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1.見ていてあげるから

 夢とは、情緒により生み出された物語を記憶から取り出した風景で補完したものである。


 そう教えてくれたのは街の賢人だった。言われた当初は幼いばかりに理解できなかったが、齢十五を超えた今では実感として腑に落ちるものがある。


 夢にも様々なものがあり、そこにある感情も様々だ。楽しい夢もあれば怖い夢もあり、哀愁を呼び起こす夢もある。


 では、これは一体なんなのだろう。


 眠りについたはずの意識の闇の中で、ウィナフレッド・ディカーニカ――ウィナは静かに思案する。


 今、ウィナは夢ではない何かをみていた。


 城のように高い建物がいくつも並び、箱のような乗り物が行き交い、見慣れない服装の雑踏が流れる。動く絵画があちこちに張られ、聞き慣れない音が響く。そんな風景を自分は見ていた。ある時は誰かに手を引かれ、ある時は誰かの手を引き、ある時は誰かと並んで、そしてほとんどは、自分だけで。


 実際に見たのならば物珍しさに胸を高鳴らせる光景だろうというのに、そこにウィナの情緒は一切存在しない。


 大昔、【レゼの水祭】と呼ばれる大洪水があった。戦いで汚れてしまった世界を救うために、神様が世界を水で洗い流したことがあるらしい。そうやって世界を浄化した時に人々の記憶が水と共に流されてしまったそうだ。だが稀に流れ切らなかった記憶の残滓が、生まれてくる赤子の魂に宿り、己が物ではない思い出を眠りの中で見せる。


 賢人はこうも言っていた。きっとそこには意味があると。夢が占いや予知と結び付けられるのだから、その記憶にもそんな何かがあるのだと。


 ――その方が浪漫があって、素敵だとは思いませんか?


 ちょっとお茶目な賢人がそう言って優しく笑ったのを覚えている。


 ウィナはそう言われて、確かに素敵だと思った。だからこんな記憶でも、自分の一部だと愛することができる。


 身体も存在しない闇の中で自分を受け入れるように心を抱く。


 すると、この虚しい夢の終わりに唯一、暖かさを持った記憶が沸き上がった。


『……――が見ていてあげるからね』


 優しく穏やかな声に、迎え入れるように広げられた腕と慈しみに溢れた笑顔。これはいつの記憶だっただろうか。それは酷く朧気で――しかし、そこには確かな安心感があった。


 胸の中に残る熱を感じながらウィナの眠りが終わる。





 黒に染まった視界の中心で、淡く青白い光が灯った。


 その光はしばし瞬きを繰り返す。そして、光は硝子玉を砕いたように視界いっぱいに散らばったかと思えば、一瞬で額縁のような線や読めない記号に変化した。


 ウィナの目覚めは必ず、この光景から始まる。逆を言えば視界に映るこの線や記号がなければ、目覚めたとはっきり認識できないかもしれない。


 ゆっくりと瞼を開く。カーテンをわずかに開けただけの部屋は真っ暗で、天井にぶら下がるランタンと思しき影が見えるのみだ。


 もっとよく見えるように。そう目を凝らすと視界全体が波のような光に撫でられる。すると、いくつもの淡い線が視界に浮かび上がった。これはランタンや天井の形をなぞるように描かれた輪郭だろう。


 ウィナは水色の髪を手櫛でときながら、見慣れた光景にあくびを漏らす。


 ふと視界の端で何かが瞬いた。どうやら動くものを強調しているようで、ウィナは視線を向ける。


 見れば天井の隅に頭を擦りつけている蜥蜴のようなものがいた。ただし、その体は半透明で、朧げな輪郭をしている。


「微精霊……」


 ウィナは寝起きの掠れた声を漏らした。


 いたのは八本の足を持った蜥蜴のような微精霊だ。本物の蜥蜴と異なるのは壁に張り付いているわけではなく、宙を泳ぐように体を捻っている。


 どこから入り込んだのかわからないが、部屋の中で飛び回られるのは気分の良いものではなかった。微精霊は総じて知能が低い上に、魔力で構成されるその姿を見ることができるのは二人に一人程度だ。


