第一話 魔鏡
備考 姿の知れぬヒーロー
これは去年の秋から巷で話題になっている、ヒーローの話だ。
東京都渋谷区、スクランブル交差点に突如、炎を振り回す謎の巨大生命体が現れた。二足歩行はしていたのだが、人かどうかは分からない。何と言っても、甚だしく巨大なのだから。例えるならばそう、ハリウッドでも映画化された、あの巨大怪獣ゴジラ。
そんな巨大な怪物の登場で、都内だけでなく、日本中の誰もが、この島国の終わりを悟った。驚きと恐怖、絶望感に駆られ、暴れ回る者さえ現れた。
しかしその怪物を、たった二人の人間が倒した。彼等はまるで、アメコミヒーローさながらの運動神経を持っていた。特に跳躍力はえげつなく、一度の助走で裕に二十米は飛び跳ねた。その運動神経を利用して、炎の怪物をわずか十五分足らずで倒した。
彼等の姿格好や顔を知る人はいない。と言うのも、なぜだか、誰も覚えていないのだ。
容姿が分からなくても、確かに存在する。その不思議で透明な救世主、αとβはその名を日本中に轟かせた。
第一話 魔鏡
『ええ……臨時速報です。今朝六時半頃から東京都池袋のサンシャイン・シティで暴れ回っていた、黒鱏と名乗る少女の暴走が、たった今、αとβによって食い止められました。繰り返します……』
「ただいま!」
午前七時十六分。家にようやく到着した私は、耳からイヤホンを抜き取って携帯電話を学生鞄に投げ込んだ。
危なかった。こんな時間になるとは思わなかったから、制服姿で走って行ってよかった。
「文。どこまでウォーキングして来たの?もう三十分だけど」
母さんが不機嫌そうに私にそう訊いた。不機嫌だと、母さんはいつも話を誇張する。まだ十四分前なのに。
「ちょっと……藝大の近くまで。もう行くから。朝ご飯は学校で食べるよ」
「そう。おにぎり持って行くの?」
「そうだね。ああっ、歯磨かないと……」
私は慌てて歯ブラシを口に突っ込み、弁当を包みながら古典の教科書を学生鞄にしまった。
「今日は画塾?」
「そう。帰りは九時頃だから」
「分かった。行ってらっしゃい」
「行って来ます!」
口を大急ぎでゆすいで、リュックサックを背負って学生鞄を肩に掛け、私は家を飛び出した。
「随分慌ててるね」
自転車の鍵を開けている時、学生鞄の中から高い声がした。そこには、小さな妖精の様な生き物がいる。
「ベル、今日は大事な日なんだよ。漢字テスト。赤点だったら、原稿用紙十二枚に書き取りだよ?」
「あら、そうなの?でも、それと慌ててるのが何の関係があるの?まだいつもより十分も早いじゃない。昨日だって勉強してたし」
「学校で復習しないと。私、本番で慌てるから……」
「大丈夫じゃない?そんな弱気なら、ヒーローなんてできてないと思うけど」
「ちょっと!」
あんまり驚いたものだから、思わず大きな声を上げてしまった。幸い周りには誰もいなかったからよかったが、今のを聞かれていたら相当恥ずかしかった。
私は改めて小声でその……ベルに話しかける。
「あんまり声に出して言わないで。バレたら嫌だから」
「それは私も嫌だよ。バレたら文ちゃんから離れないといけないし。だからこうして、誰もいない時に話しかけてるんだよ」
「……確かに。ごめんね」
ここで、補足の説明がある。私の抱える秘密についてだ。
私は、ここ最近巷で蠢く謎の怪物を倒す役目を担っている。そう、先程流れてたニュースのαに当たるのが、私なのだ。
始まりは、去年の秋。あの渋谷のスクランブル交差点の事件。その数分前に、ひょんなことで私がベルと出会って、これから起こる事件において、悪魔憑きの退治と人々の救いの役目を担えとの話になった。そんな中で起きた事件だったものだから、急遽私がその役目を引き受けて、あの炎の怪物を倒した。
あの時、もっと思ったことはあったが、今は回想にふけている場合じゃない。早く学校に行かないと、手遅れになる。
「ベル、もう出るから、鞄に戻って。早くしないと」
「分かった。ああ、安全運転でね。一回車にはねられてるんだから」
「……了解」
私は重くなって来たペダルを踏み、立ち漕ぎしながら自転車を前に進めた。
「ええ、結果が始めの状態に戻る現象を、フィードバックと言って……」
三限、生物基礎。物凄い勢いで襲いかかって来る眠気と闘いながら、何とか先生の話に耳を傾けていた。
辛い……。朝っぱらから戦闘して、学校まで自転車を全速力で漕いで来て、なおかつ二限は走高跳。今日は流石に、ハードスケジュール過ぎる。これで午後は化学基礎があって、五時から画塾……今夜まで生きていられるだろうか?
