The Guilty Moon
生きる事は罪の償いであり、死ぬ事は生きて来た罰である。
生き続ける事は辛いが、自ら命を断てばさらなる苦痛が待ち受ける。
それが例え他者のためであったとしても。
そんな物語。
二つの部屋とダイニングキッチンの付いた2DKのアパート。しかも、駅もコンビニも歩いて二分の距離にある。これで月々三万五千円だというのだから、文句を言ったら罰が当たる。
ってかこれで文句を言う様な愚か者には俺が思いつくあらん限りの責め苦をもってして生まれて来た事を根本から後悔させてやる。
「ふぅわぁ〜。ん?新しい人?」
そう・・・この部屋には幽霊が出るという噂が真しなやかに流れているとしてもだ。
☆
「俺は出て行く!今後一生涯、俺はお前らの息子なんかじゃねぇ!」
まだ頭には鮮明に残っている。
進路の事で親と一揉めし、そのまま収まる事無く、勘当される前に自分から縁を切り、着の身着のままで家を飛び出して途方に暮れたのが三日前。
友人を頼りに飯だけは食わしてもらえる事になったのが二日前。
両親とあんな大喧嘩をしておいて、このままでは親の脛齧りより恥ずかしいと思い立ったのが昨日。
「でも今更家には帰れねぇしなぁ・・・」
昔から意地っ張りな俺に家に帰るなどと言う選択肢は最初から存在しない。
大体、どの面下げて帰れというのか・・・帰ったところで、俺の進路を親が勝手に決める家などに帰りたくはない。
「じゃあさ、ここで働かね?」
そう友人に紹介されたのは、少々辺境の土地にある大きいとも小さいとも言い難い中堅の会社。
そのくせ、初任給やその他仕事内容などは割合良くて、俺が独り立ちするのにもってこいの仕事場と言えた。
「ここか・・・」
そんでもって、大した荷物も持たず、友人に渡された交通費で、電車にバスと乗り継ぐ事6時間。知り合いなど誰もいない様な辺境の土地にやって来たのが今日。
紹介誌を見ると、入社には面接試験があるようなので、友人の家から電話で問い合わせたところ、一言「OK」。面接においでという意味だと解釈した。
だがその前に、入社することになるのなら(落ちるとは微塵も思っていない)と俺は近隣のアパートを探した。
会社の方の紹介誌に書いてあったアパートはすぐに見つかったが、そこの大家のおばちゃんから聞かせられた家賃には正直腰を抜かすところだった。
「二部屋とダイニングキッチンが付いた2DK。駅もコンビニもとっても近い。」
「はぁ・・・あの・・・おいくらくらいに?」
「ふん。月々三万五千円でいいよ。」
「はい?」
そんなビックリするほど高待遇で安価な訳はきちんとあるわけで・・・
どうも、その部屋を借りた人は口をそろえて「幽霊が出る」と言ってすぐに契約を破棄して逃げるらしい。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
そんなんでは大家さんも商売にならないので、こんなに安いのだそうだ。
正直、霊感とか俺は全く無いし、幽霊も信じていないので二つ返事で了承した。
☆
「ここから始まる・・・」
部屋の前までやって来て、夢の一人暮らし、というには少々大袈裟だが、兎に角ここから俺は独り立ちするんだという決意を込めて俺はドアノブを握った。
ガチャリと蝶番のずれる音がして扉が開き、埃っぽい乾燥した空気に俺は咽たが、一度外の方を向いて深呼吸すると再度部屋の中に視線を走らせる。
「やっぱいいじゃん。」
部屋は言われた通りの構造で、当然家具の類など一切無いが、オプションで付いているのか、襖の中には敷布団と掛布団がワンセット納まっていた。
キッチンにも鍋や包丁まな板など基本的な物は一通り揃っていて、一流料理人とかで無ければ充分満足できる仕様となっている。
「和室かぁ。」
ダイニングキッチンの方を一通り眺め、先程布団を発見した二つある部屋の内の片方に戻って来た。
部屋は六畳の俺一人が寝るには充分なスペースで、これならばこの部屋とダイニングキチンだけでも俺は充分に満足できたことだろう。
だというのに、さらにもう一部屋ある。
自然とテンションが上がるのも無理のない話だろ?
