第7話 扉は生活で開く
翌朝、北辺境の町は“生活”で走り出した。
掲示板には道当番表。学校—工場—市場の三角は週替わりでルートを回す。門番は三色旗を順番に掲げ、子どもは「今日は青ルートだよ!」と登校路を変える。夜は23:00-6:00の青い帳、子守の190Hzを二分。朝は塩一粒で目を起こす。
「定着率、八割まで上がった」
夜神ノクナが帳面をめくる。ページの端が星みたいに反射した。
「外輪事故ゼロ、夜食外輪の遵守も良好」
「潮見係も置けた」
海神セイラが港票を指で弾き、満足げに頷く。「入りと出が巡ってる。港じゃない町でも、潮は回る」
森神フリューは町外れの若木の根を確かめ、露を一滴落とした。「近くは空、外輪が育つ。季節、順」
祠の前へ戻る。星型の鍵穴の脇、刻字の白が薄く息をする。
〈第二段階 開扉条件:実距離1,500km/社会的距離:三ルート運用の定着〉
「定着の定義は?」と目で問うと、ノクナが眼鏡を押し上げた。
「七日、規定違反一割以内。睡眠固定は八割。外輪事故ゼロ」
「数字が恋人だな、夜は」
「数字は眠りの毛布になる」
七日間、俺たちは町に手を入れ続けた。
道当番の誤配は表示板で即修正、夜更かし妖怪(=遅くまで騒ぐ酒場)には外輪移転補助、工場の排気は外輪へ延長配管。セイラは潮見係マニュアルを作り、フリューは朝市の出店位置を「露が落ちる影」に移す。ノクナは夜食禁止の例外条項(病人と赤子のみ)を定め、青い帳の貸出所を作った。
六日目の夜、白い布の紋がまた風に踊った。
近道教団の査察女(あの白糸の女)だ。今度は書類束を抱えている。
「生活を最短化しませんか。三つのルートは無駄です」
「三つあるから折れない」
俺は祠の前に旗を立てた。旗の縁に星砂、竿に距離刻み。
「一本は楽で速いが、壊れやすい。三本は回る。遠くの安定が、近くの楽を支える」
女は書類を一枚ひらつかせる。「数字で示して?」
ノクナが無言で帳面を差し出した。夜のグラフは美しい。
「就寝固定率 82%、外輪事故ゼロ、通学遅延 40%減。昼の短気指数は三割減」
「短気指数なんて指標、いつ作ったの」
「今朝」
白糸の女は肩をすくめた。「あなた方の遠回り教は、善意に依存している」
「仕組みに依存してる」
セイラが港票を掲げる。「旗、掲示、当番、基準。善意要らない。運用で回る」
女はつまらなそうに笑って踵を返した。
七日目の朝、祠の星が二つ目、ぱちりと灯った。
扉の奥から、乾いた風と、うっすら北光。
「二つ目、通った」
フリューが小さく頷き、指を祠の縁から離した。「次」
「1,500kmの実距離」
ノクナが砂図に線を引く。「氷原の橋を渡る。そこで縮め獣が再発する可能性が高い」
距離計が耳で鳴る。
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=412.9km〉
「まだ遠い。でも、行く」
俺は旗を背につけ、屋形船を川へ戻す。川面は硬く、北は針で縫ったみたいに細い。
◇
山間から広がる氷原に出た。
ここは橋の町——凍った川を跨ぐ浮橋が幾筋も並び、季節で通行ルートを替える仕組みだ。だが今日は、橋が一本に“寄せ”られていた。
門番が青ざめて言う。「近道教団が効率化とか言って、一本にまとめたんだ。混むし、騒ぐし、転ぶ」
「一本は折れる」
フリューが短く言う。
橋脚の影に、白い布の測距杭。例の圧縮がここでも息をしている。
橋桁の上には、橋姫が一人。薄い水の衣、凍る指先。瞳は川底の藍色。
「増やして」
声は透明だった。「道を。三に」
「任せろ」
俺は頷き、旗を高く掲げる。「手順は隘路と同じ。三手で割る」
「一、外輪に匂い」
乾いた夢を氷の縁に薄く撒く。鼻ではわからない。足が選択肢を思い出す匂い。
「二、一本を鈍らせる」
セイラが押し潮の氷版をする。橋面の水分が微かに動き、一本だけ滑りやすくなった。楽すぎる道は落ちると体が覚える。
