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第二百九十話 二度目


 あの黒い粉は・・阿片だった。

 麻薬であり鎮痛剤でもあり、人を狂わす禁忌の粉。


 大坂にいる松本良順が、先ごろ、南部に送ってきたものだ。


 中岡慎太郎と坂本龍馬が暗殺されたとなれば、京が戦火に巻き込まれるのは避けられない。

 刀傷や銃創の手術に、痛み止めは欠かせない。


 脳髄が痺れる甘い香りは、環の頭からイヤな記憶を取り除いた、あの花の香りと同じものだ。


 (あれは多分・・)

 環は物思いに耽っている。


 篠笛を膝の上に置いた。


 笛は時々、思い立ったように吹きたくなるが、特別練習することももうない。

 そらで奏でられるメロディーだけを中途半端に繰り返すだけだ。


 すると・・


 「どうしたの?」

 薫が薄目を開けて見ている。


 環が吹く笛の音色を子守唄に、うたた寝をしていた。


 「え?・・ううん、別に」

 環が言葉を濁した。


 「南部先生のところで、なにかあったの?」

 薫がムクリと起き上がる。


 「ううん、なにも・・先生の具合が気になってるだけ」

 環は巾着袋に笛を仕舞いこんだ。


 「あれ?もう、吹かないの?」

 薫が残念そうな声を出す。


 環の笛を聞くのが好きなのだが、いつ吹くのかは環の気分次第で、薫からリクエストしたりねだることはほとんど無い。


 「うん・・」

 笛を箪笥に入れようとした環が、ふと目を落とす。


 箪笥の底に仕舞いこんだスマートフォンが目に入ったのだ。

 電源が切れた真っ黒な画面がツルツルと光っている。


 スマートフォンを手に取ると、透明ケースにつけられたストラップを軽く引っ張った。

 紐は途中で切れてブサブサになっている。


 「それ・・」

 薫が環の手に目をやった。

 「環のお母さんの・・」


 環の母が作ったミサンガである。


 以前は環の手首に巻かれていたが、いつのまにか無くなっていた。

 切れてしまったのだろう。


 「ミサンガって、切れると願い事が叶うんだよね」

 薫が環の手元を覗き込んだ。

 「・・叶ったの?」


 環がスマートフォンを握りしめる。

 「迷信だよ・・そんなの」


 「・・そっか」

 薫がつまらなそうに膝を抱え込んだ。

 「そうだよね」






 天満屋の中二階の座敷では、夜更けまで会合が続いていた。


 「斎藤・・いんや山口ゃ」

 酔っ払いのドラ声が響き渡る。


 声を張り上げているのは、紀州藩公用方の三浦休太郎だ。

 両隣りに紀州藩士、三宅精一と関甚之助が座っている。


 三浦は、中岡慎太郎と坂本龍馬暗殺事件の黒幕という容疑をかけられ、土佐藩から狙われていた。


 会津候が新選組隊を護衛として送ったのだが・・どうも三浦という人物は、危機感と言うものが欠けているらしく、毎晩、豪快に酒を煽っている。


 「おまんも隅っこにおらんと、こっちゃ来い。こっちゃ」

 三浦がお銚子をヒラヒラと振った。


 護衛役の新選組隊士達は、お役目中だが普段通りに呑んでいる。

 斎藤は鎖帷子に鉢金の戦闘スタイルで、窓際でお銚子を傾けていた。


 「いや・・オレはここで」

 外を見渡せる位置から動くことはできない。


 斎藤が舌打ちした。

 (あ~、鎖帷子重て~。脱ぎて~)


 永倉と原田に鍛えられて酒に強くなったおかげで頭の芯は冷えている。


 三浦が声を上げた。

 「どっと、いっこもいごかん。なんや、やにこう、いらちこんできた」


 「・・?・・」

 新選組の隊士達が怪訝な顔つきをする。


 紀州弁がキツくて、何を言ってるのか分からない。

 シラフの時でも聞きずらいが、酒が入ると理解不能である。


 「お、どーきん、どーきん」

 三浦が空を掴むように手を上げた。


 「えっと・・?」

 平隊士の宮川信吉と舟津釜太郎が首を傾げる。


 「どーきん、はよ、はよ。あれよ、なっとうしょう」

 三浦が眉をひそめた。


 視線の先に、畳に転がったお銚子がある。

 半分以上酒が残ったお銚子が倒れて、転がりながら畳を濡らしていた。


 (どーきん・・雑巾のことか?)