「こっちはフローリングなのか・・・ま、荷物置き場にでもすればいいや。」
大して広くも無いというのにフローリングと言うのはどういうセンスかとも思ったが、和室の方で俺は満足しているので特に追及はしない。
「家具とかは最初の給料が入ってから揃えるとして・・・そろそろ会社の方に行くか・・・」
そう俺が呟いきながら和室の前を通った時だった。
「ふぅわぁ〜。ん?新しい人?」
布団が仕舞い込んであった押入れの襖の中からひょっこりと女の子が顔を出したのだ。
最初の印象は可愛らしい少女。
見た感じ小学校高学年から中学生って感じ。童顔だと言うのなら、背の低い高校生ってのもありと言えばあり。
長い艶やかな黒髪は心惹かれるようで、眼はパッチリと見開き、薄めの唇に似合った微笑みがそのまま顔に張り付いていた。
俺にロリコンの気は無いと信じているが、そんな俺が一瞬ドキリとしてしまうほどその少女は可愛らしかった。
「ってかなんだ?この部屋は少女のオプションまで付いているのか?」
テンションが上がりまくってすっかりハイになってた俺は先程の大家のおばちゃんの話をすっかり忘れていた。
「そうそう。夜の御慰み用に。」
「成程。それはフられた時に便利・・・って、アホか。」
笑顔でとんでもない事を口走る少女に軽くツッコミを入れつつ腕時計を確認。
「やべ・・・急がないと・・・おいお前!」
「何?」
「ここはお前の遊び場じゃない。ここは俺の部屋になった、そう今日から。だから、俺が帰って来る前に出て行けよ。」
「・・・」
その言葉に少女は返事をしなかったが、それ以上に時間が押していたので俺は早急に扉を開けて出て行った。
☆
「なるほど。来生君ね。じゃあ明日からここで働いてくれるかな?」
「へ?面接は?」
すっかり面接モードで背筋を正して部屋に入り、ビシッとした姿勢で椅子に座った途端にそんな事を言われて俺はガクンと崩れた。
「いやね、実は中川君から君の事は事細かに聞いているんだ。」
中川と言うのは俺の友人の名字で、この場合はあいつの父親を指すんだろう。
「中川君とは古い付き合いでね。その彼が紹介するんだから絶対に大丈夫だ。君の事は信用する。」
いろいろと問答を用意してきた俺としては微妙に納得いかなかったが、とりあえず正規の社員として雇ってくれる事に俺はこの上ない喜びを覚えた。
「今日の所は帰っていいよ。明日の朝九時に来てね。」
「わかりました!」
社長さんも気さくな人で良かった。
これで俺は安心した社会人生活が送れるぜ。
☆
会社から出ると外は既に夜の闇に支配されていた。
時計を見れば時刻は八時半。
腹がグーと鳴っているのを聞けば、まだ飯を食ってなかった事を思い出す。
「カップラーメンで良いか・・・」
つくづく俺想いな友人は俺の銀行口座に二ヶ月分もの食費を振り込んでおいてくれたらしい。
まじ感謝するぜ。
こんな働き口を紹介してくれた上に、餓死しないようにいろいろと手配してくれるなんて・・・
やっぱ、持つべきものは友だよな。
「この金は俺がきちんと働いて返すぜ。」
俺は闇色に染まった空を見上げながらそんな誓いを立てた。
「返さんくて良いよ〜」ってにこやかに手を振る友人の姿が目に浮かぶようだが、これは大事な事なのであいつが断っても口に捻じ込んででも俺は返す気でいる。
「さ、帰るか・・・」
コンビニで適当にカップ麺や飲み物を購入し、俺はアパートの自分の部屋へ戻って行った。
流石に冷蔵庫まで備えつけてあるというにはほとほと頭が下がる思いだ。
だって月々三万五千円でここまでのサービスがしてあったら普通ビビるでしょ?
俺って図太いなぁ〜
と、そんな事を思いつつ俺は冷蔵庫の中に買ってきた清涼飲料水の類を入れ、鍋に水を入れて火にかける。
沸騰したら、蓋を開けたカップめんに注ぎ込み、三分待って、冷蔵庫にしまっておいた飲み物と一緒に、いただきます。
「あ!おいしそう。」
「おまえ、まだいたのか・・・」
ズルズルと麺を口に運びながら、ふと気配を感じて横を見たら、そこには俺が会社に行く前にいた少女が再びそこにいた。
「俺・・・帰れって言ったよな?」
「言ってたね。」
「なぜここにいる?」
「なぜでしょう?」
質問に質問で返されて、俺は一瞬頭に血が上るが、こんな小さな子供に起こるなどみっとも無いと心を静める。
「どうしてなんだ?」
「だって、私、ここにしかいられないんだもん。」
「ハァ?・・・ってお前・・・」
「エヘヘ・・・分かった?」
意味の分からん事を言う小娘をちょいと叱ってやるつもりで手を伸ばし、その掌が頭に触れるその瞬間、俺の腕は空を切った。
でも少女はその場を動いたわけではない。
俺の腕がその少女を素通りしたのだ。
その後、二度三度とその少女に手を触れようとするが、どこをどうしてもその少女に触れる事すら叶わない。
「私ね。幽霊なんだ。」
「ゆう・・・れい・・・」
幽霊など信じていなかったが、いざ実際に手で触れられない存在を目の前にしてしまっては、少なくとも非科学的現象全てを否定するわけにはいかなくなってしまった。
「うん幽霊。こう見えても、もう五年以上ここにこうしているから、生きてたらお兄さんと同い年くらいかなぁ。」
「いや待て・・・お前が幽霊だという証拠はあるのか?」
「あるわけないじゃない。っていうか、どうしたらお兄さんは私が幽霊だと信じてくれるの?」
「それは・・・」
言葉に詰まる。
目の前の存在が幽霊であることを証明する方法など俺にはまったく思い浮かばない。
そもそも幽霊の定義なんてものが曖昧じゃないか。
白い着物をすっぽりと被ってフワフワ浮いてたらそれが幽霊か?
後ろを向いている間にフワフワと近づいて来る奴が幽霊なのか?
そのどちらにも、この少女は属さない。
むしろ明るく、活発な印象を受けるこの少女は、俺の幽霊のイメージに一致しない。
だから俺は幽霊の証拠なんて言葉を紡ぎだしてしまったのだろうか・・・
「あ!でも私はこの部屋を買った人にしか見えないみたい。」
「ん?」
そう呟きながら少女は入口の方を指差した。
釣られて振り向けば、そこには大家のおばちゃんが可哀想な人を見る目で立っていた。
「あ、助かりましたよ。この女の子をどうにかしてください。」
俺は目の前に幽霊がいるという事態から逃げ出したくて、咄嗟にそんな風に声を掛けていた。
だが、大家のおばちゃんは怪訝な顔をするばかり。
「何を言っているんだい?この部屋にはあんた以外誰もいないじゃないか。」
そう言うとおばちゃんは腐ったミカンでも見るような哀れな目を俺に向けて去って行った。
信じがたい事だが、今、おばちゃんにはこの少女の姿が見えていなかった・・・ってことか?