「三、拍で三択を可視化」
ノクナが橋の袂に190/200/210Hzを埋め、歩幅に三拍子を刻ませる。
圧縮の杭がきしむ。
白糸の信徒が慌てて対角を張り直すが、中心が定まらない。
俺は旗の基準を外輪へ運び、フリューの露を四隅に落として水平を作る。
橋姫が吐息だけ笑い、薄い水の袖で橋脚に触れる。橋脚が二本、三本と目を覚ました。
——ピ、ピ。
〈+455km〉〈+498km〉(距離計は雑だが、胸の針は確かに軽い)
「行け!」
俺は遠回りの最短で二本目へ跳び、三本目へ駆ける。
人流は分かれる。一本が混まない。転倒は減る。
白糸の信徒がしつこく杭を打つが、足元の拍が内向きを嫌い、外輪の匂いが三通りを思い出させる。
最後に、町の子どもたちが「道当番!」と走って渡り、三ルートを実演した。
圧縮は、解けた。
橋の上の風がやっと流れを取り戻す。
橋姫が小さく会釈する。「ありがとう。同居は——水温が上がったら」
「橋、可愛い」
セイラが笑い、こめかみで俺を小突く。「でも当番制は崩さない」
「海=今週、森=来週、夜=再来週。橋=水温未定」
ノクナがうっすら笑って書き加えた。「補助当番でよろしいかと」
◇
氷原の向こう、北光が帯になって地平を撫でていた。
祠の二つ星が刻まれた札は、屋形船の梁に結び付けられている。三つ目を灯すには、あと実距離が要る。
距離計が喉の奥で鳴った。
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=612.4km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1/睡眠最適化Lv1〉
〈更新:橋三分割 運用開始/近道教団の圧縮は外輪基準で中和〉
「レオン」
ノクナが青い帳をたたむ。「星の道が北で濃い。五夜で千五百に届かせる設計、立てられる」
「生活は守りながら行く」
「もちろん」
そのとき、北の白い地平に黒い影が浮いた。
白糸の女だ。今度はひとり。手には短い物差しではなく、長い巻尺。
「測りに来たの」
彼女は穏やかに笑った。「あなたの遠回り、本当に長いのかしら」
巻尺が風に解け、空間を巻き取る音がした。圧縮ではない——差し戻しだ。
歩いてきた距離を、帳消しにする術。
「“巻き戻し”近道」
セイラの肩がびくりと震える。
ノクナが眼鏡の内側で目を細める。「距離の履歴を一枚剥ぐタイプ。星の道のログを守る必要がある」
「守るには生活」
フリューの声が静かに落ちた。「昨日の寝入り、今朝の露。今日の旗。剥がせない層を重ねる」
「巻き戻し対策、三層でいく」
俺は旗を握り直した。「夜のログ(固定就寝)、朝のログ(露と道当番)、昼のログ(外輪運用)。距離=生活の積層として残す」
白糸の女がわずかに目を丸くする。
「距離を数字だけで持つのは、あなたたちの宗教。俺たちは生活で持つ」
北風が光を撫で、星の道が細く輝いた。
五夜で千五百。遠くへ。
胸の針は、まだ軽くなる余地を残している。
——ピ。
〈本日の最長離隔:642.8km〉
〈次目標:星の道 五夜行(巻き戻し対策:夜×朝×昼の三層ログ)〉
青い帳の下、ノクナが小さな紙片を渡した。週間スケジュールだ。
「当番:今週海、来週森、再来週夜。補助:橋(水温次第)
就寝:23:00-6:00固定/夜食:禁止(蜂蜜湯は朝)/拍:190Hz二分」
「了解」
セイラが塩を一粒置き、フリューが露を枕に落とす。
遠ざかる最短は、層を重ねるたびに強くなる。
巻尺が来ても、生活は剥がれない。
*距離メモ:
・“定着”は数値+習慣。就寝固定・外輪事故ゼロ・道当番の遵守で星2つ目が灯る。
・橋の圧縮には三手(外輪匂い/一本鈍化/拍で三択)+基準旗&露で水平化。
・巻き戻し系には三層ログ(夜=就寝記録/朝=露と当番/昼=外輪運用)で“距離=生活の積層”を残す。