第二百八十一話 花
1
薫が歩を進め、沖田の横を過ぎると、男を見下ろした。
「絶対、許せない・・こんなヤツ」
目が憎しみに揺れている。
薫の気配に、うめき声を上げていた男が静まった。
沖田に刺された脇腹を押さえながら、ズリズリと後ずさる・・と
「うぉぉ・・っ」
ドサ・・ッ
本堂から参道に降りる階段を、ゴロゴロと転がり落ちてしまった。
薫が階段を下りて、追いかける。
見ると、白目を剥いて気を失っていた。
「死んじゃえばいい」
薫が低い声でつぶやく。
すると・・
後ろから口を押えられた。
「よせ」
沖田が片手で後ろから薫の口を塞いでいる。
薫の耳に沖田の声が響く。
「オメェの口から、んな言葉、聞きたくねぇ」
抱きしめられているわけではないが、なんとなく腕の中に囚われた恰好で、薫は身動き取れなくなってしまった。
すると・・
「おい、総司。なにやってんだぁ」
暗闇の参道から声が聞こえる。
「んな時に濡れ場やってんじゃねーぞ」
斎藤が歩いて来た。
後ろにシンがいる。
沖田が顔を上げて眉をしかめた。
「バーカ、濡れてねーよ」
薫の口を押えていた沖田の手がスルリと離れて解放される。
薫がホッと息をつくと、シンが心配そうな顔で近づいて来た。
「薫・・大丈夫か」
「うん」
コクリと頷く。
「・・あたしよりも、環が」
薫の言葉に、シンが眉をひそめた。
「環がどうした」
「乱暴されそうになって・・。あ、でも、大丈夫だったけど・・でも」
薫が振り返ると、本堂の入口に環が立っている。
こっちを見ていた。
「環」
薫が声をかけると、シンが歩き出す。
階段を登り切ると、環の前に立った。
「ケガはない?」
シンの言葉に、環が黙って頭(かぶり)を振る。
「そっか」
羽織を脱いで環に着せた。
「寒いだろ。中入ってろ。オレも一緒にいるから」
シンが環を連れて本堂に入っていくのを、参道の3人が見送る。
「ふーん・・アイツは怖くないわけか」
「ただの番犬だからだろー」
「環・・」
風が吹いてザワザワと樹々が揺れ出した。
「土方さん達が来るまで、こいつら見張ってねーと」
「・・めんどくせ」
参道に転がっている男たちを見ながら斎藤と沖田がつぶやいた。
2
「戸を閉めてもいいか?」
シンが立ち上がる。
風が入るのを防ごうと思ったが、男と暗闇で2人きりは環が怖がるかもしれないので事前に訊いた。
壁際で膝を抱えていた環が顔を上げる。
「うん」
シンがゆっくり本堂の扉を閉めると、ビュービュー吹いていた風が一気に止んだ。
環の隣りに戻って、人一人分ほどの間隔を空けて座る。
「こーゆーことがあると、ほんと・・元の時代に戻りたいって、すげー思うよな」
シンがつぶやいた。
環がクスリと笑う。
「うん」
不思議だった。
ついさっき襲われかけた本堂の暗闇の中、曲がりなりにも成人男子のシンと2人きりなのに、少しも怖くも気持ち悪くもない。
シンが近くにいると、薫がそばにいるのと似たような安心感がある。
さきほどの忌まわしい記憶が、少しだけ薄れるような気がした。
すると・・
「ファァ~・・」
いきなりアクビをしたかと思うと、シンの身体がズルリと倒れた。
床でスースー寝息を立て始める。
「え?」
環が驚いて腰を浮かしかけると、甘い香りが鼻についた。
(・・花の香り・・?)
窓から差し込む月灯りだけの薄暗がりの中、辺りを見渡すが、花など無い。
(・・この香り・・どこかで)
そう思った時に、環も睡魔に襲われ、瞼がすでに閉じていた。
「・・眠ったかなぁー?」
暗闇に声が響く。
天井の梁を支える横柱の上から、ヒラリと影が降り立った。
茜である。
環のそばに立つと、手に持った小瓶を傾け、床に水滴を滴らせた。
花の香りは、その液体から匂い立っている。
「オレの出る幕、無かったねー」
茜がクスリと笑った。
「ま、あったら困るんだけどさー」
袖に小瓶を仕舞う。
「"元の時代に戻りたい"って・・どーゆーイミだろ」
茜が首を傾げた。
「ま・・いーや」
環の顔を覗き込む。
「おやすみ、環ちゃん。次、起きた時には、やなこと忘れてるよ」
助走無しでジャンプすると、横柱に掴まりクルリと回転して天井に身を躍らせる。
灯り取りの高窓に身を滑らせて、そのまま茜は姿を消した。
3
「さっびぃーなー。いつまでこうしてなきゃなんねんだ」
斎藤がブルブル震えながら、小言を言う。
「この人たちの羽織脱がして着たらどうですか」
参道に転がってる男達を冷たい目で見ながら薫が答えた。
「やだ、絶対」
斎藤が頑として横を向く。
すると・・
1人だけ地べたに座り込んでいた沖田が、頭をボリボリ掻きながら立ち上がった。
「オレ、もういっぺん門の方見て来る。土方さん達が来る前に、こいつらの仲間が来たら面倒だし」
「あ?ああ」
斎藤が答えると、沖田は1人、暗闇に向かって歩き出す。
「気を付けてくださいね」
薫が声をかけると、面倒臭そうな声が帰ってくる。
「おーう」
少し歩くと、闇が深まり、振り返った沖田の眼にも、薫と斎藤の姿が見えなくなっていた。
立ち止まった沖田が口を押さえると、ゴボッとむせる音がして、身体の奥から堪えていたものが込み上げる。
「ぐっ・・ゴホッ・・ゴホッ」
膝をついて、地面に片手を押し付けて、口元を押さえ込んだ。
「ゴホ・・ッ・・!」
口の中に溜まった生温かい液体が飛び散る。
ヌルヌルとした鉄の味が口一杯に広がって、吐き気を増幅した。
「ゴホッ・・グッ・・」
頭を下げて背中を丸めると、繰り返し咳が込み上げる。
何度も咳き込んで、ゼェゼェと息をつくと、頭の芯がしびれて、気が遠くなってくる。
息をついて、頭を振るが、背中に軽い痛みが走る。
「チッ」
忌々しそうに舌打ちして立ち上がろうとした時、さらに激しい咳き込みが起きた。
限界に来ていた体力が、今度こそ尽きるのを感じる。
長い間繰り返していた咳と吐血のせいで・・途方もなく身体が疲れ切っていた。
「・・眠りてぇ」
つぶやいてゴロリと仰向けに転がると、そのままむせ続ける。
「あーあ」
つぶやき声とともに、咳がピタリと止まり、辺りにまた静けさが戻った。