ある日の神饌【あきかぜのお粥】
秋の風がどんどんと冷たくなる。
秋の風は白色に例えられるという。確かにそれに似た風が吹き抜ける頃、風樹の家はこの秋最低の気温を叩き出した。いくらリフォームしたところですきま風までは防げない。
随分と冷えるな、と思った夜更け過ぎ。対策を忘れたまま、まんまと冷えた明け方。
……そして目が覚めれば、風樹はしっかり風邪を引いていた。
「風邪か」
ソファーに転がる風樹を覗き込み、神様はひどく冷たくそういった。
(……時間か)
腫れぼったい目で何とか時計を見上げて、風樹は熱いため息をつく。
時刻は19時きっかりだ。風樹の出迎えが無かったことに、神様はひどくご立腹であるらしい。
「人の身というのはかくも面倒なものだな」
風邪や病気とは無縁と思われる神様は、呆れるように眉を寄せる。
「おいフウキ。私というものがありながら、この家の近くを疫病神でも通りがかったのか?」
「夜に冷えたんだよ」
起き上がると、頭の奥がゆっくりと痛みだす。それでも昼よりは随分とましだ。薬がようやく効いてきたらしい。
神様は恐る恐る風樹の顔に手を伸ばし、その熱さに驚くように数歩退く。
「人間は冷えたら風邪を引くのか? 秋や冬が寒いのは当たり前だろうに」
「……神様は健康体でうらやましいよ」
「今日は私がなにか作ってやろうか、フウキ」
「努力は買うよ」
米俵をぼんぼんとたたく少女の姿をみて、風樹はよろよろと立ち上がった。
熱で足下がふらつくのが自分でわかった。風邪菌はじゅくじゅくと風樹の体を浸食しつつある。
「でも俺が作る、そういう約束だし。もう煮込んでるからまもなくできるよ」
それでも、風樹は立ち上がる。眩暈が起きようが、眠たかろうが、風樹は台所にたたなければならない。神饌は人が神に捧げるものだ。
……それに、この少女に料理など任せれば、火事でも起こしかねない。
「遠慮しいだな」
「人に、何かを作ってもらうって……いう、そういうの、経験? っていうのかな。そういうのが長らくないから」
風樹は額に冷たいジェルシートをはりつけて、栄養ドリンクを一口で飲む。そして念のためにマスクを装着した。
熱いくせに頭の先は冷えて、背筋に冷たい水が流れているように寒い。
しかし台所に立つと不思議と背が伸び、意識が明瞭となった。コンロの上で湯気を上げる土鍋が風樹を待っている。
「まあ神様は人じゃないけどさ、俺、誰かに何かをしてもらうって経験があんまりなくって」
風邪をひくなど十年ぶりだ。人見知りがもっともひどかった学生時代は、病院に行くのもいやだったので気合いで風邪をなおしていたし、働き始めてからは一人暮らしなので風邪などひけば死活問題だった。
つまりこれまでの人生、風樹はほぼ気合いで風邪を吹き飛ばしてきた。
うっかり風邪を引き込んでしまったのは、神様がいる安心感のせいかもしれない。
「そういえばフウキに家族はないのか……こんなにべったりと飯を食っていて今更だが」
火にかけた土鍋をのぞき込む風樹をみて、神様は首を傾げる。
家族という響きの懐かしさに、風樹はつい苦笑した。
神様はこれまで風樹の生活を気にしたことなどない。神とはそういう生き物である。しかし今年の神様は、少し優しい。
「両親はもう随分前に死んだし、兄弟もいないよ。もともと親戚とはあんまりつきあいがなかったし」
風樹はふらつく足をしっかりと立て直し、背筋に気合いを入れた。
「……まあバレてると思うけど彼女もいないし、友達も少ない。こんな時……頼れるような人は、まあ……」
風樹は頭の中にいくつもの人間の顔を思い浮かべ、首を振る。
「裏の神主さんくらいかな。さすがに倒れたら、救急車くらいは呼んでくれると思うけど」
人見知りという重大な病を抱えた息子を残し、両親はあっさりと逝った。友人ももちろん恋人もいない。
黙々と仕事をこなすうちに、人見知りは治るどころか風樹の中で定着してしまった。
神様と出会った3年前、一晩の神饌をこなしただけで風樹は知恵熱を出して喉を腫らしたものである。誰かと一晩中喋るだけで、喉とはかくも腫れるものだとその時に知った。
「なるほど。フウキの母様も父様も、きっと黄泉の国にいるのだろう」
神様は気まずそうにするでなく、まして悔やみを言うでなく、あっさりとそんなことをいう。
「黄泉?」
不思議そうに神様を見れば、彼女はもっと不思議そうに首を傾げて風樹を見つめる。
「何を疑問に思うことがあるのだ? 人も神も死ねば根の国に行くだろう。つまり黄泉だ。私の母様も黄泉の国にいらっしゃるようだ。会ったことも見たこともないがな」
神様にも父があり母があるのだ。土鍋の火をゆるめながら、風樹は思う。
「神様……お母さんが、いるんだ」
「当然だ。私とて、空中から生まれたわけじゃないさ」
土鍋の蓋を取れば、白い液体がゆっくりと揺れている。底に沈んだ米が踊って白い泡がたつのをみて、そっと蓋をする。
くつくつくつくつ、蓋が揺れて、暖かい湯気と白い泡が蓋の隙間から漏れ出す。
冷えた夜に暖かい湯気が広がった。
「……会えなくて寂しい?」
風樹は呟くようにいう。
自分は寂しいのだろうか。それとも寂しくないのだろうか。年に一度、親の墓参りをするときにだけいつもそんなことを考える。
