ってきてくれたようだ。
「大きな声を出していらっしゃって……。大丈夫ですか?」
「あ、聞こえてた? 恥ずかしいなぁ」
汗をリタに拭ってもらいながら、ウィナは軽快に笑った。
リタは今年十歳になるメイド見習いである。まだ館に来て半年で、ウィナに付いて仕事のあれこれを学んでいる最中だ。気立ても良く、なんでも器用にこなすので館の皆に可愛がられている。もちろんウィナにとっても、ちょこちょこと付いてきては「お姉さま」と慕ってくる妹分が可愛くて仕方がない。
「お疲れですか?」
隣に座り込んで、リタは心配そうに覗き込んでくる。実にいじらしいのは、上目遣いであどけなく見上げる仕草だ。ウィナも背が低いので試しにバルネット相手に真似してみたことがあるが、なにやら鼻息荒く頭の病気を疑われる結果となった。酷い話である。こういうのは子供の特権なのだろうか。
ウィナが手で顔を引き延ばしてやつれた風な表情を作り、「う~ん? そうかもおぉ」などと迫ると、リタはきゃっきゃとはしゃいだ。剣を振るよりも、年相応に無邪気な面もある妹分の顔を見ていた方が邪念を振り払えるようだ。ウィナはそのことに気づいて、芝生から腰を上げる。
「今日は終わりにして、お風呂でも入ろうかな。リタは入った?」
「まだです」
「んじゃ、一緒に入ろっか」
「はい!」
地面に突き立った木剣を回収し、傍らの少女の小さな手を引く。ウィナは先ほどまで自棄になっていた心が軽くなっているのを感じて、リタに微笑みかける。
「リタ、ありがとね」
お礼を言われたリタは、一瞬だけ不思議そうにウィナを見上げた後、もう一度「はい!」と答えた。
◇
翌日、日がちょうど高い位置に来る時間。館の応接間で会議が行われていた。
ウィナは扉近くの壁に立ち、行われている会議の邪魔にならないよう静かに目を伏せる。
「よもや鉱山から出土するとは、珍しいこともある」
そういって気難しそうに顎をさすったのは、栗色の髪を撫でつけた中年の男性――この館の主であるベルトランド・ヴィル・ラウィーリアだ。
「見つかった場所はともかく、特徴を聞く限り水祭前の魔装で間違いありませんね」
彼とはテーブルを挟んだ向かいのソファで、修道服に身を包んだアイナがカップを持ち上げる。今日は麦わら帽子も作業靴も身につけていない。組んだ白い足がスリットから覗いていて、艶っぽい雰囲気を醸し出していた。
ベルトランドの横に座ったフィロメニアが書類に目を落としながら続ける。
「先んじて送った魔装二騎と兵のおかげで、坑道の補強作業は終わっています。今のところ崩落の心配はなさそうです」
「なら、運び出すための人員と物資を考えるとその場で起動させるのも良いかもしれません」
アイナが返すとフィロメニアは困ったように表情を歪ませた。
「少し問題が」
アイナの目が瞬く。それを受けてフィロメニアは続けた。
「構造がわからず、装従席が開かないそうです。ラウル技師長が同行しているのですが」
「基本構造は他とそう違いはないはずだけれど……。現地の騎士でも駄目だったのですね?」
「はい。明日、追加の物資と共に、新たに選定を受ける人員を送る予定です。その結果で判断しようかと」
ラウルと聞いてウィナの頭に髭面の男が思い浮かぶ。確か両親の乗っていた魔装を整備していた技師だ。小さい頃に遊んでもらった記憶がある。
「……そうですね。それで駄目なら運び出すしかありません。【忌獣】の予兆のない今ならば、魔装の数も増やせるでしょう」
アイナはしばし考えた後、フィロメニアの方針に従うことにしたようだ。フィロメニアが「そのように」と書類をまとめようとすると、
「一つ提案があるのですが」
アイナが切り出した。
