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我、愚か者ゆえに

作者: 氷柱里紗
掲載日:2026/04/20


 高橋三春たかはしみはるは自分の髪をくるりと指に巻きつけながらため息をついた。

 深い茶色の髪はもともと少し癖がある。ゆるくパーマをかけたように波打つそれは、湿気の多い日には思うようにまとまらない。けれど今は、その扱いづらささえどうでもよかった。


 もうしばらく恋なんてしない。


 気持ちだけはシンガーソングライターのように心に固く誓ったほんの二週間ほど前のことが蘇る。

 好きだった人には別に好きな人がいると知った、あのゼミの飲み会で交わした友人との気まずいアイコンタクト。胸の奥がじんわり冷たくなって、どこか静かに何かが終わったような気がした。というか終わったのだ。

 あの日、自分がどうやって家に帰ったかすら覚えてないのに、この痛みだけは決して消えない。

 こんな思い、もう二度としてなるものか。そう決心したのに。自分の意志の弱さに疑心暗鬼になりそうだ。

 だから、あの日もただの思い違いだったのだと思うことにしている。そうしないと、自分のことすら嫌いになりかねない。

 バイト先のカフェに、毛利もうり先輩の友人、涼宮寛貴すずみやひろきが来店した日のこと。

 カウンター越しに目が合った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。店の外で威風堂々と咲き誇る桜の花が風に揺られて吹雪を起こすみたいに、何かが胸を一直線に通り抜けていった。


 ――私が一目惚れなんて。


 そんなはずがない。妙なざわめきを覚えた三春は、目が合った寛貴に会釈をしてすぐに顔を逸らした。

 あれから一ヶ月。三春はその日のことを──とりわけ彼の顔を、できるだけ思い出さないようにしていた。鈴城寛貴は単なる先輩の友達として処理して、気にしていないふりをしていた。大学も違うし、出会うはずもなかった人だ。

  疲労を溶かしてしまいそうなほどの愛想の良い微笑で会釈を返してくれたのはただの営業スマイル。

 その辺の若手俳優にも負けない端正な顔立ちも関係ない。先輩と話していた時に聞こえてきた、意外にも低い声も気に留めるようなことではない。

 彼は毛利先輩の友人であって、友人に会うためにあの日たまたま店に来ただけの他人。自分と交わることは今後一切あり得ない。

 そう自分に言い聞かせて、自分の決意を信じてきた。けれどその努力すらも、毛利のたった一言で足元から崩される。


「チケット余ってるんだけど、美術館行かない? 高橋、こういう展覧会とか行くの好きなんだろ? 大学でも美術の歴史を専攻してるとか。研究の一環にもなるぜ」


 断る理由のない誘いだった。それでも三春は一瞬だけ迷って、それから頷いた。ただの誘いだったら迷う必要はない。しかし毛利の手にはチケットが三枚ある。つまりはもう一人誘うということ。


「この前店に来た寛貴のこと覚えてるか。ほら背の高い――そうそうあいつ。あいつも一緒だけど平気だよな?」


 芸術は、好きだ。ちょうどレポートの課題も出たばかり。美術館に行く理由としてはそれで十分だった。それだけだ。寛貴が来ることはなんらこの決断に関係がない。三春はまっすぐに毛利を見て無駄に力強く頷いた。


 当日、待ち合わせ場所に現れたのは、毛利と――事前情報通り、鈴城寛貴だった。店で見た時よりも一層輝きを放っている気がするのはきっと初めて彼を太陽光の下で目にしたからだ。

 そう分かってはいても、 胸が少しだけ騒がしくなる。三春が寛貴になんと言うべきか悩むより先に、寛貴が三春を瞳に捉えて軽く手を上げて笑った。


「久しぶり」


 嘘。覚えててくれたんだ。動揺を隠しつつ、三春はぎこちなく会釈を返した。


「お久しぶりです」


 意識しない。絶対に。そう決めていたはずなのに。眼前に迫った寛貴と目が合うと、無意識に口元が緩んでしまった。


「高橋は美術史専攻なんだ。俺たちとは違う大学に通ってる」


 毛利が三春のことを簡単に紹介してくれたので、三春はもう一度ひょこっと頭を下げて挨拶する。


「なるほど。それは頼もしい。一緒に見て回るのが楽しみだな。」

「私もです」


 考えるよりも先に口が言葉を発していた。ちょっと前のめりすぎるくらいの勢いだった。毛利が軽快に笑う。この野郎。そう思いつつも三春は恥ずかしそうに肩をすくめて誤魔化す。我ながら罪な口だ。このやろう。

 毛利と寛貴に続いて美術館に足を踏み入れた三春は、持参していたメモ帳と鉛筆を取り出す。今回の展示は写真撮影も禁止だ。何か気になる点があればきちんと記録に残そうと、美術史を学ぶ学生らしく準備をしてきた。

 三春がメモの用意をしていたことを寛貴は関心して讃えてくれた。そんな褒めるようなことではない。彼の予想外の反応を少し不思議に思ったが、その違和感は展示室に入ってすぐ解消された。

