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アスクナッドは全てを投げ出して逃げ出そうとしていたが、彼の秘書はそれを制止する。
彼に逃げだされてしまっては、彼に雇用されている秘書は失職してしまうからだ。最後までなんとかもがいてもらわねば困るのだった。
それに勝算がないわけでもない。
まだあきらめるには早かった。すべてを出し切っていない。
そうして説得し、彼は結局最後の切り札をつかうことにした。その結果が、今である。
「冒険者たちは混乱に陥っています」
少し離れたところから様子を窺って、秘書は傍らにいるアスクナッドへそう告げた。
「それはそうだろうな。持ち出してきたのを全部放ったんだ。そのくらいはなってもらわねば困る。
で、彼らは壊滅しそうなのか」
「このまま押していければ、あるいは」
確かにそう見える。
とはいえ、手持ちの全部を使ってしまっている。ここで冒険者を押し返して全滅させたとしても結構な損失だといえた。
アスクナッドの持っていた『魔物』はもういない。一体を作り出すのにどれほどの手間がかかるか、彼は計算して歯噛みをした。しかしそれでも、すべてを捨てて逃げ出すよりはよかった。ここで押し返せれば、他の土地で一からやり直すよりもずいぶん楽だ。
だから、なんとしても彼らには勝ってもらわなければならない。
少しずつ薬を使って調整し、凶悪に育てた魔物たち。
デモニック・オーガの七兄弟には。
彼らはまさしく、強かった。たった一体で冒険者を何名も片付けることができる。現に今も、大活躍の最中だ。
『悪魔的』オーガは奇襲をかけることに成功し、徒党を組んだ冒険者たちも意表を突かれ、浮足立っている。それを面白いように蹴散らし、打ち倒していく。どうやら致命傷を与えることはできていないが、戦闘能力を奪われて立ち上がれない者が増えていく。
魔物たちはそれが嬉しいようで、次々と冒険者を打ち倒す。
暴力こそ、魔物たちの本性。暴れるだけ暴れて、欲求不満を解消したいのだろう。
「なんだ、好調だな。心配することもなかった」
「あっ」
アスクナッドが安心した途端、秘書が口元を抑えて慌てたような声を上げる。
どうした、と問いかけるより先に一体のオーガが倒れ伏した。
「やったぞ、デカブツめ!」
冒険者の誰かが声を上げた。暴力的な歓喜の興奮が見える気がする。
「ざまあねえ、残りもすぐに送ってやるからな」
「こいつらに俺たちの仲間がどのくらいやられたか知れねえ! 今度は俺たちの手でやってやらぁ」
恐ろしいことに、デモニック・オーガは何かの間違いで倒されたわけでもないらしい。しかも、一体倒したことで敵は気をよくしている。士気の上がり方が半端ではなかった。
これはもしかするとまずいのではないか、とアスクナッドは考えた。そうして彼はここまで自分を追い立てた秘書を見やった。そのときには既に秘書はいない。振り返ると彼女が必死に遁走しているのが見える。
「おいっ、どこにいく!」
「もっと頼りになる男性のところへ。それ以外に何か?」
「まさか」
アスクナッドは両目を見開いた。まさか彼女が自分を見捨てるとは?
それが信じられなかった。彼は驚愕していた。完全に、何もかもを。
「ガー……ナッ……」
秘書の名を呼びそうになって、アスクナッドは声が砕けてしまった。もう、呼んだところで振り向かないだろうと思ったからである。そしてそう自分が思ったことが、たまらなく衝撃だったのだ。
これ以上自分はどうするべきだ。
いや、まだデモニック・オーガは六体いる!