「信じてくれた?」
「あ・・・あぁ・・・」
正直なところ、信じる信じないの話ではない。
大家のおばちゃんには見えていないという事実があり、霊感の類などは全く無い筈の俺に見えているという現実がある。
「幽霊ね・・・予想と大分違うが・・・」
少々の混乱のあまり、俺はそんな言葉を紡ぎ出していた。
「ヒュゥ〜ドロドロ〜とか?」
少女は屈むようにその場に伏せて、どうした?と思って俺は油断してその少女に近付き、その瞬間に少女はガバッと顔を上げて俺の顔面すれすれに詰め寄った。
「うおっ!アチッアッチ!!」
それに驚いて思わず飛び退き、俺は手に持っていたカップ麺を盛大にぶっちゃけた。
「あ〜溢しちゃった・・・勿体無い。」
「誰のせいだ、誰の!」
「私?」
「誰がどういかなる心理状態で見てもお前だろう。」
「じゃあ幽霊の仕業だってあなたも言うの?」
途端、少女は悲しそうに顔を伏せた。
「う゛・・・ふ、ふん!そんなこと恥ずかしくて言えんわ!」
「じゃあ私のせいじゃないよね?」
「ク・・・クゥ・・・」
「ん?」
「そ・・・そうだよ!これは全部俺の責任だ!」
俺は諦めてそう言い、すると少女は嬉しそうに表情を緩めた。
「フフフ・・・」
「なんだよ、気持ち悪ぃな・・・」
「だって初めてなんだもん。私を見て逃げなかった人。」
「生憎、本当に怖いのは生きてる人間だって若くして知っちまってるからな。死んだ人間なんて怖くねぇよ。」
「そうだね。」
俺がそう言うと少女は歓喜と絶望を綯い交ぜにしたような曖昧な表情を浮かべて頷いた。
「俺はもう寝る。明日は早くはないがゆっくりも寝てられん。お前は・・・勝手にしろ。」
「はぁい。」
少女はそう言うと、初めて出て来た時のように押し入れの中に潜り込んでいった。
それを見ながら俺は目を閉じ、自分を見た人間がいきなり恐怖に顔を引き攣らせて逃げて行く様を見るのはどんな気分なんだろうか・・・とそんな事を考えながら、眠りの世界に落ちた。
☆
朝起きて、とりあえず一つ学習した。
幽霊って早起きらしい。
「おはよ〜ってかおそよ〜起きるの遅いねぇ。」
「朝七時に起きて遅いなんて言われたのは初めてだよ。お前、何時に起きてんだ?」
「お前じゃないよ。私には青月綾って名前がちゃんとあるんだから。」
「昨日は気にしてなかったろ?」
「何か言った?」
「いや・・・」
「よろしい。」
溜息一つ。
「んで、綾は何時起きてんだよ。」
「ん〜・・・五時半くらいかな。」
「早っ!」
またしても俺の幽霊のイメージとの相違点が・・・
「えへへ〜。」
誇らしげに胸を張りながら(残念ながらそれほど大きくない)表情だけを器用にニヤケさせる少女こと綾を見ながら溜息二つ目。
幽霊なんて空想どころか妄想の産物だと思ってたから、眼が覚めたら誰もいないちょっと広いアパートの一室が目に入ると思っていたのに、実際に目に入って来たのは自らを幽霊と名乗る少女。
「俺の・・・を返せ。」
「え、何?」
「俺の昨日を返せ!」
「そんな理不尽な!?」
そんな言葉はもちろん戯言だ。
だいたい、幽霊が出るという噂があると聞いて尚この部屋を借りたのは俺なのだし、今更幽霊が出ると言って逃げるのは士道不覚悟と云う物だ。敵前逃亡、それすなわち軍法会議で死刑に値する。いや俺軍人じゃないけど。
「飯か・・・お前って何か食うのか?」
「私の分も作ってくれるの?」
「簡単な物で良ければな。」
「じゃあ白いご飯が良い!」
目を爛々と輝かせて言う少女の期待は裏切れない。
俺はウッと言葉に詰まり、しかし昨日コンビニで便利な物を買ってあった事を思い出した。
「俺も今日は白飯で良いや・・・」
レジ袋の中から、昨日買った便利な物を二つ取り出す。
蓋を半分ほどピリッと開けてレンジでチン。
世の中はかくも便利なものかな。
「ほらよ。」
それを備え付けてあった茶碗に盛って綾の前に置いてやる。ついでに箸も。
「これ、ここに刺して。」
「へ?」
綾は箸を指差して、その次にご飯の中心辺りを指差した。
言われた通りにしてやると、なるほど、お参りか何かの時の線香のように見えなくもない。
「いただきま〜す。」
「縁起わり〜・・・」
そういや、昔ばあちゃんか誰かに、ご飯に箸を指すと死んだ人のご飯になっちゃうから刺しちゃ駄目と躾けられた記憶があるが、なるほど納得。文字通り死んだ人のご飯になっちまったよ・・・
「あ〜美味しかった。」
「なんか食ったのか?」
ご飯の量は減っているようには見えないが、綾の満足そうな顔に嘘は見られない。
物理的な意味での食事ではなく、精神的な意味での食事とでも言うつもりか?