そんなことを考えながら、ミミズみたいな文字が羅列したノートをじっと見つめて、どうにかして眠気を覚まそうとした……と。
「キャアアアァァァァ!」
向かいの校舎から、数人の叫び声が聞こえた。教室にいた全員が、そちらに注目する。
まず見えたのは、教室から走って出て来る生徒達。そしてその後を追うのは、巨大な鏡を持った一人の女生徒。姿は随分変わってしまっているが、あの制服を着ていると言うことは、つまりそう言うことだ。
女生徒は目の前で転んだ生徒に向かって両手を伸ばして掌を向けた。それと同時に、二枚の鏡が前と後ろからその男生徒を挟んだ。すると男生徒は苦痛の表情を浮かべるなり、膝を立てて自分の額から何かを抜き取った。彼と同じ顔や身体の、透けた人魂の様なもの。それを女生徒が男生徒から取り上げ、鏡の中へ放り投げた。そこで、男生徒はがくんとその場に倒れ込んだ。
教室の中では当然ながら、どよめきが広がっていた。叫んだり、泣いたり、ふざけて笑ってみたり(この無知な怖いもの知らず!)。
先生も相当慌てている様で、指示を誤る。
「ええ……危険なので、ここにいてください。他の先生と相談して来ます」
そう言って、先生は慌てて教室から出て行った。しかし事件が起きたのは、この後だ。
向かいの校舎にいたあの悪魔憑き(邪鬼に取り憑かれた人の通称)の女生徒。彼女が突如、こちらの校舎を指差して何か言った。随分大きな声で言ったのだろうか、口の開き方がはっきりしていたから、何を言っていたのか、すぐに分かった。
“見つけた”
彼女のあの行動を見るなり、この校舎にいた生徒は全員走って外に出た。十秒もすると、教室には誰もいなくなった。
「ねぇ、あれってヴィランよね?テレビで見る」
「そうそう!何でこの学校に?」
「誰かに恨みがあるんだろ?恨みを晴らすまで、邪鬼は止まらない。フゥゥ!」
「ふざけないでよ!」
走っている最中、周りを気にする余裕がない生徒の間ではそんな話ばかりされていた。……よし、これならいける。
私は二階の女子トイレに入り、ポケットの中に入れておいたベルに話しかけた。
「ベル。彼女を助けないと」
「文ちゃんがいないってバレたら?」
「ええっ?」
「逃げてる中で文ちゃんがいなくなったって知れたら、どうするの?」
そうだ。考えてなかった。どうせ、この学校は千五百人を越すマンモス校ではあったが、クラスの人数は四十人。委員長は私がいないことにすぐに気づくだろう。さて、どうすれば……。
「反対の階段から降りた」
「さっき一人だけ降りてった人がいた。確か文ちゃんのクラスメイトだったから、見てないなんて言われたら失敗だよ」
「階段から滑り落ちてギックリ腰」
「腰は打たないでしょ。打つなら尾骶骨」
「校庭まで行くのに道が分からなくなった」
「無茶でしょ。文ちゃん……皮肉じゃないけど、もっとマシな考えは浮かばない?」
「ええぇ。もおぉ、どうしよう。そうしたら……ああ、逃げ遅れて鏡に食われてたって言う」
「食われた?どう言うこと?」
「ほら、彼女の能力は何か……意識?か何かを抜き取って、鏡の中に放り込むことでしょ?そうすると、放り込まれた人は動けなくなる。だから……」
「ああっ、文ちゃん!来ちゃった!」
小窓から、あの女生徒が来たのが見えた。私は慌ててベルを両手で包み込み、そして、誰にも分からない姿へと変身した。
私が小窓から出て、女生徒の前に飛び降りると同時に、隣に見覚えのある少年が現れた。常磐の仮面で顔の右半分を覆っている彼が、βだ。
「あれ?αじゃないか。今日は随分早いご到着だね」
「早い?何で」
「だって俺がこの知らせを聞いたのが、一分二十五秒前だよ?それと、たまたま近くにいたから」
「私だってそうよ。さっき知って、近くにいたから早く来れた」
「へえぇ。じゃあ俺達、凄く近い仲だったりして。これって運命?」
