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ある日の神饌【満月栗ご飯】

 魚焼きのグリルからじりじり音がするまで待って扉を開ければ、ちょうどサンマが格子状の焼き色に仕上がったところだった。

 皮の隙間から、美味しい煙がゆっくりあがる。

(3年前に見たうろこ雲に似てる……確か、神社に向かう途中の)

 風樹は じゅ、と皮のはじけるサンマを白い皿にのせて、大根をおろす。黄色く冷たい汁を搾ってサンマにそわせ、醤油をかけるとサンマの脂がとろけて皿の上に丸い輪を描く。 

(……本当に、あれから3年経ったんだな)

 3年前、不動産屋から追い出されて神社に向かう途中。見上げた空に、魚の鱗のような雲が浮かんでいた。

 もし今、うろこ雲を目にすれば、「今夜の神饌は魚だな」と思っただろう。

 当時はそんな雲を見ても何も思わなかった。あの頃、サンマなんて焼いたこともなかったのだから。

「……おっと。米が炊けた」

 ちょうど炊飯器がゆるい音を立てて鳴ったので、風樹は大根おろしの位置を整えることをやめて、急いでしゃもじを手に取った。


「なるほど、秋らしい」


 いつの間に現れていたのか神様が風樹の背に乗っている。そこから、炊飯器の中をのぞき込んでいるのだ。真綿のように軽い彼女は、背にあっても重圧ひとつ感じない。

 ただ、服越しに伝わるのは暖かさではなく冷たさだ。秋の朝、晴れているくせに吹き込む冷たい風。あの乾いた冷ややかさに似ている。

 風樹の耳のすぐそばで、彼女の喉がごくりと鳴った。

「もしや、それは栗ご飯か」

「神様、混ぜご飯好きでしょう?」

「中秋の名月に似ていて、とてもいい。風流である」

 炊飯器の中で湯気をあげているのは、炊きあがったばかりの栗ご飯。

 真っ白な米に、ほくほくとした黄色の粒がいくつも埋まっている。

 神様は恐る恐る湯気に手を伸ばし、その指の香りをうっとりと嗅いだ。

「栗の木があるのか、この近くに?」

「神様の感覚ならそうなるのかな。多分あるだろうけど、勝手に取ってきたら今の時代は犯罪だからね……会社の部長が、くれたんだよ。実家から送ってきたからって」

 風樹はこれまで、上司と親しくなる。などというイベントとは縁のない人生を送ってきた。

 "偉い人"を前にすると距離感がわからない。詰めていいのか、詰めすぎないべきか。いつも会社の飲み会では数歩も数十歩も引いたところで、上司にうまく取り入る同僚を眺めていた。

 しかし最近、会社では「風樹がどうやら自炊に目覚めたらしい」と話が上がったようだ。そこで料理好きな部長がわざわざ気を使って、突然、おすそ分けにやってきたのである。 

 緊張のあまり噛み噛みになりながらお礼を言えたときには、顔も耳も爪の先まで真っ赤になっていた。

 これまでの風樹なら、遠慮からいただきものを辞退したかもしれない。受け取ったのは、ふと神様に栗ご飯を食べさせたい。そう思ったからだ。

「生まれてはじめて、栗ご飯なんか作ったよ、うまくいってればいいんだけど」

 ボロボロと崩れる黄色い栗を見つめて、風樹は笑う。

 実は栗の皮を剥いたのも人生で初めてのことである。

 皮は表の一枚だろうと舐めていたところ、厚い皮の内側にはもう一枚の皮があった。こいつが曲者だ。削っても包丁で剥いてもどうにもならない。

 このとき風樹は、人生で初めて部長に電話をかける。という大それたことをした。

 栗の扱いに困ったらここに電話をしなさい。と渡されたプライベートの電話番号。逡巡し、携帯電話を眺め、戸惑い、それでも電話をかけた。

 電話に出た部長に声を震わせて教えを請うて、電話越しの指示を受けながら栗ご飯を仕上げた。手は負傷まみれで、台所はボロボロだ。言葉は詰まって喉は震える。

 それでも心を折らず仕上げたのは、神様の喉の鳴る音を聞きたかったためである。

「そうか。そのブチョーとやらに加護があるよう、祈っておこう。まあ、祈るだけだ。神社で人の子が祈るのとさほど効果は変わらんが」

 神様が神妙な顔のまま目を細くした。

「フウキに渡すということは、私への供え物に等しい。きっと、そのブチョーにも縁があったのだろう。人の子の縁とはなんとも不思議なものだな」

 栗ご飯を混ぜながら風樹は不思議な気持ちを味わっている。

 神様に出会って3年。

 朝市で地元の人間に食材の使い方を尋ねたり、上司に電話をかけて料理の教えを請うなど昔の風樹からは信じられない成長ぶりだ。

(……昔って、何を食べてたんだっけ)

