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今年最後の神饌【夕陽色ケチャップライス】

 今朝はこの秋一番の冷え込みで、布団から足先を出すだけで震えるほどだ。

 昼になっても気温があがらず、山沿いでは初雪が降ったと神主の爺さんが寒そうに報告に来た。

(……秋も終わりか)

 ひえた指先で米俵の底を漁り、風樹は眉を落とす。

 カップに五回。米をすくって炊飯器にうつす。それだけだ。

 冬の訪れを感じるこの日、いよいよ米俵の米がつきた。



「寒い。寒い。今日は冷える」

「神様、今日はえらくはやいね」

 外を吹く風より少し温かい風をまとって、神様が姿をみせたのは夕刻前。まだ外の日差しも明るい頃だった。

 いつもは日が落ちてから現れるというのに、今日は妙に早い。

 風樹はしゃもじを握ったまま、彼女の姿から目をそらす。

 元気よく鳥居から飛び出してきた彼女の背には、隠しようもないほど立派な羽根が揺れていた。

 それはまさにトンボの羽根である。赤い縁取、刺繍のように光る柄。動かせば、さわやかな秋の風が風樹の鼻をくすぐった。

 この風を、風樹はもう2回ほど知っている。

 これが、最後の夜だ。

「そうだな。今日はことさらに腹が減ってな……どんな米が食えるかな」

 彼女は足取りも軽く、風樹につかまって炊飯器をのぞき込む。そして、その目をぱっと輝かせた。

「なんと綺麗な赤。赤は好きだぞ、鳥居の色だ。神は、赤を好むのである」

 炊飯器には、赤とほんの少しの緑が広がっている。鶏肉、ピーマン、グリンピース。それをコンソメとケチャップで炊き込み、塩と胡椒で味を整えた。

 綺麗に炊きあがったそれは、見た目にも美しいケチャップライスだ。

 米がケチャップの味と色を吸い込んで、柔らかく温かい。炒めて作るケチャップライスも美味しいが、炊き込むとぐっと優しい味になる。

 この味を楽しむために、敢えておかずは作っていない。

「夕焼けの色だな、フウキ」

「米を汚すのは流儀じゃないって、言われると思った」

「汚してもうまいものだと今年の私は学んだ、来年の私もきっと、覚えているぞ」

 大きな茶碗に、ケチャップライスを山盛りにして、上に乗せるのは半熟の目玉焼きだ。縁だけ茶色くさせた完璧な半熟目玉焼き。

 柔らかい黄身をつつけば、黄色の濁流が広がる。箸の先からあふれた黄色が赤の米にどろりと流れて神様は感嘆の声をあげる。

 神様は風樹から受け取った茶碗を見つめ、にんまりと笑うと大きな一口でケチャップライスを噛みしめた。

「甘い。うまい。もちもちしてる」

 黄身の絡んだケチャップライスは、卵かけご飯やオムライスとはまた違ったうまみがある。噛めば噛むほど、甘い味が広がる。

「うまい」

 軽々と四杯、茶碗いっぱいに味わったあとに彼女は満足そうに口をこすった。炊飯器の中にはもう、米粒しか残っていない。

 米一粒を摘んで、彼女は空中にさらしてみせる。指先と米に、赤い光が射し込んでいた。

 がたつく雨戸を開けてガラス戸を引けば、庭から冷たい風が吹き付けてくる。そのむこう、空は真っ赤だ。夕日がゆるやかに落ちていく。

 すっかり外は、冬の色に変わりつつあった。

 初雪が降ったという山のあたりは、冬独特のどんより重い雲がかかっている。

 冬枯れたような色を吹き飛ばすように、夕日がゆるゆる燃えて降りていこうとしているのだ。

 ケチャップライスと同じ赤。山を、家を、庭を、鎮守の森を……すべて染める赤である。

 神様はその赤色にさらされながら、指先の米粒をぱくりと食べた。


「そろそろ、さようならだ」


「待って神様」

 背の羽根が幾度もうごめく。彼女の顔が神々しくも輝く。思わず風樹はその袖をつかんでいた。

「ひとつ、聞きたかったことが……」

 つるりとした神様の着物は、指に触れるとちりりと痛い。

 神はそもそも崇めるもので、触れるものではない。神主の爺さんはそう言っていた。風樹もずっとそう思って生きてきた。これまで神様なんて、初詣の時くらいしか意識したことがなかった。自分よりはるか遠くに存在するもの、それが神様だ。

