そして、ひとり
西欧歴27年
武士の恥だが、生きるものとしては、無難で懸命なことである。
侍大将は、鬼を背に逃げ出した。雨に塗れて幸いであった。初陣の足軽のように漏らした小便を隠せる。
鬼となったごんざからすれば、侍大将のちっぽけな背中から、細く脆い骨を引き抜いてやりたかった。
だが、藤を独りにするわけには行かぬ。
もう、吾子すら残されておらぬのだから。寂しかろう。心細かろう。雨の勢い、いやまして。
藤のもとへ向かう。
火が、藤の汁気という汁気と白かった肌を吸い取りつくし、もはやスカスカの亡骸だけが残っていた。
犬のように瞳の大きな眼も、優しい言葉を紡ぐ唇も、もうなにもなかった。
吾子を抱いた藤を、ごんざは抱き寄せる。
「済まぬ……済まぬ……。
こんな思いをさせて、すまなんだ……。
可愛そうに……藤よ、吾子よ」
もし、鬼になるのは己ではなく、君であったのなら――己は死んだとて、お前と吾子は生き残っていただろう。
紫電を帯びた目から、滴が流れ落ちる。細君の焼けただれた肌を癒すには、あまりにも手遅れで、物足りないけれど。
それは鬼が流す、最初で最期の涙なのか。
ごんざは藤の亡骸を抱き上げた。ずいぶんと軽くなってしまった。心の音は止まっていても、肌が焦げるほどには温い亡骸。
ごんざ達は村へ帰る。
せめて、弔ってやらねば。
そして、己は修羅になる。
お前たちを、ゴミのように扱ったものどもを根絶やしにするために。
地獄まっしぐら、むしろ上等。
藤よ、吾子よ。お前達が極楽へ行けぬというのならば、閻魔とてねじ伏せてみせよう。
雨が止む。
それでも、夜明け前の空はひどく暗い。