 背中に背負った神様の軽さを感じながら、風樹は思う。

(俺は、何を食べて生きてきたんだろう)

 もう、そんなことも思い出せない。

 思い出すのはただ、炊きたてご飯にご飯のおかず。たっぷりの味噌汁に、食後のお茶。

 そんな食卓ばかりである。



「よし。ご飯もできたし。神饌しようか」

 小松菜と薄揚げの味噌汁がふわっと香り立ったのを見て、風樹は火を止める。

 机の上に並べられたのは、サンマの塩焼き、ほうれん草のお浸し。そしてお味噌汁に栗ご飯。いつもなら飛びつくはずの神様が、ふっとほほえんだ。

「どうだ、フウキ。ここでもいいが、せっかくだから縁側でいただこう」

 彼女は長い指を外に向ける。そこは、とっぷりと更けて丸い月の光がしらじらと見える。

 すっかり光の落ちた庭は、薄暗い。部屋から漏れる光が、ぼんやりと闇を払っていく。

 冷蔵庫みたいな縁側に小さな折りたたみ机をおいて、料理を並べる。ひやりと冷たい風が膝をなでたが、神様は気にもかけない。

「寒くない? なにか上にかけるもの……は、いらないか」

 彼女は米の神であり秋の神である。

「いただきます」

 神様はさっそく栗をつまんで、ほおばる。目がうれしそうに円を描いた。

 風樹も一口。甘い米をまとった栗は、ほろ、ほろ、ほろと崩れて口の中いっぱいに広がっていく。ほどよい塩加減の米に、甘みのある栗がよく合っていた。

(……塩はちょっとでいいって、本当だった。あんなに少しなのに、こんなに綺麗に味がつくんだ)

 サンマの焼き加減もちょうどいい。皮の焦げ目と、内蔵の苦みのある重さ。それにしょう油の風味を米と一緒に頬張ると、甘さに変わった。

 耳に、虫の声が聞こえる。りいりいと、切なく鳴くのは秋の虫。

 この家に引っ付いている庭は広く野放図だ。そもそも持ち主のじいさん自体、庭の整備などしないし、典型的な現代っ子である風樹もまた庭の整え方など知らない。

 そのせいで、草木はぼうぼうと生い茂り、時折イタチなども顔を出す。

 この庭のどこかに小さな池などもある。と、じいさんは言っていたが、いまは草の下に埋もれるばかり。

 手をかけないせいで雑草は腰の中程まで育っているし、木に巻き付いたツタなども立派なものだ。時折、見たこともないような巨大な虫が縁側に張り付いている時もある。この庭は、ちょっとした野生世界となっている。

 そんな庭の向こうに鎮守の森が黒々と茂り、その先に神社がある。静かな夜には、時々、鈴の音が響くことがある。

(鈴の音は神様を呼び出すための音って聞いたことあるけど……)

 今もまた、がらがらと清らかな音が響く。しかしここにいる神様は、聞こえもしないように無心に栗ご飯をほおばるのである。

「そういえば」

 風樹は味噌汁の実をかみしめながら、箸で庭先を指す。

 雑草の固まる奥に、石碑の頭がちらりと見えた。それは古い古い石碑である。なにやら句のような物を彫っているようだが、表面の文字はすっかり丸みを帯び読むことができない。

