第二百五十五話 道場裏
1
薩摩と長州が武力倒幕による徳川完全排除を計る一方、土佐の坂本龍馬らは違う青写真を描いていた。
武力衝突の回避である。
薩摩と長州がタッグを組んで朝廷に働きかけ、倒幕の密勅を得るためアレコレ画策しているのと平行して、坂本は土佐藩の要望により武力倒幕の回避を画策していた。
土佐藩の船の中で「大政奉還」(※船中八策)を考え出し、土佐藩主を通し徳川慶喜公に建白したのだ。
要するに・・幕府が自ら政権を朝廷に返上すれば、武力交渉する必要性は消えてしまうことになる。
薩長と坂本は、最終目的は同じでもやり方を異としたために、それまでの協力関係に亀裂が起きていた。
さらに、薩摩と長州の藩内でも、意見が分かれてまとまっていないのが現状であった。
朝廷に働きかける薩長。
幕府に働きかける坂本。
2つの異なる動きは、時を争うように活発化する。
その結果・・
慶応3年10月13日。
討幕の密勅が薩摩藩に下され、長州藩に官位復旧が下される。
翌10月14日。
徳川慶喜公が大政奉還を朝廷に奏上。
同日、長州藩に討幕の密勅が下される。
翌々10月15日。
大政奉還が勅許される。
これにより、時間差で全面戦争は回避され大政奉還が奏上されたが、徳川家の強大な財力と軍事力が残ったため、いつまた勃発するか分からない状態であった。
そして・・
討幕の密勅を無にされた薩摩藩と長州藩、幕府解体により身分剥奪された御家人らからの恨みを・・大政奉還の立役者である坂本龍馬が一身に背負うことになる。
これが、後の近江屋事件を引き起こすことになった。
そうして・・幕臣の身分を与えられた新選組は、あっという間に雇い主を失うことになる。
「どうなんのかねー・・これから」
庭の樹の下で、枝の葉っぱを手で千切りながら永倉が言った。
「すぐにどうこうなるもんでもねぇだろ。幕臣になる前に戻っただけだし。禄は変わらず降りるってぇこったしな・・まぁ、いつまで持つかは知んねぇが」
原田がパチの首をガシガシと撫でながら見上げる。
「にしても、坂本は人気もんだな。あっちこっちから指名手配だぜ」
薫と環はパチの小屋の前にしゃがみこんだまま黙っていた。
土佐藩の坂本龍馬。
幕末の偉人、日本史のスーパースター。
平成時代では、高知県民の誇りであり、町おこしの頼みの綱。
明治維新の立役者でありながら、維新を迎える前に暗殺されるのは、あまりにも有名だ。
歴史に疎い薫でも「暗殺された」というのはTVの情報番組などで知っている。
(怖い・・)
坂本龍馬のことは名前しか知らない。
だが・・そう遠くない未来に、どこかで殺される。
薫も環も、近江屋事件の詳細は持っていない。
シンはこれから起きる事を一切教えてくれなかった。
どこかで人が殺される。
それがヒシヒシと現実味を帯びて、薫と環に幕末の凄惨さを思い知らせていた。
2
「~~~」
カブガブと音を立てて、沖田がうがいしている。
道場の裏側には誰もいない。
勢い良く水を吐き出すと、縁側の淵に腰を下ろした。
地面に染みこんだ水の痕に視線を下ろすと、息をつく。
稽古中に咳が込み上げて来たので、抜け出したのだ。
長い咳き込みが続いて、手の平を見ると唾液に血が滲んでいた。
灯篭の下にある水鉢(※自然石をくり抜いた鉢)に溜まっている雨水を手で掬って口に含むと、血が混じった鉄の味が口の中に広がる。
最近、吐血の量が多くなったので、唾を吐き出したくらいでは拭い去れない。
右腕で口元をグイッと拭いた。
息をつくと、両の太腿の上に肘をついて、頭をややグッタリともたげる。
熱が出ているのかもしれない。
「チッ・・」
舌打ちをすると、後ろから声がした。
「沖田さん・・大丈夫ですか?」
道場の建物の影から、薫がチョコンと頭を出している。
(・・っ)
沖田にとっては、ただ苦々しいだけのシチェーションでしかない。
不機嫌極まりない顔つきで立ち上がる。
