第1ヴ 「思春期」
二郎「おい、テル」
輝「何、兄さん?」
二郎「お前、おっぱい触ってみたくない?」
輝「……え?」
ごくありふれた町にごくありふれた兄弟がいました。
高校二年生の兄は中学二年生の弟にごくありふれた話題をふっかけているようです。
二郎「みたいだろ?」
輝「……え、兄さんのをってこと?」
二郎「バッ、そうじゃな……あれ、もしかして、さ、触りたいのか?」
輝「触りたくないよ、やめておくれよ、兄さん、信じてたのに」
二郎「わかった、その、アレだ。女性のおっぱいを触りたくないか?」
輝「べ……別にいいよ」
二郎「まさか、触ったことあるのかっ!?」
輝「あるわけないじゃないか! 僕はまだ中ニなんだよ?」
二郎「あはーあ、そっか、まだ中ニだもんな、ないよなー。こういうことは早めに済ませておく方が生きやすくなるもんだ、よし、触りたくなっただろう?」
輝「だからっ……」
輝「いやちょっと待って、じゃあ兄さんはいつだったの、触ったことあるんでしょ?」
二郎「え、ないけど」
輝「……」
テルは口から吐き出すはずだった言葉を頭の中で反芻させました。
「ねえのかよ、ねえのかよ、ねえのかよ……」
輝「わかった、仮に僕が触りたいと言ったとするよ。触るあてがあるの?」
二郎「姉さんだよ」
輝「ねっ……」
二郎「いやほら、夜中にこっそりとね、真夜中だったらバレないし起きたとしてもまたすぐに寝ちゃうだろう?」
輝「だ、駄目だよっ! 殺されるよ! 弱い毒でじわじわと!」
二郎「ぜーったいバレないって」
二郎「つーかお前だっていつも姉さんのことエロい目で見てんじゃん」
輝「見てないよ!」
二郎「あーあ、ムッツリなんだなテルは」
輝「……」
輝「あの、まあ……」
輝「……見てたよ」
二郎「いいか、テル、お前は今心の中でこう思っているはずだ。『本当はずっとずっとそういうこと考えていたけど、僕はそういうキャラじゃないから、僕は真面目な末っ子だから。だけど僕だって男の子だもん。やんちゃな兄さんが無理矢理誘うもんだから不可抗力なんだ。このまま触っても僕にはなにも悪いところなんて……』」
輝「やめてよ、これ以上僕の心の中に入ってこないでよ……兄さん」
二郎「いいか、テル、お前は今、思春期特有の『ムッツリ』という病気にかかろうとしているんだ。お前も中学生になって今まで感じたことのないエロエロな感情に戸惑っていることだろう。その感情は決して内に溜め込んではいけない、溜め込むとそれは膿となって枕を濡らすことになる」
輝「……」
二郎「俺は兄として、思春期を迎えたお前のたった一人の兄として、お前を導いてやりたいんだ」
輝「……兄さん」
輝「兄さんがこんなに頼もしく思えるなんて、初めて夢精したとき以来だよ」
二郎「ああ、お前は大人の階段をのぼっていくんだ」
とても微笑ましい光景ですね。
兄が弟を導き、弟は兄を信頼して身を委せる、兄弟の絆が目に見えるようです。
輝「ところで兄さんはいつ大人の階段をのぼったの?」
二郎「…………」
そして午前3時になりました。
二郎「お前も知っているかと思うが、姉さんは完璧超人みたいな人だ。才色兼備で規則正しい生活を送り、体力も並の男よりはある。あ、でも性格は悪い」
輝「確かに性格は悪いね」
二郎「俺の分析によると姉さんはこの時間帯にはぐっすりと眠っているはずだ。それはもうぐっすりとだ」
輝「本当に大丈夫かな……」
二郎「俺だって命が惜しい、自殺行為なんかはしないさ、大丈夫だ」
鼠のようにコソコソと二人は姉の部屋へ侵入しました。
そしておかしな物を目にしたようです。
輝「――!!?」
二郎「――!!?」
輝「兄さん……」
二郎「ああ……」
輝「姉さんって一人部屋だったよね?」
二郎「ああ、うちの家族唯一の女性だからな」
輝「なんで、なんで二段ベッドが……あるの?」
二郎「ああ、姉さんもう大学三年生だからな」
輝「茶化さないで応えておくれよ!!」
二郎「知らん、俺も初めて知った」
輝「部屋の下見くらいしてよ」
二郎「ええい、ひるむな、二段ベッドごときに。寝る部分が二ヶ所あろうと姉さんは一人だ。これは真理だ」
ニロウの冷や汗は止まりません。
二郎「ほら、暗いけどよく目を凝らせ。下の方のベッドに布団があって人の膨らみもある。下で寝ているなら上に屋根がついてるだけで当初の予定となんら変わりはない」
ニロウの冷や汗は止まりません。
二郎「ほらほら、蒸し暑い毎日が続くもんだから布団をちゃんと羽尾ってないだろ、さあ、テル、パジャマの上から触ってくるんだ」
輝「兄さん先に行ってきてよ」
二郎「おいおい、このミッションはテルが触ることに意味があるんだぞ?」
輝「兄さんは触らないの?」
二郎「ああ」
テルは何か言おうと思いましたがそれを言葉にすることはできませんでした。
輝「わかったよ」
二郎「テル、このミッションが終わったら成長の記録として必要だから詳細にレポートを書いてくれよ、詳細にな」
テルは何か言おうと思いましたがやっぱりそれを言葉にすることはできませんでした。
輝「……」
テルの決意は固まりました。
――もう、やるしかない、兄さんがなんか気持悪いけどやるっきゃない。
ベッドに手を伸ばします。
――こ、このあたりかな……。
テルは気恥ずかしさと罪悪感のあまり姉を直視することができませんでした。
――ん、あれ、なんかゴツゴツしてるような、姉さんスポーツも万能だけど、こんなもんなのか?
