16.私を助けろ
傾いた日が赤みを増し、市場に並ぶ商品を各々が畳み始めた頃、それは起きた。
最初は誰かが悪戯をしているのだろうか、と思うほど遠くで聞こえる鐘の音だった。教会のものとは違い、軽く高い金属音が短い間隔で打ち鳴らされる。そのうち、街中にいくつも備え付けられた鐘が波紋を広げるように鳴らされ始めた。川辺で遊んでいた子供たちが不思議そうに空を見上げる中、いち早く気づいたのはその親達だ。すぐさま自分の子を担ぎ上げ、炊事の火を消し、手を引いて教会を目指す。親が子を、子が親を呼ぶ中、誘導を行う将兵や役人の声が飛んだ。
――忌獣が来る。火を消し、お屋敷に向かって走れ。歩けないものは教会に行け、と。
混乱の中、民衆はその手に家族以外の何も持たず、ひたすら街道を走る。
街道の石に躓き、少年は地面を転がった。背中を踏まれなかったのは運がよかっただろう。痛みに顔をしかめ、よろよろと立ち上がろうとした少年に、白い手が伸ばされた。
「立てるな?」
少年はその手の主を見上げる。銀の髪を揺らしながら、藍色の制服を身に纏った女性が立っていた。とても綺麗な人だ、と月並みな感想を抱くが、それどころではない。少年がべそをかきながら頷いて手を取ると、女性はぎゅっと握り返してきた。
「強いな。では私と一緒に教会に向かおう。さぁ……」
「フィロメニアお嬢様!」
女性が手を引いて坂道を登ろうとしたところ、後ろから声がかけられた。外套を纏ったメイドが、焦った様子で駆け寄ってくる。
「お屋敷まで共に避難を! お急ぎください!」
「私は小さな子や老人を教会に連れていく! お前も避難の誘導に回れ!」
フィロメニアと呼ばれた女性は喧騒の中、声を張り上げて指示した。
「しかし……!」
「屋敷にいようが私には何もできん! 急げ!」
狼狽して目を泳がせるメイドを一喝したフィロメニアに、少年は手を引かれる。
「ふぃ、フィロメニアお嬢様!」
後ろから懸命に名を呼ぶ声が聞こえるが、すぐに街中に響く怒号や悲鳴に巻き込まれてかき消えてしまった。
◇
一方でこの領地唯一の学院でも混乱は避けられない。
教室で放課後の歓談を楽しんでいたミレーヌとナタリーは友人たちと共に廊下を走る。
「ま、忌獣って! アイナ様の『お告げ』だとっ、何年も先じゃっ、なかったの~!?」
「『お告げ』も絶対じゃない。だから備えが必要」
ミレーヌが息絶え絶えに抗議の声を上げるが、隣に並走するナタリーはさほど息を切らした様子もなく淡々と答えた。
外に出ると、学院に残っていた他の生徒たちと合流する。そのうちの一人の男子生徒が声を荒げた。
「おいっ! 忌獣の数、やばいらしいぞ! この街の戦力だけで足りるかどうか……」
その言葉に、皆の血の気がさっと引く。各々が避難場所へ向かおうとする中、ナタリーだけが学院内の倉庫へ視線を送っていた。
「ナタリーちゃん、はやく逃げようよぅ!」
ナタリーの腕を引こうと伸ばしたミレーヌの手が空を切る。ナタリーはその場から一歩引いて、ミレーヌの手を避けたのだ。
「……ごめん。ミレーヌ、先に行って」
ナタリーは視線を外さない。驚きにミレーヌは目を見開いたまま、他の友人に肩を抱かれてその場から連れ去られる。
「ナタリーちゃあん!」
去り際にミレーヌの悲痛な叫びがこだまして、あとには遠くからの喧騒と鐘の音だけが残った。
◇
「きゃああっ……!」
地面を揺らす轟音に、そばに座っていた少女が悲鳴を上げる。恐怖に声を出したのは彼女だけではない。教会に避難した人々からもどよめきが上がった。
フィロメニアは震える少女を抱えて、その小さな頭に手を置く。