フィロメニアとベルトランドが顔を見合わせる。二人が言葉を待っている様子をウィナが眺めていると、アイナの顔がこちらに向いた。
「――ウィナを同行させたいのです」
ん? とウィナは首を傾げた。聞き間違いでなければ自分の名前が出てきた気がする。話の流れに身に覚えがないが、光を灯した瞳孔はどう見ても自分を捉えていた。この部屋での立場上、発言することも憚られ、視線を宙に彷徨わせる。
「彼女の古い記憶による健康への影響を考えて、実際の遺物を見せたいのです。場所も比較的近く、状況的にもこれ以上ない良い機会です」
古い記憶という言葉にウィナははっとしてアイナを見た。淡い輝きを灯すその目は微塵の揺らぎもせず、こちらを射抜いてくる。
ウィナが突然のことに戸惑っていると、
「アイナ様。少し突拍子が無さ過ぎていて即答出来かねます。……この子の記憶や睡眠障害については伺ってはいますが、その治療に必要ということでしょうか?」
眉間に皺を寄せたベルトランドにアイナは静かに向き直った。
「ええ。彼女自身が遺物を観察し、実際の記憶と夢との乖離を和らげる。そういった療法を試す必要があります」
「なるほど……。しかし、かえって悪化することはないのかが気がかりです」
「ないとは言い切れません。ただ……彼女の記憶は正直、私の知識を持ってさえも理解できない点が多い。発掘しているその場所を自身の目で確かめる機会を与えたいのです。それに魔装は彼女の――」
「アイナ様」
突如、ベルトランドが言葉を遮る。口を噤んだアイナはわずかに視線をこちらに流した後、静かに息を吐いて頭を垂れた。
「すみません、これは関係のないことでしたね」
ベルトランドは胸に手を当てて謝罪を受け入れる。
「いいえ、私こそ失礼を。――ウィナフレッド」
「はい」
「アイナ様の見立てだ。街の外は不安かもしれないが、嫌でなければ仰る通りにしていい。それに知見を広げることは将来、きっと役に立つ。自分で決めなさい」
問われ、ウィナは黙り込んでしまった。決して街の外に行くことが嫌なわけではない。不安があるとすれば、フィロメニアの傍を離れることだった。ウィナとて四六時中、共にいるわけではないが、少なくとも駆け付けられる距離にはいる。それが城館どころか街の外となると抵抗があった。だが――。
「フィロメニアお嬢様」
ウィナが呼び掛けると、彼女は眉尻を下がった顔でこちらに向ける。
「少しの間、お暇を頂けますか?」
そう言って深々と頭を下げると、しばしの間、部屋は沈黙に包まれた。
やがてフィロメニアは絞り出すような声で答える。
「……お前を慣れない環境に長く居させたくはない。日を跨がずに戻れ」
「ありがとうございます」
顔を上げると、ベルトランドはアイナと頷き合い、会議の終わりを告げた。
アイナは肩の力を抜いて、残った紅茶を飲み干し、ウィナに向き直る。
「それにしてもウィナは本当に侍女らしくなりましたね。あなたの淹れてくれたお茶も非の打ち所がありません」
「もったいないお言葉でございます」
「ふふっ……その受け答えも様になっていますよ」
アイナがぽんと手を叩き、立ち上がる。随分と急な話が決まってしまったが、あたふたする前に客人の見送りをせねばなるまいと目の前の仕事に意識を戻した。
部屋を出るアイナのために扉を引き、腰を折って退室を待つ。
「ウィナ」
部屋を出る直前、アイナが声をかけてくる。はい、と面を上げると、耳元で囁かれた。
「鉱山で発見されたのは【レゼの水祭】以前の魔装――現在見られるものの原型となった巨人です。遺物と共にしっかりとその姿を見ておきなさい」
そう微笑みかけられウィナは答えに詰まる。視界の隅にフィロメニアの浮かない顔が見えてしまったから。
返答に窮したウィナは、やがて無言で頭を垂れるのだった。