たった一体がやられたくらいで何をしり込みする必要があろうか、と強引に思いなおす。
そうして彼が戦場に目を戻したその一瞬、夜空に浮き上がる何かがあった。
「ヒュッ!」
冒険者の口笛。
空に飛びあがっているのは、蛮族の一人。弓よりも小刀を得意とする戦士であり、小柄な体躯でありながら獲物を次々と仕留める凄腕だ。
もちろんそんなことをアスクナッドは知らない。
「ガァ!」
デモニック・オーガの両目が切り裂かれるまで、ほんの半秒もなかった。
同時に蛮族はオーガの顔を蹴りつけてさらなる高度に飛んだ。そうして、オーガたちの報復をかわす。
「…………!」
何かわからない言葉が、大活躍の蛮族にかけられた。カタロニアの言葉ではない。
アスクナッドはようやく、自分も逃げ出すべきだと気づいた。急いでそうしなければ、より多くを喪失するに違いなかった。
しかし残念ながら、高く飛びあがった蛮族はすでに太った哀れな男の存在を感知している。さらには、彼がおそらく敵であろうということも。
太った腹を抱えたまま、アスクナッドは走って逃げようとする。護衛についていた男たちがどうにかフォローをして、用意していた馬車へと誘導する。
万一のための逃げ道を用意したのもたったいま逃げ去った秘書であるが、それを忘れて。
だが、冒険者たちといえども決して当初から楽勝気分でいたわけではない。
牢獄といえども、町議会の所有するそれはカタロニアの中にある。囚人といえども市民らの感情に任せた私刑が行われぬよう守られているべきであり、そのために兵士が多数配置されている。
そうした意味ではここはカタロニアでも安全といえる場所だった。
だというのに、街中だというのに、兵士たちがいるというのに、魔物が出てきたのだ。
闇の中から溶け出るようにやってきた恐怖の象徴が、サフィーたちの前に立ちふさがっていた。
つい先だって、たった二体の魔物に冒険者たちが敗走したのは記憶に新しい。それと同種の魔物がざっとみて、七体も立ちふさがり、明らかにこちらへと敵意を向けているのである。
信じがたい光景だったが、歴然たる事実だ。聴覚が、嗅覚が、冒険者としての第六感が、これが幻覚などではないということを知らせている。
「あわてるな、抵抗があるのは予想の範囲内だ」
サフィーはさっと片手を伸ばし、冷静に声を飛ばした。そうしたあとで、これほどの化け物が来るというのは予想外だがと心の中でつけたした。
冒険者の数は十分だった。それに、クルミー族の若者たちは全く臆せず、逃げも隠れもしていない。
勝てない相手ではないはずだとサフィーはふんだ。
残念ながらロウライクとの戦いで傷ついているサフィーは直接戦えないが、それでもレイなどの強い冒険者がちゃんとここにいるのだ。多少もちこたえるくらいはできるだろう。
その間にヤズマを救出するのだ。そうしてこの場を一度退くのが正解だろう。
いくらなんでもデモニック・オーガ七体をこの場で倒せるなんてことはサフィーも考えなかった。
「レイ、少しの間持ちこたえて。ヤズマは私が助けに行く」
彼女が捕えられている牢獄までは、あと少しだ。冒険者たちがオーガらの注意を引いている間に、駆け抜けてしまえるはずだった。うまくタイミングをみれば不可能でもない。
だが、予想したよりも早く味方は押されていく。サフィーの指示もむなしく、冒険者たちの大半が突然の攻撃に虚を突かれたからだ。
逃げるべきか、とサフィーまで考えかかった。しかし、冒険者たちのすべてはしっかりと防御をとっているおかげで、死ぬような傷を負っている者はない。
もう少し耐えてくれ、と願ってその場を離れる。
「何が起きているのだ」
状況に慌てすくむラトフ・ガディ。目の前の光景に恐怖し、それから彼は心配した。
こんな状況になっていて、我が子は無事でいるだろうか。
ラトフはリットが今現在どこにいるのか把握していなかった。蛮族の軟禁を命じた後は特に指示を出していないし、彼が彼自身の判断で動いている可能性は高かった。
となれば、こうして恐ろしい魔物が街中に徘徊している現状、すでに彼がその手にかかって命を落としていないと誰が言い切れるだろうか。
「無事だといいが」
と言いながらも、まず彼は目の前の恐怖に震える脚を叱咤せねばならない。冒険者たちもそれぞれ相手を打ち倒すことに専念していて、ここにラトフがいるということは失念されているようだった。彼は護衛を連れてはいるが、七体ものデモニック・オーガが相手であればどれほどの役に立つかはわからない。
彼は逃げ出すことも思いつかずにその場にとどまった。そうするしかなかったのだ。
父親の心配はもっともなことだったが、リット・ガディは騒動から少し離れた位置にいた。
彼は彼なりの方法でヤズマを救い出そうと努力をしていたのである。彼が狙っていたのは、ギルドマスターとの直談判だ。サフィーもギルドの全権をつかって頑張っているが、やはりギルドマスター自身が出張るのとは違う。
ギルドマスターのバリュクがでれば、さすがに町議会も折れるのではないかと考えたのだった。これは甘い考えだったといえるが、リットとしてはわずかな可能性にでもすがりたかったのである。
完全に彼の行動を間違いであるといえる者はない。ギルドマスターの人となりを知る者がいれば彼を止めたかもしれないが、そうできたのはサフィーくらいしかなかったし、彼女もそのようなことをしているほど暇ではなかった。
だから、リットはバリュクを頼ることにしたのである。
彼を訪ねて、現状と自分の希望を話して懇願した。彼としてはそれで、協力が取り付けられるものと期待していたのだ。
ところがそれはかなわない。
「それは無理だ、御曹司」
リットの依頼ははねつけられた。
なぜだ?
ギルドマスターのバリュクは相手にもできないという具合でさっとその大きな手を振り、拒絶を示している。
「しかし、あなたが動かずに始末できるような問題ではない。 一体どうして放置できるのですか。
どうしてなんですか。なぜ出てくれない」
「私に利益はない。君ぁどうも逸っているようでいけない。今日はもうこのあたりで休みたまえ
君の無事を願う人たちのためにも」
バリュクがついと近づいてきて、肩を叩いた。ただそれだけなのに、ひどく重い一撃に感じられる。御曹司の膝ががくりと折れ曲がり、意識が遠のく。
リット・ガディは目の前が暗くなるのを見届けて、何も考えられなくなってしまった。