「食べたの。ところで、行かなくてもいいの?」
綾は時計を指差しながら不思議そうな顔で傾げる。
それに釣られる様に時計を見れば、うん、九時まで後十五分しかないねぇ。
「DASH!GO!GO!」
「余計な御世話だ!」
割と良い発音をかます綾を背後に俺はアパートの扉を蹴飛ばすように開けて走ったのだった。
☆
仕事と言うのも案外楽なものだった。
渡された書類に決められたルール通りに文字なり数字なりを書き込み、時には計算が必要だったり、良く分からない事もあったけど、先輩方は丁寧に教えてくれたし、気さくな人たちばかりだった。
強いて挙げるなら、やはりこれはデスクワーク。文字を書き続ける事がこんなにも右手を酷使する事なのだと、高校時代の受験勉強以来初めて知った。
ちなみに社長さんがアナログ好きらしく、パソコンで作業を行うのは邪道らしい。
俺にしてみればどうでもいいが。
「俺の仕事初日・・・終わったかぁ・・・」
いわゆる定時である五時に会社を後にし、俺はアパートへの道をとぼとぼ歩いている。
「ま、いいや。帰ろ・・・腹減った。」
朝は茶椀飯一杯だし昼は財布を忘れたせいで食えなかったしでもう腹ペコペコ・・・
しかも、財布を忘れて昼飯が食えないと言うのが格好悪くて、あたかも腹いっぱい食いました的な演技をしてたからなお悲しい。武士は食わねど高楊枝なんて言うけれど、そんな事してたら死ぬぜ、絶対。
☆
「てって・・・帰って来たから腹いっぱい食えるわけじゃないんだよなぁ・・・」
俺は自分の部屋の扉に手を掛けながら、そんなことを呟いた。
「おかえりなさぁい。ご飯?お風呂?それとも私?」
「精一杯のボケをどうも。」
突然の綾のボケには正直面食らったが、動揺するのもなんか男らしくないから無視する方向で。
「仕事で疲れたお父さんを癒すには今の言葉だって、生きてた時にお母さんが言ってたのになぁ。」
「子供に何を教えてんねんお前の母親は・・・ってか、誰がお父さんじゃ!」
指先を立ててツッコミの形を作りつつ、ビシッと中空を叩いておく。
「ねぇねぇ、連れて行って欲しい所があるの。」
「何の脈絡も無いな・・・でも綾、お前、ここからは出られないんだろ?」
確か、そんな事言ってたよな。
「明るい内はね。でも夜、それも月が明るく出ている夜は良いの。」
「どういう理由で?」
「月ってね罪を許す星なんだって。昔お母さんが寝物語に読んでくれた『The Guilty Moon』って童話で言ってた。」
罪の月ねぇ・・・本当に童話かよ・・・
「私は罪を犯した・・・だからその罪の償いのために日中はここから出られない。でも、罪を許してくれる月が出ている夜なら私は外に出られるの。」
この小柄な少女がどんな罪を犯したか知らないが、神様も随分酷な仕打ちをするもんだ。
こんなにも現実性の無い話なのに、俺は綾の話を信じ、あまつさえそんな仕打ちをする神に怒りに似た感情すら抱いていた。
「オーケーオーケー。で?どこに行きたいって?」
「付いて来て。」
「あ、おい!」
すると綾はその場でフワリと浮いて、しかも閉まっている扉を貫通して外へ出た。
やっぱ幽霊なんかな・・・あいつ。
とか何とか思いつつ、俺も靴を履いて外へ出た。
☆
街灯の少ない田舎道でも、少し宙に浮いて動く綾は光り輝く道標のようで、俺が進む先を見失う事はなさそうだった。
「で?どこなんだよ。」
「すぐすぐ。そんなに遠くじゃないよ。」
綾はニコニコ笑いながら俺の先を行く。
連れて行ってと言った方が俺を連れて行ってるんだから・・・って今更とやかく言う事でもないか・・・
「ここ、ここ。」
「病院?」
綾に連れられて歩く事およそ十五分。
片田舎にあるにしては大きい病院が立っていた。
ただ、そこには本来燈っているはずの明りが燈っておらず、建物を囲う壁もボロボロと崩れ落ちて廃墟と化している状態であったが。
どうしてこんなところに連れて来たのかと訝しんで綾の方を振り向けば、どうしたことか綾は涙を流して病院を見上げていた。
「ど、どうした!?」
そもそも女の涙に耐性が無い俺だ。
少女とは言え、いや可愛らしい少女だからこそ、目の前で泣かれては動揺せざるを得ない。
「あれ?おかしいな・・・こんなはずじゃ・・・悲しい話なんてするつもりなかったのに・・・」
綾は自分の腕で目元をごしごしと擦って涙を止めようとするが、止め処なく溢れる涙が止まる事はなかった。
「辛い事でもあるのか?まあ俺なんかで良ければ聞いてやらんでも・・・ない。」
性格のひん曲がったとか友人に言われる俺にしては、割と真っ直ぐ言いたい事が言えたと思う。
こんな事が素面で言えるなんて・・・俺って臭いなぁ・・・
「聞いてくれる?悲しい話なんだけど・・・」
「ああ。」
俺に尋ね返してくる綾の顔は嬉しそうでもあり、しかし同時に酷く寂しげであった。
「この病院にね・・・お母さんが入院してたの。」
過去形・・・退院したのか、それとも・・・
「お父さんがね、私が三歳くらいの頃に交通事故で死んじゃって、お母さん一人で私を育ててくれたの。でも、私が小学校を卒業するかしないかって言う時に病気で入院する事になって・・・何の病気なのか幼い私には分からなかった。ただお母さんは苦しそうで、辛そうで・・・お医者さんの話では助かるかどうか五分五分だって言ってた・・・」
綾は俺に昔話をしていると言うよりかは、むしろ過去の辛い記憶を呼び起こしながら自分に語りかけているように見えた。
「お母さんを助けてほしい。そんな風に一心に思い続けたわ。それである日思いついたの。私が死んで、その命をお母さんに分け与える事が出来るんじゃないかって。」
小学生らしくもあり、決して小学生らしくも無い刹那的な考え方、だが誰かの命と引き換えに蘇る奇跡を詠ったアニメなんかが好きな年頃だ。そんな結論に至ってもおかしくないのかも知れない。
「今でこそバカバカしいと思うけど、当時の私は本気だった。本気で私が死ねばお母さんは助かると信じてた。それで当時あの部屋に住んでた私は・・・自殺したの。」
そんな事を語る綾の横顔は酷く儚げで、俺はそんな綾の頭を撫でてやる事も、頬を伝う涙を拭ってやる事も出来ない。
そんな自分がとても歯痒く思える。心の底から悔しいと思うなんて、恐らく初めての経験だ。
しかも、その話をこんなにも悲しそうに語ると言う事は・・・
「お前の母親は・・・」
「うん。助からなかった。でも大丈夫。お母さんは罪を償い終えたから、きっと幸せになってるよ。」
罪を償い終えた?どういうことだ?
