第二百九十二話 番屋
1
「やっとできた・・けっこう時間かかったなぁ」
薫は瓶を覗き込んだ。
夜の炊事場は人の気配がなく、空気がひんやりしている。
手に持っているのは蜜柑のマーマレードだ。
昼過ぎから下ごしらえをして、なんだかんだで出来上がったのは夕餉が終わってからである。
「完全無農薬だから安心して皮使えるもんねー」
テンションが上がる。
明日の朝食のデザートにマーマレードを添えたヨーグルトを出すつもりだ。
「沖田さん、好きなんだよね。マーマレード」
瓶を覗き込んだままつぶやく。
「でもなぁ~」
沖田の膳は市村鉄之助が毎日運んでいる。
(あーあ・・食べたリアクション見れないなー)
つまらなそうに口をとがらした。
(鉄之助のアホに見付からないように、コッソリ渡しに行こうかな)
よからぬことを考えている。
「・・身体、大丈夫なのかな」
息をついた。
山崎から、沖田はひとまず落ち着いているとは聞いたが心配だ。
そばで看護しなくては、気が気でならない。
鉄之助が下げてくる沖田の膳を見ると、手を付けているが、好物以外はほとんど残している。
要するに・・頑張ってもせいぜい好物くらいしか食べれない、ということなのだろう。
ふぅーっと深く息を吐いてクルリと方向転換すると、向こうから歩いて来る人影が見えた。
「お・・」
慌てて板の間に跳び上がる。
「沖田さん!」
小走りで近付くと、沖田が顔を上げた。
「あ?」
目の前で、薫が立ち止まる。
「沖田さん・・」
沖田は眠そうだ。
「なんだよ」
「あの・・」
気の利いたセリフが出てこない。
(・・えーと、なに言えば)
アワアワと目を泳がせていると、沖田が息をついた。
「・・ションベン漏れそう」
「え?しょ・・っ」
薫が思わず顔を上げると、沖田の顔が間近にある。
「どいて」
思わず身体を引くと、沖田が頭を掻きながら歩き出した。
すると・・奥の方からドヤドヤと大勢の足音が聞こえてきた。
「他の隊も呼び戻せ!」
土方の声である。
2
隊士を引き連れた土方が険しい顔つきで歩いてきた。
沖田は無表情に柱に寄り掛かる。
薫は目を凝らした。
沖田の前で土方が足を止める。
「天満屋が襲撃された」
土方がボソリとつぶやくと、沖田が小声で答えた。
「へぇ・・そりゃ大変ですね」
沖田の薄いリアクションに鼻白んだ土方が、ついと薫の方に目を遣る。
「ガキはそこで何やってんだ」
「え?」
薫が顔を上げた。
「炊事場に居残ってたみてぇです」
沖田が替わりに答えると、土方が薫の抱える瓶に視線を落とす。
「ふん」
「副長」
土方の後ろから山崎が声をかけると、土方が頷く。
「ああ」
一旦止まった集団が、またぞろ大股で歩き出した。
行燈の灯っていない廊下の闇に、吸い込まれるように人影が消える。
暗闇にポツンと、沖田と薫の2人だけ残された。
「さぁ~てと・・」
沖田がボリボリと頭を掻きながら歩き出すと・・後ろの袖が引っ掛かる。
「ん?」
振り返ると・・薫が沖田の袖を掴んでいた。
「・・なんだよ」
沖田が眉を寄せると、薫が慌てて手を放す。
「あっ・・ご、ごめんなさい。あの・・沖田さん、身体大丈夫かなぁって」
「おめぇにゃ関係ねぇよ」
沖田が冷めた目で見下ろす。
(・・関係ねぇ・・)
バッサリ切られたショックを必死に隠して、薫は果敢に言葉を続けた。
「そっか・・ですよね。土方さんからも、沖田さんの部屋に近付くなって言われたし・・でも」
沖田がめんどくさげな声を出す。
「オレが土方さんに頼んだんだけど。おめぇと環を部屋に近付けんなって」
「え?」
薫が顔を上げる。
「え、え?な、なんで・・」
(病気うつさないように・・とか)
あくまで楽天的だ。
「うるせーもん」
「え?」
「おめぇらがいると、うるさくてオチオチ寝てらんねぇだろ」
沖田が冷めた声を出す。
ポカンと見上げる薫を見下すと、沖田が小さくクシャミした。
「う~・・さびぃっ」
肩をブルリと震わす。
「ションベン漏れる」
暗い廊下に消える背中を見送りながら、薫がポツンとつぶやく。
「・・うるせぇから・・」
3
「今夜は冷えるな」
井上大助は自身番屋で茶をすすっていた。
見廻り中に、顔馴染みの番太郎から「寄っとくれやす」と声をかけられたので、囲炉裏にあたって暖を取っているところだ。
「うっひゃぁ~」
素っ頓狂な声と同時に番屋の引き戸が開いた。
雪の混じった夜気とともに現れたのは弥彦である。
「あ~、旦那ぁ、ここいはったんや」
慌ただしく戸を閉めると、背中を丸めて囲炉裏の前に来た。
弥彦が立ったまま火に手をあて息をつくと、気を利かせた番太郎が碗に茶を注ぐ。
「旦那、探したでぇ」
弥彦が、木箱に腰かける大助の耳に顔を寄せる。
「なんかあったのか?」
大助は顔を上げもせず訊いた。
「いや、なんや・・さっき入った夜鷹蕎麦の屋台ん中で、けったいな話聞きましてん」
弥彦が声を潜める。
「なんだ?」
大助が促すと、弥彦がゴニョゴニョと続けた。
「・・あっこの長屋の近ぅで・・また鬼が出たっちゅうて」
一瞬の無言の後、大助が立ち上がる。
「・・ほんとか」
弥彦がコクンと頷いた。
「ほんまでっせ」
番太郎は2人の話が聞こえてないような顔で春画を広げ始める。
「・・いつの話だ」
大助が木箱に座り直すと、弥彦もそばに積んでいる薪に腰を下ろした。
「ここんとこ10日ほどっちゅうて・・なんや、鬼見たんも1人2人やないみたいでっせ」
「・・長屋の住人が見たのか?」
大助の問いに、弥彦がコクリと頷く。
「へぇ」
(・・あの赤鬼がまた現れたのか?・・それとも)
大助が思案していると、派手な音を立てて番屋の引き戸が勢い良く開いた。
「大変やぁっ!」
戸口から入って来たのは、自身番屋に詰めるもう1人の番太郎だ。
大助と弥彦が振り返ると、慌てて駆けよって来た。
「あ~っ、こりゃ井上の旦那ぁ~、よろしゅおした。大変でっせ」
「なんだ?」
事件が日常茶飯事の大助は落ち着いた声だ。
「ついさっき天満屋に賊が入ったっちゅうて」
番太郎の報告に、大助の表情が険しくなった。
「天満屋に?」
「へぇ・・ほんで、紀州藩と新選組が駆け付けたっちゅう話ですわ」
寒さで咳き込みながら答える番太郎の言葉を聞いて、春画を見ていた方の番太郎も立ち上がる。
「あちゃぁ~、なんや、またぞろ殺し合いかいね」
「行くぜ、弥彦。鬼の件はひとまず後回しだ」
大助が引き戸をくぐると、弥彦が慌てて後に続く。
「わて、殺し合いも、鬼の祟りも、どっちゃもイヤやぁ~・・」
情けないつぶやきが夜風に紛れた。