「この状況でやめてよね。全く」
βにはこう言う所がある。突拍子もない所でふざける。私を笑わせて、肩の力を抜いてくれてる気なのかもしれないが、それならそれで大きなお世話だ。
私は目の前にいる悪魔憑きの女生徒を見た。
黒くて長い髪を二つに分けて三つ編みにし、眼鏡をかけている。その下の顔は、悪魔憑きの特徴である、黒の三本の模様が目の下から口の高さまで引っ掻かれた様にある。そして背後の鏡の中には、数人の生徒が、暗い表情を浮かべてうなだれている。やっぱり、彼女が悪魔憑きであることには間違いない。
私は慎重に彼女に話しかけてみた。
「何の不満があったの?話なら聞くから、鏡に人を閉じ込めるのをやめて」
すると女生徒は、右手を伸ばして私の方に掌を向けた。すると、背後の鏡から何枚もの硝子の破片が飛んで来た。あんまりいきなりだったから、その硝子全ては避けられなかった。しかし、横からβが校門の引戸を私の前に投げて盾にしてくれたので、大きな怪我はしないで済んだ。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫」
硝子が飛んで来なくなったのを確認すると、βは引戸の上からそっと頭を出して女生徒に話しかけた。
「ねぇ。君この学校の生徒会長候補だよね?いけないなぁ、こんな真似。それかもしたら、あれ?この間の第一次生徒会総選挙で失敗した八つ当たり……」
「うるさい!」
悪魔憑きの女生徒が再び右掌をこちらに向けると、また硝子が飛んで来た。βは慌てて身をかがめて引戸の裏に隠れた。
「まずいなぁ。これじゃ、埒が明かない」
「真逆、高校の校舎内で悪魔憑きが出るなんて」
「今時の高校生、結構闇抱えてるからなぁ。所で、君はいくつ?俺、それぐらい知りたいなぁ」
「もう、こんな時に。本当、いい加減にしてよ」
「ごめんって。で、どうする?」
「ううん……まずは彼女から話を聞き出さないと」
私は引戸の裏側から悪魔憑きの彼女に話しかけてみた。
「ねえ、生徒会長候補さん……ってことは、峯岸雪菜さん」
「違う。峯岸雪菜は死んだ。あたしは魔鏡。人の嘘の姿を抜き取って、真の姿をあらわにする」
すると、βも話しかける。
「いや、あなたは峯岸雪菜だ。この高校の生徒会長候補の。一体どうしたんだよ」
「何であんた等に話さなきゃいけないの」
「暴れるだけじゃ解決しない問題だからだよ。話せば少しは気が楽になる」
「話せば楽になる?みんな猫被って生きてるくせに、偉そうな口叩かないでよ!」
彼女……魔鏡は、右手で拳をつくり、それを開きながら前に押し出した。すると、今度は破片ではなく、それなりに大きな鏡が飛んで来た。
「あたしはね!人の本性を炙り出してあげてるの!被ってた偽りの性格を剥ぎ取って鏡に閉じ込めて、本当のあの子達にしてあげてるの!それの、何が悪いのよ!」
私達の背後に、先程飛んで来たと思われる鏡が回っていたことに気づいた。魔鏡の方を見ると、彼女が先程男生徒にしていた様に両手を伸ばして掌をこちらに向けているのが分かった。
「あんた等の本性も暴いてやる!この化け物め!」
気づいたのが早めでよかった。私はその鏡を思い切り左に払いのけた。すると、女生徒の両腕も左に振れた。
「人は誰にだって、隠したい本性がある。それを隠しておく仮面がたとえ、悪いものだったとしても、それなしには人は生きていけない!だから、抜き取った性格をみんなに返して!」
「あたしは自分の信念に従った!だから誰の指図も受けない!」
……なるほど。要するに、こう言うことか。
彼女が魔鏡になった理由は、他人が自分の本性を見せないことへの怒りだ。恐らく、この間第一次生徒会総選挙が関係している。