 故に見えない者からすれば急に体に触れられたり、小物が落っこちたりするという不気味な感覚を味わうことになる。この部屋の同居人もその口で、彼女は微精霊を全く認識できないためにそれらを嫌っていた。


「はぁ……」


 ウィナは一つため息をつくと、ゆっくりとベッドから起き上がる。


 ここは使用人用の部屋であるために天井が低い。ウィナは微精霊に近づくと背伸びをしてむんずと掴んだ。微精霊は手のひらに収まる程度の大きさで、逃れようとぐねぐねと身をよじる。姿は透けているのでなんとも思わないが、こうして掴むと足が多いこともあって気色が悪い。


 とりあえず窓から放っておこうと思い、窓を開ける。夜のうちに冷やされた外気が部屋に入り込み、そよ風が髪を揺らした。


 ちょうど太陽が顔を出すところだったらしく、眩い日の光がウィナの目を刺す。


 微精霊を宙に放り投げ、どこかに泳いでいくところを見送ると、後ろから「う~ん……」と唸る声が聞こえた。


 ウィナは振り返る。


 窓からの陽日で壁に掛けられたメイド服が照らされていた。


 背中に感じる風と日の暖かさが心を満たす。お世辞にも先ほどまでの夜は良い眠りだったとはいえない。だが、心地良い朝の空気に機嫌を直す。


 ウィナはこの時間が惜しくて、もう少しだけ同居人の起床に猶予を与えるのだった。





 窓から幾重にも光が差し込む長い廊下をウィナは足音を立てずに歩く。最高級の青い絨毯を踏むテンポに合わせ、水色の髪が視界の端で揺れた。


 ウィナの仕事は毎日、この廊下を歩くことから始まる。見える範囲に他の人影はない。もちろん館では既に使用人が忙しなく動き回っているはずだが、この一角だけは無暗に近づかないよう言いつけられている。


 唯一、それを許されているのは、今、群青色の大きめのリボンを揺らして歩くウィナだけだ。いや、もう一人いた。ウィナの視界の一部が淡く明滅し、何かが存在していることを告げる。それは廊下に置かれた花瓶台の影からのっそりと姿を現すと、「にゃーん」と小さく鳴いた。


「おはよー」


 ウィナは小さな同僚に返事をしながら絨毯に座り込む。彼がしなやかに首を伸ばすのを見て、こちらも顔を近づけて鼻へのキスを受け取り顎を掻いてやると、彼は気持ちよさそうに目を細めた。


 その間にもウィナの視界は目の前の生物の輪郭を青色で強調し、時折よくわからない線やら記号を浮かべている。


 ウィナはこれを【眼】と、ただそう心の中で呼んでいる。


 その大半の意味がウィナには理解できない。わかっているものがあるとすれば色だ。大雑把に言えば、青は安全なもの、黄色は注意すべきもの、赤は危険なもの。これは状況で逐一変化するが、おおよそ当たっている自信があった。


 この【眼】について、幼い頃に母に打ち明けたことがある。母はこれを特別な力だと言い、絶対に他言してはならないと言いつけた。今思えば母が自分の身を案じた上での判断だったのだろうと思う。それ以降、母の言付けを守り、この話を他人にしたことはない。例え相手がどんなに高貴な人物でも、どんなに親しい相手でもだ。


「あ……」


 そんなことを宙を見つめながら考えていると、指先のもふもふとした感触が唐突に消えた。どうやら満足したらしい猫が興味を失ったように離れていく。そのままどこかに消えるかと思いきや、途中で少しだけ振り返り、「にゃん」と短く鳴く。その仕草に早く仕事をしろと言われてるように感じて、


「はいはい。今行きますよ~」


 口を尖らせながらウィナはスカートの表面を軽く払って立ち上がった。


 足早に廊下を歩き、目的の部屋の扉の前まで来ると今一度身だしなみをチェックする。エプロン、スカート、ブリムにリボン。それらが曲がっていたりシワが寄っていたりしないかを確認し、一つ長い深呼吸をして、扉を軽くノックする。


