ある日の神饌【卵かけご飯】
「フウキよ。今年の米はどんな具合だ。甘いだろうか、みずみずしいのだろうか。少しかたいか? かたい米も好きだ。そうだな、柔らかくてもいいぞ」
「どーも、神様。今年も元気そうで良かったよ」
今年で3回目となる神様との邂逅は、特に大きな感動もなくはじまった。
「ああ、楽しみだな。食事の始まりだ。腹が減って仕方がない」
神様は飛ぶように台所のソファに飛び込むと、そのまま幸せそうに沈み込む。ソファの上で跳ね回る姿は、どうみてもただの少女である。
神様というほどだからさぞ恐ろしいものが出てくるのだろう、供え物といいながら実際は風樹の命がとられるに違いない。
……そんな風に震えていたのは最初の一回目だけ。
半強制的な賃貸契約が結ばれたあと、強引に連れて来られたこの家は心地のよい風が吹いていたのである。
じいさんの言う通り、部屋の全てにリフォームが施され、古くさいところは一つも無い。台所は一人暮らしには勿体ないほどに広く、雨戸を開ければ広い庭もある。
冷たい床に寝転がった瞬間、風樹は一発でこの家を気に入った。
じいさんはしきりに「縁」という言葉を使った。
家も縁というものがあるらしい。ならばこの家と風樹は縁があったのだろう。
そして引っ越して3日目。じいさんより届けられた新米を炊けば、それがまるで合図だったように、目前に少女が現れた。
不思議なことに、風樹は一目で彼女が神だと理解した。神か悪魔か幽霊でなければ無理なくらい、唐突に風樹の前に現れたからである。
同時に、その唐突感に風樹は腰を抜かしそうになった。
何を言われるのだろうと、目を固く閉じ、風樹は時代劇でしか見たことのないような見事な平伏姿勢をしてみせた。
が。かしこまる風樹に降り落ちてきたのは「腹が空いた」という清らかな声と、驚くほど大きな腹の音だった。
おかげで恐怖や不安は、最初の邂逅で一気にかき消されたのである。
あげく彼女は大食漢だ。神様のために米やおかずを作るうち、恐怖心も一掃された。
それが今年は3回目。今更、恐怖などかけらもない。ただ、頭の中にあるのはこの神を喜ばせる食事のレシピだけである。
「そして今年もあれだ、ハンスイ……なんとかで炊いているのか?」
神様はソファで跳ねるのに飽きたのか、床に寝転がる。畳をこすり、障子に穴を開けてそれを覗き込む。
どうせこの家は彼女のために捧げられたものである。風樹は文句を飲み込んで、神様の丸い後頭部を見つめた。
「……炊飯器ね」
「それだ。機械もいいが、やっぱり竈の火で、鍋で炊くのが一番うまい。昔は皆、竈で調理をしたものだがな。今は味気なくていけない」
「無理言わないでよ」
風樹は台所を見渡す。台所の広さは十畳ほどか。文句のつけようもないほどに広い。
元々は土作りの土間であったらしく、遥か昔は竈もあったようである。なにせ、元は神様の台所だ。しかしこの時代、今では高機能なキッチンに化けている。
小さなテレビに、折りたたみの丸いちゃぶ台、大きなソファ。そして隅っこには小さな神棚。
この家には他にも洋間、和室など部屋が多く揃っているが、風樹は一日の大半をここで過ごしている。秋ともなれば神饌の支度で忙しく、寝室にさえ戻れない毎日を過ごす羽目となる。
「竈があっても俺は使えないからね、火事も怖いし、そんなの使ったこともないし、火をおこしたのなんて、学校でいったキャンプくらいだし」
「軟弱者め。昔はそれくらい、誰でもやったものだ」
「昔ってどれくらい昔? 俺生まれてないでしょ」
神様はソファの隅に顎を乗せたままだらしなく寝転がっている。無作法に転がるせいで、袴がずれて真っ白い足がにょっきりと現れてしまっていた。
そっと布をかけて足を隠そうとすれば神様はひどくいやがる。
かつて、岩戸に閉じこもった同胞のせいで迷惑を被ったので、それ以来隠されることがトラウマなのだという。
「でもさ。今年の炊飯器はすごいんだ」