第一次生徒会総選挙があったのは、つい二週間前。生徒会長候補は、一人ずつステージに上がって挨拶をし、自分が生徒会長になったからには何をする、と、全校生徒の前で意思表示の演説をするのだ。そこで、ちょっとした事件が起きた。峯岸先輩が、即興演説をしたのだ。
その理由は、峯岸先輩の前に挨拶をした、神崎佐奈と言うもう一人の生徒会長候補の先輩がした演説だ。これは生徒会員の立候補をした夏摘(私の友達)から聞いた話なのだが、神崎先輩が峯岸先輩の演説原稿を盗んで、それを丸パクリしたんだとか。
そのせいで、峯岸先輩の演説はめちゃくちゃなものになってしまい、事情を知る筈もない生徒達は言うまでもなく、第一次生徒会総選挙の結果は峯岸先輩:神崎先輩で、3:7と言う結果になった。
この、やり場のない怒りと屈辱に邪鬼が取り憑いたのだろう。そして邪鬼を払う方法はきっと……。
「β。あの眼鏡を狙って」
「ええっ?鏡じゃなくて?」
「最終的にはね。ああ、それと、紐か何か持ってない?」
「紐?紐ねぇ……あ、イヤフォンなら持ってるけど」
βは左側のポケットから、黒と緑のイヤフォンを取り出して私に渡した。しかし……どうもこれでは短過ぎる。私はもう一度、βに訊いてみた。
「短いわね……他には?」
「他?ええっと……あ、ネクタイは?」
βは首に今まで巻いてたのだろうか、臙脂のネクタイを私に渡した。こちらの方が断然長い。なぜβは先にこれを渡してくれなかったのか。
しかし何であれ、これで作戦が実行できる。上手く行くかどうかは分からないが。
「完璧。ちょっと両方とも借りるね」
「……何か考えがあるんだね」
私はβに笑いかけて言った。
「私について来て」
硝子が飛んで来なくなったのを確認し、私達は、今度は躊躇なく飛び出して行った。私が左から、βが右から魔鏡に近づく。案の定硝子は飛んで来たが、先程よりも威力は弱い。同時に違う方向に硝子を飛ばすのは、難しい様だ。私は脱いだセーターを回して硝子をかわし、そこから校舎の高さまで跳躍した。一方βはどこから持って来たのやら、交通安全の看板を盾にしながら滑り込み、魔鏡に近づいて彼女の膝の裏を突く様に蹴った。
「うわぁ!」
膝の裏を蹴られたことで、魔鏡は見事に転んだ。その瞬間を逃さなかったβは、すぐさま眼鏡を奪った。
そこで、私は彼女に向かって叫んだ。
「魔鏡!私はここだよ!」
すると魔鏡は私の姿を捉え、再び右手を伸ばして掌をこちらに向けた。
そこで私は、落下しながら先程βから借りたイヤフォンとネクタイを繋げたものを彼女の右手の指先から手首までに巻きつけ、イヤフォンの先を持ったまま空気中を思い切り蹴る様にして前に進んだ。
魔鏡の右腕はその勢いに持って行かれ、耳に沿う様な形になった。
「β!彼女の鏡を割って!」
「任せろ!」
βは拳で鏡を叩き割った。すると、その鏡の中からいくつもの人魂の様なものが出て来て、各方向へと飛んで行った。それは、先程魔鏡が奪い取った、心の仮面だった。
校舎の中で倒れていた生徒達が、次々と意識を取り戻していく。
魔鏡も元の、峯岸先輩の姿に戻っていく。巨大な鏡も、赤い椿の花が描かれたコンパクトになった。峯岸先輩は私に気づき、首を傾げて訊いた。眼鏡をかけていないから、どうやら私の顔が見えていない様だ。
「あなたは……誰?」
「私はα」
「α……?え?どうしてここに?」
「……あなたの叫びが聞こえたの。生徒会演説で、原稿を盗まれたんだって?」
峯岸先輩は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに俯いて、首を振った。
「……もう、どうしたらいいのか。あんな大差がついちゃ、どうしようもないよ」
「うん?どう言うこと?」
横からひょい、と顔を出して来たβが、きょとんとした顔でこちらを見た。そうか、彼は事情を知らないんだった。