「あの石碑が、神様のお墓だって聞いたけど」

 神主のじいさんに至ってもこの神様の正体をよくわかってはいないのだ。

 遙か昔、治水のために人柱にされた娘だとも、そのせいで祀られた神だとも、たたり神だとも噂がある。あの石碑は、神の眠る場所を示しているという。

 じいさんは神様の姿を見ることができないため、妄想だけがたくましくなっている。

「まさか」

 風樹の言葉を神様は鼻で笑い飛ばす。

「あれは確か、どこぞの俳諧師がこのあたりに立ち寄った際、残した句を彫ったものだった……はずだ。この辺は割と風光明媚で、この家もいまでこそボロだが、昔は本殿のような白い桧造りの建物でな」

 ぱり、ぱり、と音を立てて神様がたくわんをかみしめる。最初こそ黄色のたくわんに嫌悪感を示していた彼女だが、甘みの強さがくせになったのか、今ではこれがなくては食が進まない。

 こうして、味覚というものは強い味に侵されていくのである。

 神様は二杯目の栗ご飯をたくわんと共に味わいながら、眉を寄せる。

「いつだったかな、昔といってもさして昔じゃない。そこそこ……百年くらいの話だろうよ。戦だ。暑い夏で、多くの人間が死んでいったよ。で、この家も取り壊されてな」

 神様は人事のようにいう。今年の彼女とその時の彼女は違うという。しかし記憶は共有されている。親戚の話を思い出すように、彼女は続ける。

「そのあとにできたのが、この家だ。戦で私の鳥居も崩されてあんなに小さくなって、家の中にある。まあ、大きさは問題ではないがな……フウキ、おかわりだ」

 口の端に米粒をつけたまま、神様が茶碗を突き出す。

 普段、しゃべっている時は気づかないが、こんな時に痛感するのだ。彼女は、長い時代を生きている。

「本当に長生きだな、神様は。霊験もあらたかだから信者も多いんじゃないの」

「私はただの米が好きな米の神だよ。申し訳ないが悩みごとは自分で片を付けてほしい」

 神様は、サンマを骨だけ残して、味噌汁を飲み干す。三杯目の栗ご飯も綺麗に食べ終わると、ようやく静かに手を合わせた。

「だから秋が終われば散って、また米が実るころに現れる。農業をする人間からは、私を拝めばどうにかなると思われているようだが、それは天候の神にでも祈ってもらいたいところだな」

 神様は、だらしなく縁側に寝転がると、冷えた床にほおずりをした。

「先日、フウキは珍しいといっただろう」

「いった」

「私に喋りかけてくる人間が珍しければ、人とともに食卓を囲むこともこれまで無かった。こんな風に、外で食べることも」

 神様はひどく楽しげに、庭の音を聞いている。家の中は静寂だが、外にでると虫の声と風に揺れる草の音がうるさいほどだ。この音は秋を深める音である。

「外の風を受けて食をとるのはいいものだ。ここがヒノキ造りの建物だった頃、特別な部屋があってな。真っ白いヒノキだけで造られた美しい部屋だ。数年だか数十年ごとに建て替えられる部屋の真ん中が私の食卓だった。秋になって目が醒めたら、私はそこへ行く。そこに行くとな、冷え切った飯がある。そこで一人で食うのだ。人間は、畏まって顔を隠してやってくる。声もださん。数百年前の私は、そこで飯を食っていた。その記憶だけは、変にいつまでも消えん。あれを思い出すと、この辺が」

 神様は着物の襟あたりを、そっと押さえた。

「すうっと冷たくなるんだ」

「……それは」

 風樹は想像する。

 広い部屋で一人、冷たい食事をする彼女を。

 きっと、神様の性格はずっとずっと昔から同じはずだ。こんなにおしゃべりで無邪気な彼女が一人きり、食事をするのは悲しい風景だった。

「寂しいね」

「だからな、今の私は幸せ者だ」

 にこりと、神様は微笑む。

 そして満足そうに冷たい床に両手両足を伸ばした。

「……今年はいつごろ、消えるの?」

「さてな」

 茶碗を片づける風樹を寝ころんだまま見上げて、神様は少しばかり切なそうな顔をした……と思ったのは、風樹の気のせいだろうか。

「満足するまで、新米を食べたら去るよ」

 秋が終われば神様の仕事は終わりだ。

 外の秋はすっかり深まって、あれほどあった米俵の米は、どんどんと少なくなっていく。

 軽くなっていく米俵を見るたびに、風樹は秋の終わりを感じて切なくなってしまうのだ。

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