「大丈夫だ。外壁はそう易々と破られはしない」
「ほんとう……?」
「ああ」
目に涙を溜めて顔を上げた少女に、フィロメニアは笑いかけ、片方の手を握ったままの少年に声をかけた。
「今に街の騎士たちが忌獣を退治してくれるさ。私たちはここで彼らの力になれるよう、祈りを捧げよう」
「騎士の人、つおいの?」
少年がフィロメニアの手をぎゅっと握って、問いかけてくる。フィロメニアは深く頷くと、声を高くして答えた。
「もちろんだ。魔装は見たことはないか?」
「歩いてるのみたことある」
魔装と聞いて、少年はわずかに目に光を取り戻す。その様子を見て、フィロメニアは今はここにいない侍女の顔を思い浮かべた。幼い頃の彼女も、よく学院や外壁近くで魔装を見かけては目を輝かせていたからだ。ウィナが忌獣と遭遇していないかと考えるだけで、フィロメニアは呼吸が早くなるのを感じた。
そんな思考を振り払うように頭を振って、言葉を続ける。
「ならわかるだろう? ギアードの賢人たちが集まって作り上げた、忌獣を討つための巨人だ。負けるわけがないさ」
「うん……!」
少年が強く頷いた。気づけば周囲の子供たちもフィロメニアの下に集まって、話を聞いている。
「ぼくも騎士になって戦いたい」
「あ、あたしも……!」
子どもたちが口々に話し始める。祈りの妨げにならないよう、人差し指を唇に当てながら声を落としてフィロメニアは答えた。
「そうか。でも大事なのは皆を守りたいという気持ちだ。皆、近くの者の手を取って」
言われて、周りを見回した子供たちが互いに手を取る。フィロメニアにも何人かの子供たちが手を伸ばしてきて、その小さな手を自分の手のひらに置かせた。様々な温度と感触が伝わってきて、そのひとつひとつが愛おしく感じる。
「こうすると、目を瞑ってもそこに誰かがいるのがわかるだろう? 自分のためだけじゃない。触れ合ったその者のために祈るんだ」
フィロメニアの言葉に、子供たちは口の結んで目を瞑った。
「私たちは一人ではない。たとえ手を触れられなくとも、この手の記憶があれば想うことができる。家族とはぐれてしまった者も、そうやって触れ合った感触を思い出して祈るんだ」
ぐずっていた子も含め、子供たちは落ち着いてゆく。フィロメニアが手を名残惜しそうに引き、自分の胸の前で合わせると、子供たちもそれに倣った。
その時、ひと際大きな轟音が響く。教会の壁を何かが打つような音が続き、天井からも埃が舞い落ちた。
フィロメニアはこの建物自体が崩れることを懸念し、ゆっくりと立ち上がった。
「フィロメニア様……?」
近くにいた大人たちが声をかけてくる。
「外を見てくる。場合によっては建物の中からも移動した方がいいかもしれん」
そう言って、足元に縋る子供たちを大人たちに任せ、教会の扉を静かに開けた。辺りには人の気配はなく、壁の外からは爆音と金属を打ち合う音がこだましている。
フィロメニアは教会から数歩離れて建物の外観を確かめるが、崩れ落ちるような心配はなさそうに見えた。恐らく小石か何かが屋根から落ちたのだろうと思い、街の方に顔を向けた瞬間。
――視界の横から錆色の化け物が飛び込んできた。
異形が街道に敷き詰められた石畳を削り、土砂を巻き上げながら着地する。なによりその畏怖を感じさせたのは、今までフィロメニアがいた教会とほぼ同じ大きさという巨躯だった。
全身の毛が逆立ち、息が凍る。鼓動が大きく跳ね、体中を悪寒が駆け巡るのがわかった。
「――ひっ……」
赤く光る複眼がこちらに向きかける。
