鵼の声
足利兄弟の空想話です。
往々にして北条の醜悪さが人の口に上り、兄高氏も時折なにゆえにかようになられましたか、
と執事が言うような様相で邸へ戻る事が多々あった頃、悲しそうに細い顎を少しひいて眉を顰めて「すまぬ」という高氏にたれも、
そうたれも目を伏せ唇を噛み締めていた。
そのような姿を見て臍を噛む、いやむしろ殺気を隠そうともしない高国を見て、怯える高義の肩に手を置き、貞氏は溜息をかみ殺す。
昨夜清子の悩ましげな肩に手を置いた時に聞いた言葉を思い出しながら。
夜の声が鳴り響き、邸の警護も心なしか足音が小さい。
朗々とした唄を聞き、帰った邸の曹司で待つはいつもの愛妾ではなく。
「清子」
久方ぶりにあう清子の顔に驚きを隠せず貞氏はあいもかわらず少女めいた顔じゃと肩をおろすと、ご苦労様です、
と清子の甲斐甲斐しい仕草にこれは驚いた、と軽口をたたきながら寛ぐ貞氏ににこりと微笑み、清子はそっと盃を差し出した。
鈴虫の声が遠くで聞こえ、こんな夜に静かに清子の手から盃を受けるはなんぞ気分がいいぞ、と生来から隠し事よりも率直さを好むまま、
清子の前で休息にもたれつつ杯を重ねている。
清子は黙ってそそぎつづけ、やがてへいじが空になった頃、誰に言うでもなく、独り言のように口を開いた。
「恐ろしゅうございます」
「何を恐れる」
酔ったままの声で答えるとそれを意に介した様子もなく、貞氏の方を見ず手元をしん、と見つめたまま清子は小さく身体を震わせると
「高国です」
と、誰でもなく貞氏が想像した名とは違う名を呟く。
「執権殿に一字を頂戴した有難い名を何故そのように嫌うか」
だれもかれもがこのような時に口に出す執権殿の名ではないことに苦笑しつつ、清子は情勢が見えておらぬな、と苦笑する。
「高氏は、あの子はわかりまするが高国は何を見て何を考えておるのかもわかりませぬ、あの子、我が子ながらあの子が恐い」
何を、と笑おうとした貞氏はその口元が引き攣るのを押さえられず清子に殿、と手を添えられる。
「殿もかように思うておられましょう?」
秀逸な白顔で表情を崩さぬ冷たさは確かに兄と一線を駕している所があり、胸の内を悟らせぬ様は我が子か、と思うた時もあるが。
その表情を貞氏はもう一つ見た事があった、それは高氏である。
その日はよく晴れた日で執権殿の生白い顔は破顔し狂気のような笑い声をけたたましく上げると愛妾を抱き寄せほれ、
とおよそ武を司るとは思えぬ指先で家来に指示を出す。
躊躇する家来に悲鳴にように再度伝えられた命に震え上がり開かれたは闘犬の檻。それならばいつもの事であろう、
だがその牙の先にいたのは貞氏の嫡男である高氏であった。
空気は揺れ、泥に転ばされた高氏の顔は執権からは見えぬようであったが、貞氏からはよう見えた。
それはあの、高国の顔と同じ冷たさ冷静さを持ったもので、背筋に冷たいものが落ちた貞氏はその騒動が一段落した所で邸へと戻ると、
そこに同じ顔をした高国が黙って居た、あの冷たい底冷えするような顔で。
「恐ろしゅう思うは高国だけか」
「殿?」
「ほんに、我が血を分けた子かと思う程に高氏も高国も・・・いやそなたになんぞ言うておるわけではない。だがな、
遥かに大きなモノをそなたはこの腹からあの子達に与えたのではないかと思うのでな」
盃を飲み干して、新月を見上げれば、無骨な男らしく、いつもの月よの、と呟いた。
「じゃがそれが良いものとは限らぬぞ、よもや・・・戦乱の世になろうとは思いもせぬ事。
我らはただ執権殿を支えこの鎌倉よ永劫であれと思うだけよ」
と、遠くで獣が鳴いた。
清子が身体を震わせて貞氏に縋る。
「との、ここ最近はあの声がするのです、あの」
ああ、それは。
「あの子があれをよんだのか、あれがあの子をよんだのか」
かたかたと歯の根もあわぬ清子の肩を強く抱き、撫で擦れば清子は必死にしがみついてきた。
「鬼切もなければ・・・弓の弦を鳴らしてみようか」
だが立ち上がろうにも清子が腕を放さない。
「無駄でございましょう」
「何故そういいきれる」
「あれは外にいるのではござりませぬ、あれは、あれは」
「何をいうのだ、安心せよ、とうの昔に清水寺に埋めてあるものがそんなに恐ろしいか」
「しかし、高国は」
らちもあかぬ、と貞氏は清子の頬をつかみ、きつく唇をよせあえば、自然に清子の体から力がぬけ、貞氏の腕にたおやかにしなだれかかる。
との、と春の宵の花吹雪の如き甘い声を聞きながら、この家の行く末の先々は己の腕には重いのよと貞氏は目を閉じた。
外の、あの獣の声を聞きながら。
それは・・・少し嗚咽に似ていた。
改名
高氏→尊氏 高国→忠義→直義
異母弟の高義の改名前の名は不明でしたのでまんま使いました。
早世しています