 しかしここ3年、その常識はいともたやすく消え去った。

「……聞きたいことが、あって」

「なんだ、早く言えばいいものを。水くさい」

「なぜ」

 風樹は逡巡し、そして息を吸い込む。

「なぜ、俺を選んだ? なぜ、俺は神様の文字が読めて」

 それは3年前から続く風樹の疑問だ。誰にも見えないはずの神様の文字を風樹はみた。あの時、今の自分を想像することもできなかっただろう。

 包丁を手に、神様相手に軽口をたたく自分の姿など。

「何で俺は、神様と話ができる?」

「前にも言ったろう。フウキ。これは縁だよ」

「俺は、この3年ですごく変わったんだ」

 風樹は、噛みながら、言葉を紡ぐ。

 思い出すのは、上司の顔だ。神主の顔に、同僚たちの顔。

 ずっと風樹はこれまで、多くの人間と触れ合わないように生きてきた。

 どうせ仲良くなっても、皆、風樹を残して去っていくのだ。父や母のように。

 人見知りではない。風樹は自分から、人を避けてきた

「神様のおかげで」

 しかしここ3年、風樹は人に手を伸ばすことを覚えた。

 人の声を聴いて、人に問いかけることを覚えた。

 『神饌のおかずに、これなんてどうだい』と、近所の商店のおじさんは、気安く風樹に声をかけ、魚や肉を売ってくれる。

 同僚たちには何も言っていないが、秋になれば残業を引き受けてくれたし、上司は色々なレシピを教えてくれた。

 神様という人外と触れ合ってはじめて、風樹は人間と触れ合うことができたのだ。

「……なのに俺は、神様に、何もできない」

 神様の袖を掴んだまま、風樹は床に沈み込む。

「何もできないまま、また神様は、俺を忘れるんだ」

 吐き出した息は苦々しかった。ここ最近、ずっと風樹の心の奥を蝕んでいたのはこの思いだった。

 神様に恩を返すその前に、秋が終わる。終われば神様は飛んで消え、そしてまた翌年……風樹を覚えていない神様がやってくる。

 手の内側からほろほろとすべてが崩れていく。そんな気がする。

「縁とは不思議だ。私でも、どうこうできるものではない。偶然ではない。どこかに、縁があったのだ。だから」

 神様は、風樹の手を優しくなでた。

「私はけして、フウキの作る料理の味を忘れない……フウキとの思い出は私の骨となり血となり流れ続ける」

 小さいが、強い手である。

「だからどの私もフウキの名前もフウキの作る飯の味も、フウキの家も、フウキの声も顔も全部覚えてる……細かい会話や出来事などは忘れてしまっても、どの私もフウキを覚えている」

 彼女の手が風樹の目を撫でた。暖かい滴が垂れる。いつか、風樹は泣いていた。

「これを直会、というのだ」

「なお……らい?」

 神様の微笑む目は、赤色に見える。みのりの色だ。彼女は秋を背負って生まれ、秋とともに消えていく。

「神事が終わったあとに、神と人が一緒に食事をすることだ。遥か昔、ほんとうに遥か昔は、人と神の境界線は不明瞭で、一緒に食事をしたこともあるのだ、きっと」

 空っぽになった皿を見つめて彼女は目を細める。

「私はずっと、人と食事がしたかったんだ。戦でボロボロになった人間が差し出す飯を一人で食うのは嫌だ。一人で冷たい床で食う飯も嫌だ。温かい食卓で、遥か昔の直会をしたかった。だからきっと、私はお前を選んだのだ。寂しいのが嫌だから、お前を選んだ。一緒に直会をしてくれる人間として」

 寂しい。神様の声に、風樹の背が震えた。

 寂しい、きっと風樹の心にあったのは、そんな名前の感情だった。

「神様」

「来年の私も数十年後の私も、フウキのことが好きだ。フウキの飯が好きだ。絶対に」

「俺は」

「ばかだな。フウキ、そんなことを案じていたか」

 羽根がゆっくりと、二度三度。上下する。風が巻き上がる。冬の空気よりも、ずっと温かい……それは秋の空気であった。

「忘れるわけがないだろう、フウキ。おまえは特別だ」

 つかんでいた神様の手が、ふっと崩れた。風樹の指が空虚を掴む。小さな顔も、長い髪も、白い着物も赤い袴も、さっと崩れて離散する。

 風樹は一度、目を閉じてゆっくりと開く。彼の目の前にあったのは、もう少女ではない。ただただ赤い。数百、数千の、赤トンボの群れだ。


「御馳走様。来年の私にはもう少し早く、その話をしてやってくれ」


 トンボの群から、たしかに神様の声がした。

「そうすれば、何百回だって私はお前にご馳走様と有難うを言ってやる」

 風樹は熱くなった頬を押さえ、目頭を乱雑に拭う。

「……どういたしまして」 

 トンボたちは真っ赤な奔流をおこしながら風樹の周りを名残惜しげに巡る。 

 人の気配もないのに神社の鈴が鳴り響き、木立が揺れる。まるで神様を見送るように。

 いくど、旋回していただろうか。やがてトンボたちはゆるやかに夕日の中へと消えていく。

 音もなく消えた頃、冷たい風が降りてきた。

 気がつけば部屋の中いっぱいに、冬の香りがする。

 彼女の袖を掴んだ形のまま伸ばしていた手を強く握り締め、風樹は部屋に駆け戻る。そして隠しておいた料理の本を引っ張り出した。

 変わり種ご飯の料理本、おもてなし料理一覧、おやつ、伝統料理……。

「……よし」

 風樹は冷たい手で、両頬をべちりと叩く。

 悲しんでいる場合ではない。

 来年のため、また料理を考えなければならないのだ。

 すべてはお米の神様に捧げる神饌のため。

 一年をかけた、風樹の支度がはじまるのである。

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