「ねぇ、人ってどうやって生まれるか知ってる?」
突然、綾はそんな問いを俺に向けて発してきた。
「生物学的な話か?」
違うと思いながらも俺はそう問い返し、その俺の言葉に綾は小さく首を振った。
「違うよ。どちらかと言えば神話的な話・・・なのかな?」
「?」
綾はさらに昔を思い出す様な遠い目をしながら口を開いた。
「これもさ、さっきちょっとだけ言った童話の話。八百万の神様って言葉、聞いたことあるでしょ?」
「ああ。森羅万象ありとあらゆる物には神が宿るって言葉だろ?」
「うんそう。人間が宿している命はね、もともと神様の物。人は生まれる時に神様からその命を貰って生まれるの。」
『The Guilty Moon』だったか・・・つくづく童話には向かない話だ、と俺が思っているのを知ってか知らずか、綾は先を続ける。
「だから、人として生を受ける事はその神様に対する罪であり、生きていて感じる辛さや苦しみはその神様に対する償い。やがて罪を全て償い終えた時、最後に死と言う罰を受けて命を神に返すの。そうすれば死んだ後で永遠の幸せが約束されるっていう話。」
なるほど、だから生きている間は精一杯生きなくてはならない・・・と。
そういう教訓があるのなら、確かに童話と言うのも間違いじゃなさそうだ。
だけど・・・もしその話が現実だとするなら・・・
「なら綾は・・・」
「私は罪の償いを途中で放棄した。罪に汚れた不浄な命は神に返す事が出来ない。命を神に返す事は出来ないけれど、私の人としての命は終わった。だから、私の罪は消えなくて、きっと私は永遠に幽霊なんだよ・・・」
自殺がいけない事だとはよく言われる、それこそ月並な言葉だ。
だけど、そんな苦しみをこんな少女が背負う物なのか?
だって綾は母親を助けようとしただけだ。
やり方は間違ったかも知れないけれど、それに対する仕打ちとしてはあんまりじゃないか。
「・・・」
俺は言葉に詰まり、黙って綾の顔を見つめた。
その顔は悲しそうながら、しかし諦観の色に染まり、楽しかったあの頃を思い出す様な郷愁の念に囚われているようにも見えた。
「えへへ・・・ごめんね。こんな悲しい話、するつもりなかったんだけど・・・」
よく朴念仁とか言われる俺だが、流石に今の言葉が嘘だとは分かる。
今の話をするつもりが無かったなら、俺をこんな所に連れて来たりはしなかったろう。
「なんで・・・そんな話を俺に?」
だから、俺は綾のそんな言葉を無視してそう問いかけた。
そんな問いも空気を読まない無粋な物だと分かっているけれど、それでも俺は問わずにはいられなかった。
「だってお兄さんが言ったじゃない?悩みがあるなら聞いてやるって。」
「そ、それは・・・」
「アハハ・・・冗談だよ。」
笑えない冗談だ。冗談その物も。冗談を言った状況も。
「何でかな?お兄さんが私を見て逃げなかったから、もしかしたら聞いてくれるかも知れないってそう思ったんだよね・・・だって・・・だって・・・」
綾の言葉は最後まで形にはならなかった。
感情だ先走って伝えたい言葉が出てこない。
悲しくて悲しくて、だというのに言葉が紡げない。
「分かった。みなまで言うな。」
だから俺はそう出来る限り優しく言ってやる。
綾はずっとこの悲しみと辛さを耐えて来たんだ。そう・・・ずっと一人で・・・
自らの命を捨ててまで助かって欲しいと願った母親は、しかし無情にも命を捨てた意味すら成さずに死んでしまった。
神の冷たさを知り、世界の冷たさを知り、自ら命を断つ罪の重さを知り、しかし綾はその重さを一人で抱えなくてはならなかった。
人は辛い事でも人に話し、愚痴る事で重さを軽減する事が出来る。
だが綾は人に話す事も出来ず、自分が生活していたアパートの一室を借りた人間にだけ姿を見せる事が出来、言葉を交わす事が出来るのに、皆自分の姿を見て幽霊だと言って逃げて行く。
「重すぎる・・・」
そうだ重すぎる。一人の少女が抱えるには重すぎる悲しみだ。
綾は五年以上あそこにいると言っていた。
五年以上も一人で・・・いっその事死に切れたのなら、その童話で言う永遠の幸せの中で再び母親と言葉を交わせたかも知れないと言うのに・・・
その辛さは俺には想像もつかない。
昨日、寝る時、綾は押し入れの中で泣いていたのかも知れない。
幽霊になって初めてまともに人と会話できた喜びか、それともやはり会話したせいで再び思い出してしまった悲しみか、それは分からないが。
「畜生・・・」
綾には聞こえないよう小さく呟いた。