「入れ」


 すぐさま返事が返ってきた。いや、すぐさまどころかノックとほぼ同時に返事があったのでかなり食い気味である。


「失礼致します」


 ウィナは恭しく扉を開けて中に入った。


「おはよう」


 ウィナが扉を閉め切る前に朝の挨拶を言われてしまった。普通は使用人から挨拶をするものだが、相手は先に言いたいらしい。ウィナは部屋の中へ向き直り、踵を揃えて腰を折る。


「おはようございます。フィロメニアお嬢様」


 名前を呼ばれた少女が振り返る。藍色の学生服の上を、銀色の髪が遅れて流れた。ウィナの仕える主——フィロメニア・ノア・ラウィーリアは大きく頷く。


 起き抜けで若干眠そうに目が垂れているにも関わらず、寝癖一つない髪ときめ細かな肌を見てウィナは思った。毎朝こうして起こしにきている身であるが、フィロメニアの美しさには毎回関心させられる。ウィナにしても朝が弱いわけではないが、ここまで常にバッチリなコンディションを見せつけられると、もはや生物としての差を感じざるをえない。


 そんなウィナの心情を知ってか知らずか、フィロメニアは艶のある髪を払う。


「パンがいい」


 畏まりました、とウィナは腰を折った。朝食はパンか粥のどちらが良いか聞くのが日課だ。またもや先に言われてしまったが、これもいつも通りのことである。しかし、全てがいつも通りとはいかないようで、扉を開けようとしたウィナを制止するようにフィロメニアの声が掛かった。


「たまにはここで一緒にどうだ」


 ドアノブに手を掛けた状態でウィナは首を傾げ、意味を察して問いかける。


「朝食を、でございますか?」


「うん」


 ウィナが向き直ると、フィロメニアの目線が僅かに泳いだ。


 普段の朝食はダイニングまで二人で歩いて、フィロメニアだけが食事を取り、ウィナは使用人用の食堂で手早く済ませている。使用人は主と食事を共にしないのが決まりであった。


 ウィナは天井に視線を飛ばして思案する。


 フィロメニアはこの地を治めるラウィーリア家の長女である。フィロメニアの母は病床に伏しており、父は娘を厳しく育てていた。それ故にフィロメニアは自分自身に厳しく、他人に甘えることは珍しい。だが最近は領主としての執務の一部を任されて鬱憤が溜まっているのかもしれない、とウィナは思い至る。


「駄目か?」


 主の甘えん坊が発動した理由を脳内で探っていたウィナの意識が、覇気のない声で呼び戻される。気づけばフィロメニアはベッドに腰掛けていて、上目遣いで様子を伺っていた。その仕草にウィナは顔を歪めてたじろぐ。


「うっ……私などがお食事を御供するなど……」


 ウィナはメイド長から常々、フィロメニアには節度ある接し方をしろと言いつけられている。主からの誘いとはいえ、使用人の度を越えた行いは慎めということだ。例えば——主の部屋で一緒に朝食を食べたり、一緒に夜更かしをしたり、こっそり夜食を持ち込んだり、街で買い食いをしたり。


「この間のクレープはいいのか?」


「あのクレープは放課後すぐに並ばないと食べられないから例外だよ。……です」


「欲求に素直なところがお前の良いところだ」


「恐れ入ります」


 そういえば誘ったのはアタシだった、と思いつつ、目の前の主に背筋を伸ばして対峙する。気の強いフィロメニアだが、彼女は決して無理強いするようなことはしない。断られれば大人しく引き下がるだろう。


「お前が駄目だというなら従う」


 フィロメニアはあからさまに残念そうに息を吐いた。


 それを見てウィナは小さく頷き、踵を返す。


 本来なら扉を開けて主を通すべきところを一人で廊下に出た。扉を閉める間際に顔だけを部屋に覗かせながら、不思議そうな顔のフィロメニアに微笑みかける。


「しょうがないなぁ~。フィロメニアは!」


 偉そうに言うとウィナの主は気を悪くするどころか、口に手を当ててほっとした様子で笑った。


「持ってくるから待ってて」


「うん」


 扉を閉めて厨房に向かう足取りが軽い。


 メイド長の言いつけと親友の頼み。ウィナはこの二つを天秤にかけて、前者は圧倒的な重量差で遥か彼方に弾き飛ばされていた。

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