5
「凪沙はどうだった?」
「話し掛けてくれた子が居たみたいよ。私、少し安心したわ。女の子同士って難しいことも沢山あるから……。」
「男同士にも無いとは言わないけどな。」
「いいのよ、それは。男の子は居ないんだから。」
夜遅くに帰宅した父親は、背広を脱ぐなり早速娘の心配をした。それを預かる母親は穏やかに答える。
母親は女子校に編入した娘を、同じ女性としてまるで自分のことのように、いや、自分のことを思う以上に気にしていた。
凪沙の母親は共学校の出身のため、女子生徒しかいない学校の雰囲気が分からない。
引越し前は共学校に通っていた凪沙が、今年から最低でも二年間は女性しかいない空間で過ごすのだ。
流石に母親の年齢ともなれば、女性同士のいざこざの一つや二つに巻き込まれたこともある。
女性の敵は女性だ、ということも、彼女は痛い程鮮明に記憶している出来事があるのだが、ここでは割愛する。
そんな両親の会話は、自室で音楽を聴いている寝巻き姿の凪沙には聞こえない。
一ヶ月前なら薄い壁とヘッドフォンを通り抜けて聞こえたりもしたものだが。
時刻は午後十一時、もうすぐ半になる。
始業式しか無かった今日は午後以降なんの予定も無く、家でだらだらと過ごしていた。
ちらほらと頭の中であのクラスメイトの少女の姿を反芻させながら。
甘く切ないメロディーに乗せて、男性アーティストが歌う。"君の事が好きだ"、"君を愛している"、まさしく恋の歌だ。
凪沙はこのアーティストがそこそこ好きだが、実は彼が作詞したこの曲に思い入れはない。理由は簡単、凪沙は恋というものが分からないからである。
繰り返される愛の言葉がフェードアウトすると、辺りは無音になった。
アルバムのラストを飾ったこの曲は、やはり無気力な少女には響かなかった。
そんな時間も程々に、彼女は眠りにつく準備を始める。
最近の若者にしては随分早寝かもしれないが、それは彼女が真面目だからということではない。
真面目は真面目だが、早寝早起きを心掛けているわけではなく、ただ彼女にとって夜更かししてまでやりたい事がないだけである。
それは趣味であっても、勉強であっても同様のことだった。
明日からのことは、今はとりあえずは忘れて眠ろう。
そう思い瞼を閉じるものの、何となくやってくる憂鬱さに、彼女はまた胃のあたりを擦りながら夢の底へと落ちていった。
「おはよ、」
「おはよう! ねえ、昨日の見た?」
「昨日彼氏とさあ……」
騒がしい廊下を抜けて二年三組の扉を目指す。
女子生徒しかいない空間は、凪沙にとってあまり居心地のいいものでは無い。
そこに男子生徒がいた所で居心地の良さは変わらないが、何となく慣れない空気を吸っているような気がしていた。
その空気から抜け出して、このままどこか近くの公園にでも行きたいような気分だが、程々に真面目な凪沙にはそれが出来ない。
抜け出すつもりも、実はあまり無い。
凪沙はそうやって、無自覚に忍耐力を鍛えていた。鍛えられているのかどうかは知る由もないのだが。
引き戸になっている教室の扉を開けると、その音に反応したクラスメイト達は振り向いて凪沙を見た。
しかしその視線に凪沙が挨拶をすることも、挨拶をされることもない。慣れていた凪沙はそれを当然のように受け入れる。
一瞬だけしんと静まった感覚は刃のようで、今にも凪沙を突き刺さんとしていた。
涙は出ないが、凪沙は不安で顔が歪みそうになる。
早く席に着いて、スマートフォンのアプリゲームで時間を潰したい。
また前髪を弄りながら席に向かおうとするが、それは見知らぬ掌によって止められてしまった。
「おはよ、凪沙ちゃん。」
「え、」
肩に乗る手に驚きながら後ろを振り向く。
しかし凪沙はこの瞬間で何となく察していた。この声、この手の持ち主は、十中八九、いや、間違いなく彼女だ。
驚いたのは彼女に挨拶をされたことではなくて、急に後ろに現れ肩に触れられたことである。
分かりきったその問題の答え合わせをするために振り向くと、そこにはやはり、オレンジピンクに口角を上げた彼女が居た。
「凪沙ちゃん?」
固まる凪沙を不思議そうに見つめ、こてんと首を傾げる彼女とのこの空間は、凪沙にとって緊張の瞬間だった。
周りは相変わらず静まり返っている。
この中で声を発することは凪沙にとってかなりの挑戦であったが、なんとかこの場を切り抜けようと斜め下に視線を落とす。
視線の先には紺色のソックスを履いた、彼女の真っ直ぐ伸びた脚があった。
「……おはよう。」
「ん。」
凪沙の特徴のない声はたった四文字の言葉を発するのになかなかの時間を要したが、その短く素っ気ない挨拶を聞き入れた彼女は、丸くて大きな目を細めて小さく返事をし、するりと凪沙の横を通っていった。
彼女の登場によって、教室の空気は元に戻る。
きっとこれ以上、何かを話すことはないのだろう。何故だかそんな風に思えた。
凪沙にとって彼女は、そう思えてしまうくらい真逆で、それでいてほんの少しだけ鬱陶しいような、妙な感覚を抱かせる存在となった。