「彼女、生徒会演説の時に即興演説をしたらしいの。でもそれは予期してたものじゃなくて、原稿が盗まれたからしたことなんだって。それで、その原稿はもう一人の候補の人が丸々パクって、生徒会演説は相手の人の勝ち。って、私の友人の従兄弟の親戚が言ってたのを教えてもらった」
「うわぁ、えぐいな。俺そんなんだったら、その場で相手の生徒告発するなぁ。ああ、でも無理か。そこで相手に泣かれたら絶対選挙に勝てないし……」
「あら、あなたって思ってたよりも頭いいみたい」
「ええぇ、じゃあさっきまではどれだけ俺のこと莫迦だと思ってたんだよ。まあ莫迦だけど」
こう言う、βの驕らない所が好きだ。恋愛感情ではなく、好感を持てる。そんな感じだ。だから私もたまに、彼を褒める。実際、彼には褒める所がまだまだありそうだし。
峯岸先輩を見ると、俯いたままこう呟いた。
「あの子は……神崎さんは、私にこう言ったんです。『正直は邪魔。どれだけずる賢いかが、勝負で勝つ鍵なのよ』って」
「最悪……でもありがとう、話してくれて。お陰で、いい作戦が思い浮かんだ」
「ええっ?ちょっとα、何する気だよ」
βが訝し気にそう訊いて来た。
「悪いことじゃないよ?誤解しないで。彼女を生徒会長にするの。人が考えた案を横取りして、のうのうと勝つ人間って、私大嫌いなの」
「へえぇ。αらしい」
「ありがと。ねぇ、峯岸さん。盗まれた原稿の内容、ちょっと教えて」
そして、第二次生徒会総選挙。全校生徒が第一体育館に集まり、ざわめきの中で演説が始まった。先行は、神崎先輩だった。前回の続きの様な、きっちりとした内容。自分を見つめ直し、真摯に向き合うことが何より大切だと言うこと。全く、人の原稿を盗んで使った人間がなぜここまで酷い大嘘を吐けるのか。
「相変わらずだね。峯岸先輩、可哀想」
夏摘が私に囁いた。
「そうだね……でも、今回は峯岸先輩も何か策略がある筈。先輩、頭いいから」
「ええっ?文ちゃん話したことあるの?」
「ああっ、いやぁ、その……この間の演説のやり方が好きだったの。ほら、急な事態でも即興演説をしようとしてたでしょ?やり切ろうって姿勢が好きだったの」
「ああっ、文ちゃん、あれ見て!」
夏摘が驚いて声を上げた。彼女が指差す先にいたのは……黒くて艶のある髪を赤いヘアバンドでまとめ、眼鏡を外して大きな瞳が露わになった、原稿も何も持たないで登壇した峯岸先輩だった。前回の演説の時とは全く印象が違うため、体育館の中はざわめきに包まれた。
峯岸先輩は一度息を吸うと、少し声を大にして話し始めた。
「皆さん!私は二年一組の峯岸雪菜です。きっとこの間の演説で、驚いた人も多かったでしょうね。完璧がどうとか、真面目がどうとか。でも、よく考えてみたんです。完璧や真面目が全てなら、この高校の生徒は皆、学校が嫌いになるのでは、と。古文の助詞の使い分けが苦手でも、数学の場合分けは得意な人はいます。体育が成績二でも、美術は成績五の人だっていて、大声を出すことが得意な人もいれば、苦手な人もいます。この様な苦手をコンプレックスと考えて、隠そうとする人も勿論いるでしょうし、それを改善しようと努力する人も、これが自分だと受け止めて前を向く人も、自分は完璧だと思ってる人もいる。きっと今の私がこの間の演説時のままだったら、確実に改善に全力を尽くすでしょう。そしてそれを、周囲の人間に肯定させようとしたでしょうね。でもですね、そんな必要はなかったんです。問題は、自分がどんな自分が好きなのか。要するに、自己満でいいんです。コンプレックスを隠すも自由、改善しようと努力するも自由。受け止めて前を向くのもいいですし、完璧なら完璧でいいんです。方法なんて、何でもいいんです。なりたい自分になる、最善の方法を選ぶことさえできれば」