 斎藤が顔を上げる。


 斎藤は数日間つかず離れず護衛しているせいか、少しだけ紀州弁が聞き取れるようになっていた。


 紀州人の特徴として「ざじずぜそ」が発音できないということが分かった。

 「ざじずぜぞ」は、何故だか「だでぃどぅでど」に変換されてしまうらしい。


 つまり・・「どーきん」イコール「ぞーきん」である。

 答えに行き着いた斎藤が立ち上がろうとすると、いきなり目の前に手拭が突き出された。


 「お・・っと」

 斎藤がのけぞりながら横を見ると、大石鍬次郎が冷めた顔つきで手拭を差し出している。

 大石も近藤に命じられて三浦の警護に付いていた。


 「おう、借りるぜ」

 斎藤が手拭を受け取る。

 永倉や原田などは大石の酷薄さを苦手としているが、斎藤は黙々と仕事をこなす大石を認めていた。


 すると・・


 「失礼しやす」


 障子の向こうから声がかかる。

 廊下に跪く人影が見えた。


 「お~う」

 三浦休太郎が陽気に応えると、隣りの三宅がすぐに立ち上がる。

 「なんど?」


 三宅が障子をスラリと開けると、宿の番頭が顔を上げた。

 「見かけん顔のお客はんが、三浦さまにお会いしたいと」


 三宅が眉をひそめた。

 そのまま後ろ手で障子を閉める。

 「わいが出たる」


 三宅が部屋から姿を消すと、無言で大石が立ち上がった。

 後を追って部屋から抜け出る。






 三宅が階段を下りると、玄関近くに大男が立っている。

 草履を履いたままの土足で板の間に仁王立ちしていた。


 三宅の方を見上げた男の顔は、浅黒く濃い髭に覆われている。

 眼光鋭く三宅を見ると、低い声でつぶやいた。

 「そこ許は三浦か?」


 「ぬ」

 三宅が脇差に手をかけた瞬間、大男が剣を抜いて突いて来た。

 「死ね」


 男の刀が突き刺さる寸前、三宅の身体が後ろに倒れる。


 「うっ」

 三宅が顔を押さえて声を上げた。

 顎から血が流れている。


 大男の剣先で顎を斬られたのだ。

 だが・・倒れたおかげで喉を突き刺されずに済んだ。


 三宅が倒れたのは、後ろから大石鍬次郎が腕を引っ張ったからだ。


 倒れた三宅の前に、大石が回り込む。

 無表情に剣を構えた。


 「新選組か・・」

 大男がつぶやきをもらす。


 階段の上には斎藤が姿を見せていた。

 後ろに、平隊士の梅戸勝之進もついてきている。


 大男が見上げると、斎藤を見て妙な表情を見せた。

 「おんしゃ・・」


 「あ?」

 斎藤が低い声でつぶやく。


 階段を下りながら大男の顔を眺めた。

 手は脇差にかけられている。


 男の目が鈍く光った。

 「・・四条橋で会うたのう」


 やりとりしている間に、大男の仲間と見られる侍が、どんどん中に入ってくる。


 「あんときゃ、お互い酔っ払っとったがのう」

 中井の声には嘲笑めいた響きが混じっていた。


 「ふん、陸援隊か・・」

 隣りで大石がつぶやく。


 この大男・・陸援隊ではない。

 十津川郷士の中井庄五郎と言う。


 熱烈な尊王攘夷思想の持ち主で、坂本龍馬と親交があったため、陸援隊が仇討を画策していることを聞きおよび、討ち入りに志願したのだ。


 中井は1年前の正月に斎藤と顔を合わせている。

 土佐勤王党・那須盛馬の護衛をしていた中井が、四条橋のたもとで偶然諍いを起こして、永倉と剣を交えたことがあった。

 

 斎藤と沖田が一緒にいたのだが、泥酔状態だったために戦力外・・。

 永倉1人が奮戦し、あえなく逃げられた。


 「誰だ?おめぇ」

 斎藤が胡散臭そうに訊く。


 中井が目を開いた。

 「ぬぅ、わしを覚えとらんか!」


 「だから誰だよ?どっかで会ったっけ?」

 斎藤が首を傾げる。

 夜で酔っ払っていて、喧嘩相手の顔などろくに覚えていない。


 「うぬぅ・・」

 中井の顔が見る見る真っ赤になる。


 「うぉぉーっ」

 刀を横に構えて、いきなり突進してきた。


 その声を皮切りに・・天満屋事件の乱闘が始まった。






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