赦せない。方法こそ誤ったけれども、ただ一心に母親の回復を願った少女にこのような仕打ちをする神が。
俺は拳を強く握り締めて怒りを堪え、しかしそれを綾に悟られまいと腕を俺の背中の後ろへ回した。
「グス・・・ウ・・・ウ・・・」
誰も聞いてくれなかった綾の悲しみを言い切り、もう後は涙を流しつくすだけ。
だというのに、綾は目元を拭いながら、必至に涙を堪えている。
出来る事なら、俺の胸元程度もあるかないかの身長しかない綾を思い切り抱きしめ、出来る事ならその頭を優しく撫でてやりたい。
だがしかし、生身たる俺には泣く事に胸を貸してやる事すらできない。
だから、せめて伝えたい俺の言葉だけ伝えてやる。
「綾・・・泣きたければ泣いておけ。俺は胸を貸す事は出来ないが、向こうを向いている事なら出来る。だが、泣き終えたら、また前を向いて歩け。生きる事が罪を償う事だと言うのなら、途中で放棄したその罪をもう一度償い直せ。」
「でも・・・私はもう死んで・・・グス・・・」
綾には俺の言いたい事は伝わらなかったらしい。
「そんな事知るか。幽霊だろうが何だろうが、綾はこうして生きているだろ?生きるってどういう事だ?死んでないって事か?違うだろ?いいか?生きるってのはな、前を向いて歩くって事なんだよ!」
「・・・」
俺の言葉を受けて、綾は黙って下を向いた。
何を思っているのか俺には分からないけれど、これほど分かりやすく噛み砕いて言ってやったんだ。
俺の思いは伝わる筈だ。
「ねぇ・・・先に帰ってて。」
「ああ。分かった。」
綾が何を思ったのかは分からない。
だが、アパートへ向かって歩く俺の背に、確かな、しかし悲痛ではない嗚咽の声がしかと届いていた。
☆
アパートの自分の部屋に戻り、いるわけがないと思いながら、押し入れの中を確認した。
「あ、おかえり。」
幽霊には瞬間移動機能でも付いているのか?と思ってしまうほど、先程の涙が嘘のようにあっけらかんとした表情で綾がひょっこり顔を出した。
「・・・」
「どうしたの?」
「いや・・・」
「?」
そんなついさっきまでの事を忘れたかのような何でも無い態度の綾を見て、先程の俺のセリフが急激に恥ずかしい物に思えて来た。ってか、実際に恥ずかしいだろう。
少なくとも、人に聞かれたい言葉じゃない。
「あ、それとお兄さん。」
「明哲だ。来生明哲。」
そう言えば名乗っていなかった事を思い出して俺は自分の名前を言っておく。
「じゃあアッキーだね。」
そう言いながら綾は屈託なく笑う。
別に良いが、随分安直じゃないか。
「でね、アッキー。」
「なんだよ。」
「私決めたよ。罪を償ってこの命ちゃんと神様に返す。そうすればきっとお母さんに会える。なんでこんな事に気付かなかったんだろ?」
「お前がそう決めたんなら、良いんじゃないか?」
綾の瞳には一点の曇りも無くて、その表情を表現するならば、それは雲一つない快晴。
俺の最初の給料が入ったら、その金でまず家具よりも、綾の欲しい物を何でも良いから買ってやろうと思った。
「じゃあ今日はもう遅いし、寝ようぜ。」
「はぁい。おやすみ〜。」
晩飯を食ってない事を俺は忘れていなかったが、いそいそと押し入れの中へ入って行く綾を見て、今更起き出して何かを作るのも無粋な話だと思い直してやめておいた。
☆
「なあ綾。何でも手に入るとしたら、なんか欲しいもんあるか?」
それから数週間、バカバカしくも楽しい日々が続いた。
朝起きて綾の冗談に付き合い、会社で働いて、帰って来て綾の冗談に付き合い、そして寝る。
変わらない日常とはこういう物の事を言うのだろう。
「ん〜・・・土地。」
綾は何か吹っ切れた様で、初めて見たとき以上に輝かしい笑顔をもって冗談を言っていた。
うんうん。可愛らしい少女は可愛らしい顔をしとらんとな。
一応言っておくと、俺にそちら側の趣味はない。
「そりゃまた豪儀な・・・」
ある日に、いつも押し入れで寝ているのが気になって「こっちで寝たらどうだ?」と声を掛けてやったら「嫌!犯される。」と少女にあるまじき発言をしたので、それ以来、夜押し入れに入って行く綾を誘うのはやめた。
重ねて言うが、俺にそちらの趣味はない・・・と信じている。
「冗談冗談。そうだなぁ・・・生きてた時は絵本を読んでもらった事しかなかったから・・・ぬいぐるみとか欲しい!抱き締めれる位の大きさで!」
やがて、俺の初めての給料日を明日に控え、寝るために押し入れの中に入って行く綾の背中に声を掛けたところ、アッサリと欲しい物を白状してくれた。