その時、街道を踏み鳴らす足音が響いた。見れば片腕を失った魔装が化け物に猛然と突進していくところだった。
『あああぁぁぁぁぁッ!』
乗っている女性騎士のものと思われる絶叫が上がり、巨人は速度を落とす事なく異形と激突する。
横合いからの大質量の衝撃に、さすがの化け物も甲高い悲鳴を上げて身をよじった。
恐怖に身を凍らせていたフィロメニアはその声で正気を取り戻し、弾かれたように走り出す。巨体同士が体をぶつけ合う衝撃を背中に感じ、首筋にぞわりとした感覚が走った。薄く開いたままの教会の扉に身体を滑り込ませると、すぐさま木製のそれを閉める。
「――かはっ……! はぁっ! はぁっ……!」
忘れていた呼吸を再開し、空気を求めて肺が激しく動く。扉に触れる手が、石の床についた足が小刻みに震えていた。
教会の外の格闘戦の振動で、天井から石片が落ち、乾いた音を立てる。外からの振動が段々と大きくなっていることに気づいたフィロメニアは、瞬時に判断した。
「奥に走れっ! 急げっ!」
叫びに人々は足をもつれさせつつ、教会の奥へと逃げ込む。理解できずに呆然と座ったままの子供たちを担ぎ上げようとしたフィロメニアは、背後で唸るような低音に気づき、咄嗟に振り向いて防御魔法を展開した。
教会の扉が周囲の壁もろとも吹き飛ぶ。氷のような魔法壁ごしに、魔装の肩口を掴んだ巨大な鋏が、巨人の体を石壁に叩きつけ、抉ってゆくのが見えた。吹き飛ばされた石材が防御魔法に激しくぶつかり、砕け散る。防御していなければ破片を食らっていただろう。だが、既にそれもフィロメニアにとって些細なことに過ぎなかった。
なぜなら、建物のすぐそこから、赤い複眼がこちらを捉えていたからだ。
全身を弛緩させ、抵抗しなくなった巨大な人型が放り投げられる。千切れた太い腕が宙を舞い、きらきらと光る液体を撒き散らしながら近くの民家に落下した。
「あ……あぁ……」
フィロメニアの両手がだらんと垂れ下がる。自分の体とは比べ物にならないほど巨大な異形に抗う術はない。それでも、無意識に後ろ手に隠した子供たちをかばっていた。
化け物の尾が先端をこちらに向けてもたげる。眩い光が灯り、雷光が散るさまを見て、これから来るものは痛みすら奪うほどの暴力だと直感した。
心が堰を切ったように生への執着を叫び散らす。生きたい。助けてほしい。
「ウィナ……!」
フィロメニアは自分にとっての騎士の名を呼んでいた。
視界を閃光が塗り潰す。熱が空気を焦がす音と共に、体が浮きそうになるほどの衝撃波が来た。頬を伝う涙が暴風に飛ばされる。
フィロメニアは目を閉じて、死を待った。
だが、予感していた痛みも、熱さも感じない。
代わりに声が聞こえた。
『しょうがないなぁ……!』
「えっ……」
それは今日が始まってから、ずっと聞きたかった音色だった。
何かが自分の前に立っている。誰かが自分に背を向けている。溢れてきた涙で前が見えない。
けれど、フィロメニアは確信していた。
『本当にアタシがいないとしょうがないんだから……!』
前へと手を伸ばす。救いを求めるように、祈りが届くように。
「――あぁ、そうだ……!」
幼いから、フィロメニアの前にあるのは一人の背中だった。誰よりも優れるように、誰よりも先を行くように育てられた自分が唯一前を譲る背中。それが心地よかった。それが自然だった。きっとそれが私たちの形なのだろうから。
だから――。
「私を助けろ……!」
『アタシに祈って……!』
精一杯の祈りを込めて、再びその名を呼ぶ。
「ウィナぁぁぁっ!」
『フィロメニアっ!』
光に立ちはだかる巨人から、騎士が主の名を呼ぶ声が響いた。