風樹は棚の上に鎮座する炊飯器をなでた。引っ越し当時、この台所にあった炊飯器は三合炊きだった。
それでは彼女の食のスピードに追いつかないので、昨年は五合炊きの炊飯器を買った。それでも昨年、味が悪いとけなされたので、この夏、すごいものを手に入れた。
「火がいいっていうからさ。ガスで炊く、すごいのを買ったんだ。夏のボーナスで」
風樹は鼻を鳴らして、神様に向かって胸を張る。風樹の前にあるのは、巨大な四角の固まりである。
ブラウン管テレビのような風貌のそれは、税抜18万もする炊飯器。おそらく、人生で一番高い買い物だった。
「去年、神様が火で炊くお米じゃないと食べたくないってわがまま言うから。すっごい高かったんだからね」
「……私が? 去年の私はずいぶんとフウキに金を使わせたな。今も昔も民草は金で苦労をすると聞くのだが。それはすまないことをした」
むむむ。と神様は珍しく殊勝にそう言って、飛び上がって炊飯器をのぞき込む。神様にもよく見えるように、炊飯器を床におろし、銀のボタンを軽く押せば蓋が開く。
「……すごいな」
湿った声で、神様がうめいたので風樹はにやけ顔を咳でごまかした。
開いた炊飯器の中は真っ白だ。よく混ぜたので、米がしっかりと空気を含んで、柔らかな丸みを帯びている。
粒は縁が透き通り、芯は純白。美しい米が炊飯器の中で静かに湯気をあげている。
香りは湿っているのに、甘い。秋の風に冷えた鼻先が、甘い湯気に撫でられた。
まるでよだれを耐えるように、神様はううむ、ううむと唸っている。
「これもいいな。うん、土鍋も……竈もいいが、これもいい」
炊き立ての米を軽く混ぜて見せる。柔らかく、そのくせ芯が強くて潰れない。
それを、神様専用の茶碗に積み上げた。もっと、もっと。と、せかされるまま、てんこもりだ。
……なんという、真っ白で美しい固まり。
これは、命のかたまりだ。
「届いたばかりの新米だし、おかずは特に用意してないんだけど」
漫画のようにてんこ盛りになった茶碗を机に置くと、彼女はいそいそとその前に座る。座る時の姿勢だけはとてもいい。
腰まで伸びた髪を、真っ白な紙と金色の稲穂で器用に結び、彼女はうっとりと米を香る。
「かまわん。まずは米だ。そうだ。味を確認せねばな。米だけでじゅうぶんだ」
小さな手が音をたてて合わさった。
「いただきます!」
神が米のために祈る図は、何度みてもおかしなものだった。
しかし彼女は生真面目な顔で手を合わせるなり、大急ぎで茶碗をつかむ。そして顔を茶碗に突っ込む勢いで、食べ始める。それはもう食べるというよりも吸い込む、に近い。
さらに風樹が自分の箸に手を伸ばすより早く、
「ん」
と、彼女は空になった茶碗を突き出すのだ。
風樹はまた同じくらい積み上げてやったあと、ふと冷蔵庫をのぞき込む。そこに、小振りな卵が三つ、あった。
それは今朝、神主のじいさんから米と一緒に届けられた卵だった。産みたて新鮮だよ。と、まるで市場の人のように笑う神主の顔を思い出す。
大きな卵を見ると、風樹の口の中いっぱいに卵かけご飯の思い出がよみがえった。
黄色の卵に、しょう油の香ばしさ。濃厚な黄身の甘みに、膜を張った白身の柔らかさ。
その中にくるんとくるまれた、ほどよい堅さの白米のうまさ。
自分の茶碗に米をつぎながら、風樹は念のために神様をみた。
彼女は相変わらず、至福の表情で白米をかみしめている。
「俺、卵のせるけど……神様、のせる?」
「米を汚すのは流儀ではない」
「去年の神様は最終的には白米に焼き肉をタレごと、バウンドさせてたけど」
「去年の私は罰当たりだな」
神様はきゅっと唇の端をかむ。風樹はそれを見て、少しばかり切なくなった。
神様は、見た目こそ同じだが、中身は昨年と今年、3年目と去年、すべて異なるのである。
記憶がリセットされるのか、体がリセットされるのか、人間である風樹には、神様の事情はわからない。