「そうか。」
例えそれが俺の初任給を軽々と上回る金額だったとしても綾に買ってやろうと思った。
☆
「御苦労さま。これからもお願いね。」
そうやって社長直々に渡された確かな厚さをもった封筒(時代錯誤なことに銀行振り込みですらないらしい)を受け取った俺は何とも形容しがたい浮遊感の様な感動に包まれていた。
「はい!頑張ります!」
周りの目が無かったら俺は社長さんに抱きついていたかも知れない。
それほどに俺の噛み締めた喜びは大きかった。
昔、親の手伝いをして貰ったお小遣い。それの延長線だと言うのに、こうも感動は違う物なのだ。
「あぁ・・・生きてるって素晴らしい。」
会社での仕事が終わり、人が聞けばサッと道を開けてくれそうなセリフを呟きながら、俺はアパートへは足を向けず、一週間ほど前に場所を確認しておいた玩具屋へ向かった。
「いらっしゃいませ。」
ガーと音を立てて開く回転扉の向こうは別世界。なんて言うか、空気が違う。
ガチャガチャと響き渡る玩具の音や電子ゲームのピコピコと言う音が入り混じって絶妙なハーモニーを奏で、小さい頃父親に連れられて入った玩具屋を思い出す。
そうだ、この町で聞けば騒音にもなりかねない音こそが玩具屋の音だと、再確認した気分だった。
「ふむ・・・ぬいぐるみね。」
この年になっても(まだ若いけど)、玩具屋と言うのは何だかワクワクする物だ。
買わずに眺めているだけでも楽しい暇潰しになる事だろう。
「こんなのどうだ?」
その玩具屋の一角。入口から左奥隅に女の子向けの玩具が集まってピンク色に装飾された空間がある。
当然、ぬいぐるみなんかの類もそこにあるわけで、俺はその中でもバスケットボール程度の大きさのクマのぬいぐるみに目を付けた。
うん良い感じだ。綾が抱きしめるにも、もってこいの大きさだろう。
「これください。」
「彼女へのプレゼントですか?」
お節介な店員だ。
「えぇ・・・まぁ、そんなもんですよ。」
冷静に考えると、亡き者への供養に近いが・・・
「ありがとうございました!」
高くも聞こえの良い店員さんの声を背中に受けて、きちんと包装して貰ったクマのぬいぐるみを抱えながら俺は玩具屋の外へ出た。
☆
殆ど小走りで、俺はアパートに辿り着いた。だから到着した時は息を切らしていて、大家のおばちゃんに変な目で見られたけど、まあ今更だろう。
「ただいま!」
努めて冷静に、しかし感情の高ぶりは抑えられずに少し浮ついた声で俺は帰還した意を伝える。
「・・・あれ?」
だが、返事はない。
いつもなら、ここで馬鹿げた冗談を混ぜた返事が返って来る筈なのに・・・
ちなみに昨日は「おかえりなさいませ、ご主人様」だった。おいおい・・・
「お〜い・・・綾ぁ?」
少し大声で呼びかけるも返事はない。
寝てるのかと思って襖を開けて押し入れの中を覗いてみるも、そこに綾の姿はない。
そこにいる筈がないと思いつつも、トイレの中や机の下、ゴミ箱の中なども探してみたが、当然いない。
このアパートの一室から、綾がいた気配が消えていた。
「・・・そうだ!あそこだ!」
そう気付くが早いか、俺は気破る様に扉を乱暴に開け放って俺はアパートを飛び出した。
今度は小走りなんかじゃない。本当に全力疾走で、俺は綾がいると思われる場所へ走った。
必至だった俺は気付いていなかったが、その日は新月。闇色に染まる空に、月は影も形も存在していなかった。
☆
「綾!」
「え?」
果たして、そこにいた。
一ヶ月近く前に綾が俺を連れて来た病院。
その場所に立っている人影が一つ。
近付いてそう声を掛けると、その陰の人物はこちらを向いた。
綾だろうと思った。昨日までの俺の中の綾のイメージと確かに一致したから。
ただしそこにいたのは、そのイメージを固定したまま成長した様な、俺の目線ほどにまで身長が伸びたかのような、年齢的には俺と同い年程度の綾に似た女性だった。
「綾・・・か?」
「お兄さん誰ですか?」
その質問は綾だったら絶対にしなかっただろう。
名乗ったあの夜以来、綾はずっと俺の事をアッキーと呼んでいた筈だ。
「え・・・と・・・」
当然、俺は言葉に詰まる。
この綾に似た女性に何と言ったらいいか分からない。
「綾を知っているんですか?」
その言葉で俺はやっとこの女性が綾の血縁の者であると悟った。
「えっと・・・その・・・」
だがしかし、その質問に答えられるかどうかは別の話だ。
真実を語ったところで、頭の正常を疑われるのがオチだろう。
「綾は確かに私の妹です。」
綾の姉?