???「う゛ーん」
するとドスの効いた唸り声が聞こえてくるではありませんか。
テルは思わず身を翻します。
???「うん、あら、シオリさんに用かな?」
それは明らかに大人の男の声でした。
輝「――っ!!?」
二郎「――っ!!?」
二人は極限状態の中で声を出さないよう、音をたてないよう必死になりながら自分たちの部屋へ戻りました。
輝「いまの――誰っ?」
二郎「声を出すんじゃないよ馬鹿者! 今すぐ電気を消して今すぐ寝るんだよ」
輝「……兄さん」
二郎「明日が、明日が来たら……ちゃんと話し合うんだ」
――コク
っとテルが頷くとこの部屋は闇に包まれました。
言うまでもなく二人は一睡もできなかったようでした。
そして夜は明けました。
シオリ「あなたたちそろそろ起きてきなさい」
輝「姉さん……」
シオリ「テルさん、ニロウさんも起こしてあげなさい」
輝「あ、うん、すぐ行くよ」
このときテルが気が気でなかったことは言うまでもありません。
輝「兄さん!」
この土曜日の朝の食卓は梅雨明けしたばかりだというのに泣きそうなくらい殺伐としていました。
二郎「……」
輝「……」
シオリ「そういえば……」
二郎「――!」
輝「――?」
シオリ「あなたたち昨日の夜中に私の部屋を訪ねなかった?」
輝「――ごめ」
二郎「おいおい、テルよ、昨日夜中にトイレ行ったろ、そのときに訪ねたのかい?」
輝「ああ、いや、でもあのときはトイレに行っただけで訪ねたりしなかったなあ」
二郎「だってさ、姉さん」
シオリ「そう……やっぱり勘違いね」
二郎「ごちそうさま」
輝「ごちそうさまでした」
死の食卓から抜け出した二人は話し合い始めました。
二郎「生きててよかったな」
輝「なんか勘違いだと思ってくれたよ」
二郎「それでだな、今日になって落ち着いて考えてみたらだな、あれは不審者の類なんじゃないかと思うんだ。姉さんアレで結構モテるだろ?」
輝「つまり大人の階段をのぼりきれなかった輩がなりふり構わず夢を果たしたと……?」
二郎・輝「…………通報しなきゃ!!」
二郎「まあ、アレだ、姉さんならともかく我々は未だに学生料金のチェリーボーイズだ。こういうときはまず父さんに相談してみよう」
輝「昨日から兄さんが頼もしくてしょうがないや」
二郎「父さんが出張から帰ってくるのが明日の朝だ、そのとき早速聞いてみるんだ」
翌朝父親が帰ってきました。
父「え、何ですか」
二郎「だから姉さんの二段ベッドの下で寝ていた男がいたんだよ、たぶん変態なんだよ。
通報したほうがいいよね?」
父「……その必要はありません」
輝「どうして!? 変態だよ?」
父「二段ベッドの下で寝ているのは父さんだからです」
二郎「父上!」
輝「父上!」
父「バレちゃいましたか……」
二郎「父上!」
輝「父上!」
父「そんなに責めないで下さいよ、シオリさんにはしっかり許可をもらっているのですから」
二郎「父上! そういう問題じゃないよ父上!」
輝「そうだよ、どうしてわざわざ出張中に帰って来てまで自分の娘の部屋で寝るのさ、がっかりだよ!」
二郎「そんなのおかしいよ!」
父「ん、ちょっと待って下さい、出張中ってどういうことですか?」
輝「だから出張中のはずの金曜の夜中に姉さんの部屋で寝ていたことを言ってるんだよ」
二郎「解せないよ!」
父「聞いて下さい、普段からしばしばシオリさんの部屋で寝ているのは本当です。でも、出張中はずっとホテルに泊まっていましたよ?」
輝「そんな……」
二郎「そんなこんな……」
父「だいたい、自宅に帰れないような遠いところへ仕事に行くのが出張です」
輝「……ということは、待って」
二郎・輝・父「じゃあ誰―――!!?」
兄弟が遭遇した男が誰だったのか、それはまだ別のお話。