第5話 星の道と“近道教団”
星砂の荒野を抜けるには、二つの道がある。
一つは地図にある商隊路。もう一つは、夜神ノクナが夜ごと薄く開く星の道だ。昼の世界ではただの空気の層。夜になると、砂丘の稜線に沿って重力のゆるい筋が浮く。踏み外すとズブリ、踏み当てるとフワリ。眠気の正しい配分がないと歩けない。
「ルール再掲」
ノクナが青い帳を少しだけ上げる。「二十三時就寝、六時起床。出発は夜半二時。寝入り二分の190Hzは守ること。夜食は禁止、ただし塩一粒は可」
「塩一粒、偉い」
海神セイラが頬杖をつく。「私は甘いものを朝に回す。蜂蜜は朝の神」
「了解。生活が先、戦いは後」
口に出すたび、距離計の針が少し軽くなる気がする。
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=128.4km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1/睡眠最適化Lv1〉
◇
星の道は、確かに近道だった。
だが、それは遠くへ行くための近道だ。近くに甘える近道じゃない。
砂丘と砂丘の狭間で、空気が柔らかく撓み、足音が半分消える。星の粒が走者の前に一拍だけ遅れて点く。可視化されたテンポ。ノクナの世界はメトロノームに似ている。
「歩幅、三歩で二拍が適正」
「了解」
歩幅を合わせると、胸の針がさらに軽くなる。遠ざかる最短は、リズムの設計でもあるのだと腑に落ちた。
そんな調子で二夜を跨いだころだ。
星の道を折り返す稜線に、不自然な灯が見えた。昼の残り火じゃない。真昼の光を薄めて瓶に詰めたような、時間の匂い。
「嫌な灯り」
セイラが目を細める。「潮が近づいてくる感じ」
「夜のグラフに突起」
ノクナが眼鏡を押し上げる。「空間を圧縮している」
稜線の向こうに、白い布を頭から被った一団がいた。
胸に同じ紋。紐で結んだ短い物差しをぶら下げ、足元に測距杭。彼らは砂を叩いて合図を送り合っている。
先頭の女が、掌を掲げた。見覚えのある顔だ。旧パーティとよくつるんでいた補給商の女——いや、違う。別人だが、似た匂い。
「旅の人。近道を知りたくはない?」
声は滑らかで、砂粒が一個も混じっていない。
「興味はあるが、定義が違う」
「近道は善。手間を減らすのは善。あなた、夜の道を歩いてきたのでしょう? それも近道」
「違う。遠くへ行くための近道だ。近くに甘える近道じゃない」
女は微笑んだ。砂に正方形を描き、角に測距杭を立て、杭同士を白い糸で結ぶ。
「空間圧縮。十キロを、十歩にする。あなた、半径十キロの減衰があるのでしょう?」
背筋が冷える。
彼女は知っている。
「私たちは近道教団。世界が複雑な道を嫌うから、最短を提供する。あなたの“遠ざかるほど強い”は需要に反する。だから教育する」
周囲の信徒が杭を一斉に打つ。白糸が空気をきしませ、空間が縮んで耳が痛い。
距離計が悲鳴みたいに鳴った。
——ピ! ピ!
〈警告:旧パーティ中心からの仮想距離が10kmを切る〉
〈近接減衰、発動〉
足が重くなる。胸の針がおもりをぶら下げたみたい。
セイラが舌打ち。「潮が逆流してる」
「空間が嘘をついた」
ノクナの声が低い。「数直線を折って、短絡路を作ってる。夜の道に対する冒涜」
「実地、教育を始めるわ」
女が掌を落とす。信徒が一斉に懐から牽引印を投げた。白い札が砂に刺さり、俺の足首と砂面の間に見えない糸がかかる。引っ張るたび、近づく。
——近くは、俺の檻だ。
「遠回りの最短で、打ち消す」
息をひとつ入れ替え、俺は逆方向へ走った。
圧縮が十歩分を一歩にするなら、こちらは十歩分を百拍に分割して、拍ごとに距離を稼ぐ。
「セイラ、潮路の砂版を!」
「一回だけよ!」
砂の上に見えない筋が生まれる。足裏の弾力。遠くへ誘う誘導路。
「ノクナ、拍のマーカーを砂に!」
「190Hzで四分音符、二小節!」
トン、トン、トン、トン。砂の表面に微細な振動が走る。歩幅×拍で体が前に行く。
牽引印の糸を音で撚り戻す。圧縮の角に丸を足す。
距離計の数字が、じわっと戻る。
——ピ、ピ。
〈+52%〉〈+53%〉
「教団、第二式」
女が指を鳴らす。信徒たちが杭を対角線で結び、正方形を細長い帯へ引き伸ばす。空間は蛇腹のように折れ、俺の前方に旧パーティの影が現れかけた。
やばい。このままでは仮想距離で踏み越えられる。
「レオン、引け」
ノクナの冷たい声。「近道の中心を外へ移す」
中心? 正方形の重心。杭の交点。
俺は旗ざおを抜き、中心に向かって対角線を走る。拍を刻む足音。砂路の弾力。