綾は姉がいるなんて一言も言っていなかったよな・・・いや言わなかっただけなのかも知れないが・・・
「失礼ですが、お兄さん、綾との関係は?」
「ええと・・・昔の知り合いです。」
姉でも真実を話す事は憚られたのでそう言う事にしておいた。
これなら、何とでも解釈できるだろう。
「そうですか・・・今日この時間にここに来たと言う事は、あなた知っていて、しかも綾の事を大切に思っていたのですね。」
「え?」
綾の姉と言うその女性の言葉に俺は何か言い知れない物を感じて、思わずそう問い返していた。
「知らないのですか?今日は綾の命日だったんですよ。同時に、私達の母親の命日でもあります。」
その言葉はずぶりと牙を突き立てたように、俺の心に深く突き刺さった。
「綾は馬鹿な子でした。自分が死んだら母親が助かるなんて・・・本気で信じて・・・」
姉だと言う女性は、その落ち着いた物腰と話し方から冷静で思慮深いイメージができていたのだが、死んだ妹の話をしながら涙を流すその様子は、妹想いの一女性にしか見えなかった。
「え?」
その姿があの時病院で涙を流した綾と重なって、俺は思わず綾の姉だと言うその女性を抱き締めていた。
その女性からすれば赤の他人であろう俺に突然抱きしめられて当惑したような声を出し、少し身動ぎして逃げだそうとしていたようだが、結局ゆっくりと体の力を抜いて、そして俺の胸で涙を流した。
「ありがと・・・アッキー。」
「え?」
今度は俺が当惑の声を出す番だった。
綾の姉だと名乗った女性、いや綾自身だったのだろうか、の身体が突如として掻き消えてしまったのだ。
「そうかよ・・・そういうことかよ。」
今の姿は一体何だったのか?とか、なぜ最後に綾の声で俺にアッキーと呼びかけたのだろうか?とか、なぜ急に消えたのか?とか聞く事も無粋な事なのだろう。
たぶん姉と言うのは嘘で、実際に生きていたとしたらの綾の姿だったのだろう。ずっと悲しみを耐えて来た綾に、誰かの胸で泣かせてやると言う神が与えた慈悲もあっただろう。それに俺が選ばれたのには、不遜ながら俺は綾に好かれていたとそう言う事かも知れない。そうしてきっと綾は罪を償い終えたんだ。だからきっと赦されて、命を神に返して成仏した。そういうことなんだろうな。
それら俺の推測は間違っているかも知れないし、合っているかも知れない。
いや、それを考える事自体無粋な事だ。
その俺の推測は合っていると、何より俺が確信しているんだから。
☆
それから三年の月日が経った。
あの日綾に買ってやるつもりで玩具屋から買ってきたぬいぐるみは、今も綾が寝起きしていた押し入れの中に入れてある。
ある日ひょっこり取りに来るかも知れないという期待もあってそのままだ。
だが、この世にそのままで残る物など何もないように、俺の周りでもいろいろと変化があった。
「結局、俺は掌の上だったわけだな。」
「そう言うなって。良い経験できたろ?」
まず、あの会社への入社自体、俺の両親の仕組んだ罠だった。
家出して、しかし俺に行く当の無い事を知っていた俺の両親は、俺が頼った友人の父親に即相談。つまり中川君だ。
その中川君はとりあえず、と自分の友人が経営している会社に俺を入れて、働くことの厳しさを教えてはどうかと俺の両親に持ちかけた。
俺の両親が承諾すると、今度はその中川君が息子、つまり俺の友人に俺にさり気なくこの会社へ入社するようにと促すように言った。
俺はそれにまんまと乗って、あたかも自分の力で頑張っている様な気になっていたわけだが、実際に自分の力で頑張れたのは二ヶ月が経過してからだろう。
それまでは確かに、預金通帳に振り込まれていた食費に助けられていたのだから。
その食費も、俺は友人が俺を想って入れておいてくれたのだと思っていたが、真相を聞いてみれば、俺を心配した両親が少なくとも二ヶ月生活するのに十分な量の生活費を工面してくれていたとの事。
「親子愛って美しいよな。」
「とりあえず、その謀に乗ったお前だけは一発殴っておきたいんだが・・・」
だが、そうしてくれたおかげで俺は綾に出会い、俺が張っていた意地など本当につまらない物だと知った。
少なくとも、必至に生きる意味を学んだと言えるだろう。
「それにしても、お前一皮剥けたよな。なんか前より逞しくなった感じだぜ。」
「はっ。いろいろあったからよ。」
ちなみに俺は今も変わらず同じ会社で働いている。
真相を知って、最初は怒りもしたが、働く意味を知ったこの職場で、もっと頑張りたいと思ったからだ。
何より社長さんに「もう騙している必要は無くなったんだね?ということは、もう君がこの会社で働く必要はないわけだ。だが、君の働きぶりは実際大したものだったよ。君が良ければだが、正規、真の意味で正規の会社員になってここで働かないか?来生君。」と言われてしまえば、断る理由も無い。
だってそれは、もう自分で決めた事だから。
「ところでよ・・・」
「うん?」
生きている事は罪だなんて悲しい事は思いたくない。
だがしかし、人は罪の償うために生きて、必死に生きる事で罪を償えるというのだ。
それはつまり、神が人間に必死に生きるために課したルール。
だとすれば、罪が必ずしもイコール悪ではないのかも知れない。
犯した犯罪も、必死に生きる事で償える事もあるのだから。
「『The Guilty Moon』って童話、知ってるか?」
「いや、知らんね。」
見つけたら、読んでみようと思う。
童話らしからぬ、しかし何より童話らしい、あの少女の好きだった物語を。
これを読んで、少しでも何か思うところがあった方は感想をくださるとうれしいです。
いや、何も無くても是非、良い所悪い所をご指摘ください。
それを支えにまた他作品にも力を入れたいと思いますので。