「なんだよ」
「えっと・・」
薫は建物の影からオズオズと身体を出した。
「環が・・沖田さん、南部先生に診てもらった方が良いって」
薫が恐る恐る近づく。
「カンケーねぇだろ、ほっとけよ」
低い、怒気をはらんだ声で言い捨てると、沖田が歩き出した。
薫は困ったような顔で、言葉を探している。
咳き込んでるところを見られると、沖田は機嫌と態度が悪くなるのだ。
薫が、隣りを通り過ぎる沖田の袖を思わず掴む。
「お、沖田さん」
その瞬間、乱暴に振り払われた。
「触んな」
一瞬固まったが、すぐに薫は気を取り直す。
(ま、負けるもんか・・)
沖田が振り払ったのは、病気を感染(うつ)したくないからなのだと分かっている。
「あたし・・戻りますから。邪魔してゴメンナサイ」
薫は小さな声で言った。
そのまま沖田を残し、道場裏を後にする。
沖田に必要なのは、1人きりになれる場所だ。
人目があれば、ブッ倒れるまで平気な振りをするのだから、始末に悪い。
心配でならないが、薫は炊事場に戻って昼餉の支度に取りかかった。
(ここんとこ内臓メインのメニューだったけど・・もっと体力つけさせないと)
モゴモゴと思案する。
(漢方とかで、もっと強力な滋養強壮剤とか無いのかな)
内臓メニューは沖田がイヤがるので、食べさすのが一苦労なのだ。
「・・やっぱ高麗人参あたりがテッパンか」
首を捻る。
(今度、環と一緒に薬種問屋に行ってみよ)
そう結論付けると、やや気が楽になった。
薫はいつでもポジティヴ・シンキングなのだ。
しかし・・
昼餉の時間が来ても、沖田は戻って来なかった。
3
「沖田さん」
心配で道場裏に戻った薫の目に入ったのは、縁側で寝転んでいる沖田の姿だった。
慌てて駆けよると、グッタリと目を瞑った沖田が薄目を開けた。
「あ?」
「沖田さん、大丈夫ですか?」
薫が覗き込むと、沖田がつぶやく。
「・・寝ちまってた」
ムクリと上半身を起こすと、パラリと前髪が落ちた。
頬に赤味がある。
「沖田さん・・熱あるんじゃ」
無意識に伸ばした薫の手を、沖田が軽くはたいた。
「触んなっつったろ」
「え・・あ」
薫が口籠る。
(やっぱ熱あるよ)
一瞬触れた沖田の手が熱い。
「沖田さん・・お昼は部屋で食べましょう。御粥作りますから」
薫が子どもをなだめるような口調で言うと、沖田の目が少し鋭くなった。
「・・るっせーな」
(態度ワルいよ~)
薫も若干、ムカついている。
すると、沖田がフラリと立ち上がった。
薫を押しのけるようにして歩き出す。
「お、沖田さん」
薫が慌てて駆けよると、沖田の息遣いが荒い。
「沖田さん」
薫が覗き込むと、沖田が立ち止まった。
「・・部屋に戻りゃーいんだろ」
(ヤバイよ、かなり具合悪そう)
薫は手を差し伸べかけたが・・途中で握りしめた。
支えようなどとしようものなら、即座に突き飛ばされるに決まっている。
諦めて、後ろをついて歩くことにした。
そうすれば、もし倒れたりした時にはすぐに助けを呼びに行ける。
そうして・・
なんとか無事に部屋まで辿り着いた。
そのまま沖田がズルズルと柱に寄りかかって座り込む。
薫が慌てて布団を敷いた。
「・・なにやってんだ」
両膝を立てて、その上にダルそうに腕を乗せた沖田が声をかける。
「布団敷いてるんです。だって沖田さん眠いんでしょ」
手を止めることなく、薫が答えた。
「永倉さんに言っときます。沖田さん寝不足だから今日は使い物にならないって」
「あ?」
沖田が顔を上げた。
「はい、布団敷きましたよ。大人しく横になってくださいね」
布団メイキングを終えた薫が、沖田に顔を向ける。
沖田は無言で立ち上がると、布団まで来て止まった。
クルリと顔を向けてつぶやく。
「着替える」
「え?あ・・わっ」
薫は慌てて部屋から出た。
閉めた障子越しに声をかける。
「いま御粥持ってきますから休んでてください」