第二百六十三話 前夜
1
「土方さん!」
薫の大声に、土方がやや驚き顔で振り向く。
「あ?」
振り向いて、もっと驚いた顔になった。
薫が髪を振り乱し、泣きながら廊下を駆けてくる。
土方は大石と2人で立ち話をしていた。
「どうした?」
土方の問いに、薫は上手く言葉が出てこない。
「お・・沖田さんが・・」
その一言で察したように、土方がすぐに部屋に戻っていく。
隣りの大石は、さして興味が無い顔で肩をすくめた。
土方の後に続いて、薫も廊下を戻って行った。
さっきの部屋に戻ると、沖田が壁際でグッタリ頭を下げて座っている。
「総司!」
土方が呼ぶと、沖田がゆっくり顔を上げた。
「土方さん?・・薫、おめぇ~」
薫は泣きぬれた顔で入り口に立っている。
土方は沖田のそばにしゃがむと、後ろにいる薫に声をかけた。
「新八と左之を呼べ。こいつを運ぶ」
「は、はいっ」
薫は慌てて返事をすると、廊下に消えた。
「総司」
土方の問いかけに、沖田は顔を下ろす。
「・・なんですか?」
「隊務から外れろ。もう限界だ」
土方の言葉に、沖田は全く無反応だ。
「総司」
すると・・
沖田が顔を上げる。
「それだけは・・御免蒙りますね」
「いい加減にしろ!」
土方が、カッと大声を出した。
「おかしな意地張ってんじゃねぇ、クソの役にも立たねぇや」
「ハッキリ言うなぁ」
沖田が、クックッと笑いだす。
「役立たずって・・はは」
「総司」
土方のトーンが落ちた。
沖田が土方の袖を掴む。
「ゴホッ・・ゴホッ」
沖田の身体が小さく揺れた。
すると・・
ドヤドヤと廊下を駆けて来る足音が聞こえて来る。
「総司、大丈夫かっ!」
永倉の声が響いた。
原田と並んで廊下に立っている。
後ろに薫の顔が小さく見えた。
永倉と原田は部屋にズカズカ入ると、沖田のそばに片膝をつく。
「総司・・」
原田が声をかけると、土方がつぶやいた。
「手ぇ貸せ。この馬鹿・・部屋に運ぶ」
2
昼過ぎて、屯所に大助が現れた。
玄関先に出向いた土方に開口一番で切り出す。
「中岡慎太郎が死んだよ」
土方の後ろには、山崎が控えていた。
「これでもう・・」
大助の言葉が途切れる。
すると・・
奥の部屋から言い合っている声が聞こえて来た。
「ちょっと待ってろ」
大助に言い捨てて、土方が踵を返す。
廊下をズンズン進むと、奥の声がハッキリしてくる。
「よさんか、総司」
「沖田さん、ダメです!」
井上源三郎と環の声だ。
スラリと障子を開けると、部屋の中央に敷かれた布団の上で、起き上がろうとする沖田を、源三郎と環が押さえつけている。
「どうしたんだ?」
土方が入ると、源三郎が振り向いた。
「おお、トシさん」
「総司」
土方が沖田を見下ろす。
肩で息をした沖田が、土方を見上げた。
ひどい顔色だった。
「そうかよ、わかった。そんなに死にてぇなら・・斬ってやらぁ」
土方が腰に下げた鞘から、刀を抜いた。
ギラリと光る抜き身を見て、環が声を出す。
「冗談やめて、土方さん」
「オレは冗談は嫌ぇだ」
土方が振りかぶる。
すると・・
「あっ、薫ちゃん」
大助の声が聞こえた。
薫が・・土方の後ろから抱き付いて、羽交い絞めをした。
廊下に立っている大助と山崎の前をすり抜け、部屋に入ったのだ。
「させません。絶対に」
薫は土方の腕を掴んでいた。
「放せ・・薫。邪魔すると、てめぇも斬る」
土方の低い声が響く。
薫は動かない。
すると・・
山崎がスイッと部屋に入った。
「副長・・もういいでしょう」
土方の前に回り込む。
「チ・・」
舌打ちして、土方が腕を降ろした。
途端に、薫の身体から力が抜ける。
廊下にいる大助が息をついた。
柱に寄りかかって、腕を組んでいる。
「・・ったく」
目をつむって、つぶやいた。
3
この時期、日暮れが早い。
今夜はあいにくの曇り空で、月も白い姿を消していた。
薩摩藩邸では灯篭の灯りだけが庭木の濃い影を作っている。
「なーかむーらさん♪」
明るい声が暗闇に響いた。
中村半次郎が振り向くと、いつのまにか藩邸の庭に侵入者がいる。
「んにゃんにゃ・・茜」
姿はハッキリ見えないが、声で分かった。
「おひさ」
茶目っ気のある声が闇に響く。
「・・さっかぶい」
中村は、藩邸を囲む塀の上を見た。
灯篭の灯りに薄暗く照らされた人影が立っている。
「お邪魔」
茜は塀からジャンプして、石灯籠の上に移った。
中村は羽織の袖に両腕を入れて、なんの警戒心も無い。
「忙しそうだねー、今日は戻んないかなーって思ったんだけど」
茜が石灯籠の上にしゃがみ込んだ。
中村は黙ったままだ。
灯篭の灯りが、茜の顔を下から照らす。
「中岡さんまで死んじゃったね・・どうす」
言いかけた茜の言葉に、中村がかぶせた。
「がっついむいねこつ」
腕組みを解くと、両手の拳を握りしめる。
拳が震えていた。
恐怖ではない。
怒りの震えだ。
中村は腕が立つため人斬りのイメージが強いが、情に厚く世話好きな男である。
寺田屋事件で傷を負った坂本を薩摩藩邸で預かった時は、足繁く床を見舞っていた。
中岡とは親交厚く、2人が襲われた後からずっと、海援隊や陸援隊と連絡を取って、休む間もなく犯人捜しに奔走している。
長州の木戸準一郎(後の木戸孝允)のような、アッケラカンとした合理主義者とは若干色合いが違う。
中村が歩を進めると、顔が灯篭の灯りに照らされる。
瞼が赤く膨れ、腫れ上がっていた。
中村が男泣きに泣いたことを、茜もすぐに察した。
「中村さん・・変わんないねー」
「・・茜」
「なに?」
「中岡らぁの仇ば討っちゃる・・おはんも力貸すたい」
中村の言葉を聞いて、茜が首を傾げる。
「仇って・・誰のこと?」
石灯籠から地面に音も無く飛び降りる。
「新選組?・・見廻組?・・それとも長州藩とか、薩摩藩とか?」
「やぜらしかっ」
中村が声を張った。
「事実でしょー。坂本に関しちゃ、薩摩も長州も容疑者なんだから」
茜は薄く笑っている。
「中村さんだって、奉行所から目ぇ付けられてるんじゃないの?」
「ほんのこて・・おいにゃ、解せんばい。・・じゃどん」
中村が真っ暗い地面を見た。
「伊東が言うこつ・・いっすん新選組じゃが」
「どうかなぁ?」
茜がトボけた表情で首を傾げる。
「目立ちたがり屋の新選組にしちゃ、ちょっと地味過ぎるんだよねー」
「そげんな・・」
中村が顔を上げた。
「ま、いーや」
茜が腰に手をあてる。
「力貸すよ。この件・・キョーミあるから」
「わっこ・・」
中村の顔が少し緩んだ。
「ただし・・」
茜が歩を進める。
「高いよ?」
冗談めいたクスクス笑いが闇に響いた。