ただ、どの彼女も風樹の存在は認識しているし、風樹が米を供える資格を持つ人間であることを知っている。
ただし去年、彼女と交わした会話だとか、起きた出来事などは、すべて神様の中で消え失せる。
……秋に出会う神様は、いつも新しい神様だ。
昨年、風樹はその事実を知った。去年の神様は3年前の風樹との出会いを忘れていたのである。
(まあ……おかげで人見知りが治ったんだけどさ)
風樹は卵を小さな腕に割り入れながら、自嘲する。
神様はこのように、秋のはじめごろに現れて風樹に食事を要求するのだ。
彼女がこの台所に姿を見せるのは、秋のはじめから終わりまでの毎日。
ただし一日中ではない。夕餉の時間たった数時間だけの時間限定。
食べるだけ食べて彼女はまた鳥居の中に消えていく。それはまるで嵐のようににぎやかなので、風樹は人見知りをする合間もない。
そのせいだろうか。最近は、職場でも軽い世間話くらいならできるようになっていた。
人間とは、かくも見事に変われるものである。
「うまそうだな……」
気がつけば、神様はじっと風樹の手元をみていた。
風樹の手元ではまさに卵がほぐされ、しょう油がちょろりとかけられたところだ。
黄色と黒がかすかに混じり、最後は黄色が勝つ。それを見せつけるように、ゆっくりと真っ白いご飯に垂らしていけば、黄色がどろりと米に吸い込まれていく。白身の膜が米の上にとぐろを巻くに至って、神様がようやく叫んだ。
「私もそれを食べてやろう!」
神様の目線を無視して、風樹は卵と米をゆっくり混ぜる。新米のせいか、箸にあたる米粒の感触もみずみずしい。風樹はさらに、机の隅に隠しておいた小さな瓶の蓋をあける。
すると、甘い香りが部屋に広がった。
「これに……なめたけを足す」
「やめてくれ、冒涜だ」
黄色と茶色の柔らかく魅力的な奔流。口の中に流し込めば、とろり、ぷちぷちといろいろな食感が混じり合う。さらさらと喉の奥に流れていく。
「甘くてしょっぱくて……うん、うまい」
「ふん。せっかくだ、私も試そう。ほら、ほら、早く。乗せてみろ」
ぐっと押し出された神様の夕餉の皿に、風樹は卵をひとつ。なめたけ少々、流し込む。そうっとかき混ぜできた至福の一皿に、彼女は最上のほほえみを浮かべるのである。
「ところでフウキ、ヒトミシリとやらはよくなったみたいだな」
「どうでもいいことは覚えてるんだな」
まるで水でも飲むように卵かけご飯を消費する神様の茶碗に米を足しながら、風樹は苦笑した。
ただでさえ人見知り。男性よりも女性の方がこわいし、子供など、何を考えているのか理解もできない。
女児など一番おそろしい存在だ。そんな風樹だったが、神様の神様らしい図々しさと多忙さで、一年目を乗り越えた。
だからこそ、2年目の彼女が風樹のことをすっかり忘れていると知った時、頭でも殴られたようなショックを受けたのだ。
3年目の今年は、覚悟を決めておいた。その覚悟のおかげで悲しみはない。
ただ少しばかり寂しかった。人見知りの風樹が抱いたはじめての感情だ。神との触れ合いで人としての感情が根付いたのは、不思議なことである。
「もちろん細かいことは覚えてはいないが。私の記憶の奥底に、薄ぼんやりとな」
「神様は人じゃないからね」
「なるほどカミミシリではないからな」
箸で米をごっそりと持ち上げて、神様は笑う。
「悪くない。さあ、こうやって今年の私をもてなせフウキ」
「昨年も、そう言ってた」
「来年もいうだろうな。再来年もきっと言う。でも、今年の私は今年しかいないのだから」
神様は卵かけごはんの最後の一口をおいしそうにかみしめて、目を細める。
「何度でもいうぞ。米と食事で私をもてなせフウキ。昨年の私や来年の私が嫉妬するほどにな」
あれだけあった炊飯器の中身が、もう半分以下になっている。
顔に米粒をつけて笑う神様を眺めながら、風樹は「来年までにもう一つ炊飯器を買いたそう」などと考えていた。