少しずつ父と母の声と顔を忘れていく。しかし、たしかに存在していたことは覚えている。寂しいのか寂しくないのかわからない。ただ、そんなことを考えると腹の底がすっと冷えて凍えそうになるだけである。
実際、天涯孤独なんてものは、なってしまえば平気なものだ。世の中は、風樹の孤独を慰めてくれるわけでも助けてくれるわけでもない。だから風樹も淡々と生きるだけだ。
……そうだ。3年前までは風樹はそう思っていた。
「母様がいらっしゃる場所がわかれば私は満足だ。ここに私がいることで、母様も存在したということがわかるからな」
神様はそういって、ソファに寝転がる。そして彼女は足先で部屋の隅を指した。
「風樹もそうだろう。その鳥居が」
そこには小さな神棚がある。小さな鳥居に、小さなお札。その前には、稲穂が一本。
神様は夜になると決まってここから現れる。
一陣の風になって、するりと抜け出して現れる。
秋が終わればこの鳥居は物もいわない。話しかけても揺らしてもなにも答えない。しかし、また来年の秋になると現れる。
(1年目の秋は……ずっと、話しかけてたな)
熱の溜まったまぶたで鳥居を見上げて風樹は思う。
説明もなく消えた神様を呼び続け、なんど小さな鳥居の前で待ち続けただろう。
神主を問い詰めても、彼からは何のヒントも得られなかった。翌年、神様がまた現れた時、風樹は心底安堵したものだ。
「この鳥居が、私のいるあかしだ。冬から夏、私の姿がなくとも、そこに私がある。フウキはそれで安心できる」
「ずいぶんと自分を買いかぶるね」
「私もそう考えているからな。秋が終われば、私は眠る。起きれば昨年の記憶はない。しかし、鳥居を抜ければ米とお前がいることを、どこかで覚えている。だから安心して眠れる。お前は私がまたここから出てくることを覚えている。だから安心して冬から夏を越せるのだ」
小さな手のひらを宙に広げて、彼女は笑う。風樹は、熱のせいか風邪のせいか、不意に鼻の奥がつんと痛くなる。
彼女に出会った最初の年は持ち前の人見知りを発揮して、神様に対してただただ犬のように仕えた。まともに会話ができるようになったのは、秋の終わりのころ。神様が消える頃である。
その思い出を引きずって再開した2年目。しかし彼女はすべてを忘れていた。
その瞬間、なぜか腹が立った。腹が立つということは神様に何かを期待しているということである。そんな自分の心境の変化に驚いた。そうして3年目。やはり神様は昨年を忘れている。
それだけではない。神様は毎年を忘れていく。膨大な年月を生きる存在だからこそ、定期的に記憶を白紙に戻す必要があるのかもしれない。
記憶も完全に消えるものではない。母親のことを覚えていたり、過去の神饌のことを思えていたりもする。
どこかにうっすらとした記憶を積もらせて、それでも表面の記憶はすっかり消えた状態で秋を迎えて冬に眠る。
それは、切ない。なんと切ない生き様だろう。
「神様はそうして何千年も」
「そうさ。秋に目覚めて米を食うだけの毎日だ」
「寂しくは?」
「時にはな。しかし今は寂しくないぞ。フウキがある。人の子と話をして飯を食うのは楽しいな」
飯はできたか。と神様がせかした。せかされるまま、蓋をあければ、白い粥が土鍋の底に揺れている
卵をひとつ取り出して、さっと割り入れる。塩をふって、軽くまぜる。再び蓋をして、数秒。
そうっとあけると、黄色の渦がまく粥ができていた。
「お粥だよ……ただし、中華粥」
今回の粥は和風ではない。生米を胡麻油で炒めて煮込む中華スタイルだ。だから、米はほろほろと崩れ汁には薄い油の膜が張っている。
「米が割れているだろ、これ米の花っていうんだって」
「綺麗だな」
土鍋ごと机に乗せ、粥をよそって差し出せば病人より先に神様がそれをすする。
「ん。ん」
白い湯気が彼女の顔を隠す。が、その向こうにうれしそうな神様のうめき声が聞こえた。
「とけた!」
米がとけたぞ、と驚くように彼女はいうのだ。そういえば、粥を作ったのははじめてのことである。
「……おいしい」
風樹もつられて、一口。あつあつで柔らかい。ここまで徹底的に米をいじめると、米は内部にためた水分を放流し、柔らかくなるのだ。歯も必要ない。押しつぶすだけで、とろとろととけていく。
米は水でできている。とよく聞くが、それは本当のことだった。こんなにも、水になじむ。
時折流れ込む卵の濃さがまたよかった。
熱で疲れた体に、米のうまみがしみじみと広がっていく。
「……だからなフウキ、できるだけ長く生きろ」
最後の一口をすすり込み、神様はどこかしんみりという。
「私から楽しみを奪うな。お前という楽しみを」
彼女はこれまで、何千人もの神饌を受け、その何千人と別れてきたのだ。記憶をとかしてなお、それは彼女の奥底に何かの闇を残しているのだろう。
両親の姿や声を忘れて腹の底が冷えていく、風樹と同じ感覚を神様も味わっているのかもしれない。
……きっとそうだ。そうに違いない。なぜか納得して、風樹は熱い粥をすする。
神饌の間だけは、腹が冷えない。二人の間に流れる湯気が、風樹の腹の底を暖めてくれている。そんな気がする。
「寿命とか……神様の力でなんとかならないの」
「米の神に無茶をいうな。職分は越えられん……もういっぱい、いただこうか」
神様は大仰にそう言って、肩をすくめる。
茶碗にそそがれた粥は、ゆっくりと湯気を上げて秋の冷たい空気にあたたかい湿度をまき散らしていった。