中心に飛び込み、旗ざおで砂を掻く。
砂に埋めておいた乾いた夢の小袋が割れる。眠りの匂いが、中心から外へ広がる。
観測で知った通り、眠り=安全×匂い×音×温度。
ここでの安全は外側にある。
つまり、中心は居心地が悪い。
空間は居心地の良さの方向へ自動整形される。
圧縮の中心が、じりっと外側へ逃げた。
——ピ。
〈+55%〉
女が初めて目を細めた。「理屈で殴るタイプ。嫌いじゃない」
「宗教に理屈を持ち込むのは宗教的だろ」
「それはあなたの宗教よ、遠回り教」
「なら布教しよう。近くに成功体験を残すな。遠くで勝て」
言い終えるより早く、俺は星の道の筋へ跳び込む。
ノクナが拍を加速する。190Hz→210Hz。
セイラが砂路を延ばす。北東へ。風は追い風。
圧縮の糸は、細くなるほど切れやすい。引き延ばして、乾かす。
「退け」
女が短杖を振る。信徒の一人が牽引印を抜こうとして砂に足を取られ、転び、隣の印を踏み抜く。
糸が絡む。
空間がきしむ。
圧縮の矩形が歪む。正方形は、崩れると一気にただの砂だ。
「セイラ、今!」
「押し潮!」
砂の下の見えない水脈が、一瞬だけ膨張した。砂はふかふかのベッドになり、杭は抜け、糸は切れた。
距離計が解放の音を鳴らす。
——ピ、ピ、ピ。
〈+58%〉〈+60%〉〈+63%〉
女は舌打ちして短杖を引っ込めた。「覚えておきなさい、遠回り教。世界は短絡を欲する。あなたは需要に逆らっている」
「需要は訓練できる」
ノクナが静かに言い切った。「眠りは習慣。道も習慣。近道病は、夜の敵」
女は肩をすくめ、白い布を翻して去る。信徒たちも砂に足跡を残さない歩き方で続いた。
風だけが残り、星がまた等間隔に戻る。
俺は膝に手をつき、大きく息を吐く。
胸の針は、確かに軽い。減衰の圏外へ、再び。
◇
その夜の終わり、星の道の終端で灯りが見えた。
北辺境の最初の町。雪解け水が川に流れ、空は針みたいに張りつめている。
町門で、毛皮の外套の青年が出迎えた。目の下の影は薄い。眠れている町だ。
「遠路をお疲れさま。ここの自治団は遠回り派だ」
「派?」
「近道教団が南から押し上げてくるから、遠回り同盟が自然にできたのさ。遠くに工場、近くに学校。遠くで排気、近くで呼吸。そういうことを決める会議」
「いい町だ」
セイラがにっこりする。「潮の理に似てる」
ノクナも満足そうだ。「夜の理にも似る」
「北の奥に鍵があるんだろ?」
俺が問うと、青年が頷く。「噂では、1,500kmで開く層の扉の前に、距離を縮める獣が座ってる。近道教団の守護かもしれない」
「名前は」
「ハシル。道を一つに詰めるから」
「近道の化身」
ノクナが鼻で笑う。「夜に敵が増えた」
町の長屋に通され、屋形船は川に係留。台所の炉が暖かく、湯気に樹脂の匂いが混じる。
セイラが手際よく鍋をかき回し、ノクナは寝台に青い帳を張る。
「今夜は例外」
ノクナが珍しく譲歩した。「二十三時就寝は守るが、夜食に蜂蜜湯を許可。精神の揺れを落とす」
「夜神、優しい」
「夜は容赦なく必要に優しい」
蜂蜜湯で喉が解けていく。
セイラが俺の肩にもたれ、悪びれず笑う。「順番制、今週は海だもの。寄りかかる権利はある」
「来週は森」
戸口の影から、フリューが静かに現れ、乾いた夢の小袋を一つ置く。「近道病に効く。道を増やす匂い」
「森、来てたのか」
「森はどこにでもある」
そう言って、フリューは柱の木目に指先を滑らせ、露を一滴だけ落として消えた。
ノクナが小さく咳払い。「再来週は夜。週間スケジュールは忘れずに」
「はいはい」
笑いながら、胸の針に意識を向ける。
遠くへ行くほど、軽くなる。
近道教団は、近くの快で世界を釣る。俺は、遠くの安定で世界を支える。
それは宗教でも理屈でも、どちらでもいい。生活に落とす。
——ピ。
〈本日の最長離隔:211.0km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1/睡眠最適化Lv1〉
〈更新:近道教団と交戦/圧縮打ち消し手順(拍×砂路×乾いた夢)確立〉
布団に入ると、ノクナが青い帳の端を整えた。
「二分、190Hz」
共鳴箱がかすかに唄い、セイラが塩を一粒、舌に乗せる。
遠ざかる最短は、明日も続く。1,500kmの鍵を、必ず開ける。
その先で、世界はもっと広くなる。
距離メモ:
・“近道”には二種類ある:遠くへ行くための近道(OK)と、近くに甘える近道(NG)。
・圧縮には拍(190〜210Hz)×誘導路(潮路/砂路)×乾いた夢で対抗。中心を外へ逃がす。
・需要は訓練できる。近道病には、生活ルールと遠くの成功体験。