後から、悔いる
家に帰ると、真っ暗闇だった。
仕事で疲れているというのに、どうやら妻は出かけているらしい。
そういえば、実家に戻ると言っていただろうか。
最近文句ばかり喚くので、気が滅入るから黙っていろと言ってしまったからかもしれない。
結婚した頃は良かった。
アイツも可愛かったのにな、思わずそう零しそうになって俺は口を引き結ぶ。
(言いすぎたか)
電気を付け、ネクタイを緩める。
自分で締めていたものだが、少しきつかったのか息苦しさから解放されてほっと息を吐いた。
さすがに妻の話をろくに聞かずそんなことを言ったんじゃ機嫌を損ねるのも仕方がない。
とはいえ、今はちょうど忙しい時期でもあり、後輩たちのミスをフォローする立場にある役職持ちだ、せめて家でくらい寛がせてもらいたかったのも事実なのだ。
今日はスマホを家に忘れたせいで散々だった。
もしかすれば実家に到着したと連絡があったかもしれないが、それも後で確認しなくては。
さすがにもう日付も変わっているし、明日の夜はなんとか業務を切り上げて妻に電話をかけよう、そう思ってため息を吐いたところで一枚のメモ用紙を見つけた。
「うん?」
つまみ上げてみると、【食器棚のコップ】と書かれている。
何か大事なメモだろうかと視線を食器棚に向けると、そこにはまた別のメモがあった。
「なんだなんだ、子供みたいなことしやがって」
次のメモには【冷蔵庫の野菜室】とあった。
表面には何もないので、中を開けてみればメモがある。
【電話帳の裏】
【下駄箱】
【洗面所の戸棚】
次々に見つかるメモに、まるで童心に戻ったようだと思いながら呆れてしまう。
まったく、アイツはなにをやっているんだ。
いい大人なのに、疲れている俺に対する嫌がらせか?
構ってやらなかったから、腹いせに……いいや、そんな女じゃあなかったな。
そうだ、これはアイツからの歩み寄りなのかもしれない。
俺がつい、いつも甘えてしまうから。きっと今回も、そうだろう。
洗面所の戸棚を開けて、ぎくりと俺は身を竦ませた。
戸棚の中身は、洗剤やシャンプー、そういったものの詰め替え用品が買い置かれている。
その中、片隅に見慣れない化粧品が置いてある。それも、旅行用の小さなボトルのヤツだ。
「……これは……」
いつから合ったのだろう。
コレを見せるために、アイツはわざわざこんな真似を?
そしてハッとする。
また、メモだ。
【お風呂場】
いやな予感がした。
見てはいけない、見てはいけない。
そう思いながら、足を踏み入れて俺は愕然として手にしたメモを落とした。
「あ、ああ、あ、あ、あ、あ……」
浴室の壁に、大きく、【おかえり】と書いてある。
それは、真っ赤だった。
湯を張っていない浴槽の、中に、横たわる人影に、俺は膝をつく。
「なん、なんで、なんで、なんでなんでなんで……」
譫言のように俺の口から出るのは『なんで』という疑問だった。
同時に、何故かなんて理解している俺がいる。
そうだ、全部アイツはわかっていたのだ。
食器棚のコップは、使ったことを知っていたからだ。
冷蔵庫の野菜室は、そこで料理をさせたことを知っていたからだ。
電話帳の裏には、彼女の実家である店の名前がある。
下駄箱は、俺が、彼女と出かけるために新調した革靴のことだろう。
そして極めつけは、洗面所だ。
俺は知らなかった。知らなかったんだ。
いつの間にか置かれていた化粧品。彼女はこの家の住人になったつもりだったのか、それともこの家の主になったつもりでアイツにアピールしたかったのか。
今となっちゃわからない。
この風呂を、彼女が使ったのだとアイツはいつから気づいていた?
最近、俺に文句が多かったのは、俺が反省して止めることを待っていた?
じゃあ、実家に帰るって、なんで。
俺はのろのろと立ち上がる。
どうしてかなんてわからないが、寝室に向かわねばならないと思った。
のろのろと、重たい体を引きずるようにして階段を上り、夫婦の寝室へ。
そうだ、この部屋にも彼女を入れた。
アイツが仕事でいないのを良いことに、ホテル代も浮くし、ちょっとしたスリルを味わいたくて何回も何回も。
『わたし、浮気って嫌いなの。知ってるでしょ? うちの母親が浮気で家庭崩壊したこと』
こんな時に、アイツの言葉が蘇る。
ああ、ああ、そうだよな。
結婚する時、俺はお前に約束したよな。決して裏切らないって。
いつの間に、忘れていたんだろうか。
意を決して、ドアノブを引いた。
寝室は、真っ暗だった。
嫌なにおいがした。
震える指が、ドア近くのスイッチを押した。
パチリという音が、いやに響く。
「……え……?」
そこに、アイツはいた。
突っ伏すように、ベッドの上で、スーツケースの上に倒れ込むように。
「え?」
オカシイ。
お前が、彼女を、殺したんじゃないのか?
あんな手の込んだことをしてまで、俺を罪悪感で潰そうとするために、じゃあなんでスーツケースに突っ伏しているんだ?
ふと、サイドボードに置き忘れた自分のスマホに手を伸ばす。
なにか、残されていないかと思ってタップすればそこには通知がいくつも表示されている。
彼女から。
関係を清算しようと告げたのは、先週だ。
それに対して不満を言う彼女に、近々話し合いをしようと、思っていた。
思っていたんだ。
仕事が忙しかった。
本当に忙しくて、無視していたわけじゃない。
『奥さんのせいですか』
『わたしのほうが、あなたを愛しています』
『どうして』
『なんで』
『電話出て』
『今から行く』
『愛してる』
ひくんと喉が鳴った。
ごとりと音を立てて、スマホが床に落ちる。
ああ、なんてことだ。
ああ、なんてことになってしまったんだろう。
『おかえりなさい』
誰もいない家で、むせかえる血の中、その文字だけが輝いていた。
勢いで書いた。反省はしていない。