峯岸先輩の瞳は輝いている様に見えた。魔鏡になった時とは、それはもう比べ物にならないぐらい。そして、確実に他の生徒も、教師でさえもが彼女に注目していた。演説が終わって体育館を出る時も、周りは峯岸先輩の話題で持ち切りだった。
投票結果が発表されたのは、翌日の昼休み。校内放送で発表された。
『ええ、第七十三代生徒会長の発表をいたします。まずは第一次生徒会総選挙の得票率は、生徒千五百二十人より、二年二組神崎佐奈さん千六十四票、二年一組峯岸雪菜さん四百五十六票。そして第二次生徒会総選挙の結果は……神崎佐奈さん百五十二票、峯岸雪菜さん千三百六十八票。この合計として、神崎佐奈さん千二百十六票、峯岸雪菜さん千八百二十四票。よって、第七十三代生徒会長は、二年一組の峯岸雪菜さんに決定いたします。続いて、副委員長は……』
「へえぇ。だって、文ちゃん」
夏摘は学食で買ったフレンチフライを食べながら私にそう言った。
「本当によかったねぇ、峯岸先輩。第一次生徒会総選挙の時は原稿取られたって知った時はどうなるかと思ったけど、でも流石、峯岸先輩」
「私、あの演説感激しちゃった。なりたい自分になる、最善の方法を選ぶことさえできれば、って。どこからあんな言葉思いつくんだろうね」
「本当……ちょっとトイレ行って来るね」
「ああ、うん」
私は夏摘の元を後にして、少し小走りでトイレに行った。個室に入り、ポケットの中にいたベルを見る。
ベルは少し怒っている様だった。
「本当、よかったねぇ?文ちゃん、あなた先輩に何吹き込んだの?真逆、あの演説の内容全てを考えたんじゃないよね。そんなだったら、私は文ちゃんを軽蔑するけど」
「私が?真逆。あんな凄い演説ができるなら、私だって生徒会に立候補してるよ」
「でも、内容を考えたのは文ちゃんなの?」
「だから違うって。あのね、私あの神崎先輩がしたことが、どうしても許せなかったの。だから、峯岸先輩の盗まれた原稿の内容を聞かせてもらって、もう少し頭を柔らかくしてどんでん返しの考えで見てみたら?って言ったの。ただそれだけ」
そう、私達が邪鬼を倒した後に峯岸先輩に言ったのは、これだけだ。峯岸先輩の以前の考え方は、完璧により近づけるには真面目に努力することが最も重要である、と言うこと。ちなみに私の考えは、こうじゃなかった。私はどちらかと言うと努力はできない方だから、苦手な自分と向き合って行くと言う考え。このことを峯岸先輩に教え、考え方をもう少し増やした方がいいと言ったのだ。
真逆、あれを言っただけであそこまで変わるとは思わなかった。容姿も、表情も、考え方も、あれだけ変わったのは先輩の実力だ。
「私はただ、自己満でそう言っただけ。原稿を盗む様な人が生徒会長にでもなったら、たまったもんじゃないもん」
「へえぇ。流石文ちゃん」
「ありがと。でも、流石なのは峯岸先輩だよ。あの人は本当に、本当に凄かった」
「そうだね。でも、そんな彼女に生まれ変わらせたのはαだよ?ほら、放送をよく聞いて」
私はベルに言われた様に、トイレの中までギリギリ聞こえる校内放送に耳をすませた。どうやら、峯岸先輩が挨拶をしている様だった。
『私は第一次生徒会総選挙を終えた時、途方に暮れていました。いきなり起きた事態への焦り、自分の無力さから来る自己嫌悪、敗北を確信した時に襲って来た絶望感。でもその時、ある人に励まされたんです。αとβ。皆さんはこの二人のヒーローが、うちの学校に来ていたと知っていましたか?私は彼等に会って、あることを聞いたんです。これはαの言ったこと。人は誰にだって、隠したい本性がある。それを隠しておく仮面がたとえ、悪いものだったとしても、それなしには人は生きていけない。それを思い出して、やっと分かったんです。人によって違うのは、欠点だけじゃない。自分が好きな自分と、それに近づくための方法。人の考え方は無限にある。それを気づかせてくれた。αに、多大なる感謝をします。それから、βにもね』