 最初に展示されている作品を見てすぐに、彼の控えめながらも活き活きとした声が隣から聞こえてきたからだ。


「この画家、光の使い方が独特でさ。影がただ暗いだけじゃなくて色があるっていうか――」


 寛貴の見聞に三春は思わず顔を上げる。


「……分かります。影なのに、どこかあたたかいですよね。だから、その異質さが後世で特に評価されて――」

「――愛されてる」


 言葉が重なった瞬間には、二人は驚いたように互いの顔を見つめていた。まさか彼が絵画に造詣があるなんて。三春が口をあんぐりさせて唖然とするのとは対照的に、寛貴は嬉しそうに笑った。


「そう、それ。それが言いたかった」


 屈託のない笑顔に胸の奥がきゅっと縮む。噓でしょ。三春が毛利をちらりと見やると、彼はしたり顔をして親指を立てた。


「こいつ、美術系の話に目がないんだよ。本棚は図録だらけだってさ」


 それならそうと早く言え。頭の中ではいつもの調子で毛利に突っ込みを入れていたが、表情にはそれを出さなかった。寛貴とは違って、毛利はあまり芸術作品というものに興味はなさそうだった。それでも、次々に現れる絵画に熱中する二人に呆れることなく大人しく後ろをついてきてくれた。

 毛利が自分の守備範囲外のことには口を出さないこともあり、まるで寛貴と二人だけで展示を見ているような気分にすらなった。そうして語り合いながら展示を回るうちに、三春は嫌なことに気づいてしまう。

 彼はただの先輩の友達ではない。絵の前で立ち止まる時間、色の話をする声のトーン、画家に対する敬意と技法に対する興味、時折見せる真剣な横顔。そのすべてがどうしようもなく心に残る。

 気を張っていたはずなのに、その覚悟は無駄な徒労に終わりそうだ。

 今や絵画を見るよりも、作品に熱心な瞳を向ける彼の姿を見る方に夢中だ。


 美術館を出た頃には、夕方の光がやわらかく街を包んでいた。毛利はかなりの時間が経っていたことに驚いていたが、三春はそうは思わなかった。むしろ展示をすべて見終わってしまったことが残念でもある。

 疲れ果てた毛利を励ます寛貴を横目で捉え、さっき見た絵のことを思い出す。天国を描いたというその作品は、光に満ちていてどこか現実離れした穏やかさや暖かさがあった。希望と安堵に満たされた額縁の中の光景。


 ――ああ。


 自分は今まさに、その絵の中にいるみたいだ。

 隣を歩く寛貴の気配があまりにも自然で、心地よくて。こんなにも自分を曝け出したのはいつぶりだろう。たくさんの記録を残したメモ帳を見下ろし、三春は観念したように一人こっそり笑みを湛える。

 これはもう、認めるしかない。

 すでにこの人のことが大好きになっている。

 美術館でどの絵を目にした時よりも、心が幸福感に満たされているのだ。

 三春が寛貴と毛利に目を向けると、寛貴が疲労困憊の毛利の身体を支えながら参ったように笑いかけてきた。


 帰宅後、三春はベッドに仰向けになりスマホを手に取った。

 毛利と寛貴が入っているグループに、簡単なお礼のメッセージを打ち込んだ。別途毛利にも感謝を直接伝える必要もある。そう心にリマインドを残しながら三春はメッセージを送った。


[今日はありがとうございました。すごく楽しかったです]


 送信ボタンを押したあと、画面を見つめたまましばらく動けなかった。

 胸の中にやわらかい何かが広がっていく。久しぶりの感覚に懐かしさを覚える。しかし同時にその奥に――ほんの少しだけ、あのときの寂しさが顔を覗かせる。意地悪な悪魔がこちらを嘲っているかのようだ。

 そう。今度もまたうまくいかないかもしれない。忘れられない痛みがぶり返し、心が少しだけ不安に揺れる。

 三春の眉根が怯えるように眉間にしわを寄せたとき、手元のスマホからぴこん、と軽やかな通知音が鳴った。

 画面を見るなり胸が高鳴った。寛貴からの返信だ。


[こちらこそ、楽しかった。また行きたいね]


 彼のアイコンは初期設定のままの無機質なシルエット。顔は見えない。それなのに、その一文だけで胸が途端に高揚感に跳ねる。彼が打ち込んだ文字。一語一句が愛おしく感じられた。ただ画面に表示される文字を眺めるだけで何時間も過ごせそうなほど飽きそうにもない。

 気づけば、三春の頬は他人には見せるのが憚られるくらいに緩んでいた。


 ――確かに、うまくいくかは、分からない。


 でも。


 ――うん、きっと、うまくいく。


 根拠なんてどこにもないのに、不思議とそう思えた。

 三春はスマホを握り直し、ゆっくりと文字を打ち始める。

 送る言葉はまだ形になりきっていない。

 けれど指は迷わなかった。

 画面の光に照らされた三春の表情は、やわらかくて、まるで新しい世界を覗き込むように、好奇心と小さな期待に満ちていた。

 その瞳は、少しだけ未来を見ている。 

 たった二ヶ月も経たないうちに自らの確固たる決意を破るだなんてなんて愚か者なのか。

 あまりの愚かさにちょっとだけ楽しくなってしまい、三春は微かに笑い声を立てた。

 でもいいじゃないか。

 罪を犯したわけでもない。そんなに別に自分を責める必要もないだろう。

 認めよう。私は確かに愚か者だ。そう、愚か者で結構である。愚か者は、絵画の中でも幾度となく描かれてきた。そう考えれば、むしろ光栄にすら思えてくる。

 どうもこの愚か者は、またどうしようもなく恋に落ちてしまったようだ。




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