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ぱちぱち、と小さい音ながらも良く揃った拍手が教室を埋め尽くす。それが鳴り止めば、凪沙にとって試練の時間が訪れる。
大袈裟な言い方かもしれないが、本人にしか分かり得ない苦痛が確かにそこにある。
凪沙はこの先の試練をどう乗り越えるかより、家に帰ったあと母親に掛けられるであろう"どうだった?"という言葉に対して正直に答えるか否かを悩んでいた。
正直に話せば母親はきっと心配をする。
嘘をつけば自分の首を絞めるだけ。
それならまだ嘘をついた方が幸せなのかもしれないが、そんなぺらぺらに薄い嘘を家族に対してつき通せる程凪沙は強くない。
人付き合いの苦手な凪沙だが、全てを周りのせいにしてぶすくれる程捻くれ者ではなかった。
「うん、良い自己紹介でした。じゃあ、次。」
趣味や特技を明るくはきはき話せば、良い自己紹介だと褒めてもらえるらしい。
だけれど今この状況の凪沙にとって、褒められることなどどうでも良かった。
瀕死の重症を負おうがどうなろうが、ただこの場を乗り切ることさえ出来れば、後はもう知ったことではない。
前の席の子と入れ替わるように立ち上がる。
掌に人と言う字を三回書いて飲み込むというおまじないは、緊張しないおまじないだったか、それともしゃっくりを止めるおまじないだったか。
凪沙の脳の片隅にそんな事が過ぎるが、そんなもの今更思い出しても何にもならない。
仮に緊張しないおまじないだろうが、凪沙がそれを実践することはないだろう。
彼女は捻くれ者ではないが、そんな子供騙しのおまじないを信じられる程純粋でもないのだ。
「……角島、凪沙、です。」
幾つもの目が凪沙を囲む。
後に続く言葉を当然のように待つ目は、じわじわと凪沙を追い詰めていく。
名前だけの自己紹介はどうやら受け入れて貰えないらしい。凪沙はその風潮に対して、常に疑問を抱いていた。
人の事など、仲良くなれたら知っていけばいい。
大勢の前で発言を許可される自己のことなどたかが知れているのだ。
例えば、父親が吸っているキャスターの香りが好きで、父親が煙草に火を付けた時には隣に行って、必ず聴く曲があるだとか。
そんな誰に言わなくとも良い自分の好きな時間を増やしていくのが趣味だとか。
そういった事を人の前で発表するのは好ましくないことだと凪沙は自覚していたし、一般的ではないこともきちんと理解出来ていた。
理解出来る凪沙は、何ならこう言った時の為の言葉を準備しておくことも難しいことではない。なら何故、それを言わないのか。
凪沙は考え過ぎる節があるのだ。
「あー、……えっと……。」
いや、それだけではない。
凪沙は自分に嘘がつけないのだ。自分のための自分の言葉に、凪沙は嘘がつけない。
それが孤立してしまう原因だとしても、自分を偽ってまで周りに合わせることが出来ない。
しようと思っても心が軋むのを感じてしまうだけで、何も得られるものが無かった。
そんな凪沙だから、それ以上はどんな言葉も口から出てきてはくれなかった。
だけれど周りは、それを許さない。
数十秒前までは興味や好奇心の色をして彼女を見ていた周りの目が、次第に怪訝そうに曇っていくのを、凪沙は肌で痛い程感じていた。
女教師の顔からも愛想は消えかけており、困ったような、それとも苛ついているような、そんな顔をして腕を組んだ。
やばい。凪沙の頭の中はその一言で埋め尽くされようとしていた。
が、寸での所で小さな声がそれを遮る。音に対する条件反射か、それとも深層心理の願望だったのか。
考える暇もなかったが、確認する為、視線をおそるおそる、声が聞こえた方向へと移す。
「がんばって。」
にっこりと笑顔で囁いたのは、彼女の名前を綺麗だと褒めた、右隣の少女だった。