第4話 星砂の荒野、眠りの設計図
川は砂にほどけ、流れは見えない川——風になった。
屋形船は、神域の車輪を出して砂上を滑る。星砂は月の欠片を混ぜたみたいに淡く光り、足跡は一歩で消えた。
「水のない海、って感じだな」
「砂も潮と同じで、満ち引きするの」
セイラが指先で砂面を撫でると、波紋が走ってすぐ消えた。「荒野の夜は情報が少ない。だから眠りが崩れやすい」
「夜神に会う前座には十分だ」
耳の奥で距離計が鳴る。
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=88.9km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1〉
星が低く、空は近い。遠くに焚き火の橙色が三つ。キャラバンの野営だ。
近づくと、誰も座っていない焚き火がぐつぐつ寂しく煮え、人だけが立っている。目の下の影は森の村人より濃い。眠れない夜は、砂より重い。
「よう」
挨拶をかけると、布で顔を覆った女がきびすを返した。目だけが、砂漠の星みたいに強い光を持っている。
「旅の人。道なら教える。眠りは、今夜は売り切れだ」
「売り切れ?」
男が肩をすくめる。「夢喰いの風さ。寝台に横たわった瞬間、夢の入口が剥がれる。誰も落ちない」
「何日?」
「三日目。昼に無理やり目を閉じると、陽炎が怒る」
昼は眠気に追われ、夜は眠れない。最悪のループだ。
セイラが袖で鼻先を押さえた。「乾いた夢の匂いが、荒野一帯に薄く広がってる。これは……誰かが意図的に撒いた」
荷車の影から、小柄な少女が顔を出した。砂漠の民族の衣を着ているが、襟元に細い銀のペン。
「うちの書記が、夜の観測をしてる。夢喰いの風を記録して、眠りの式に直したいって」
女は眉間を押さえた。「でも誰も眠れない。観測には睡眠の母数がいるのに」
「観測と設計、ね」
俺はポケットからフリューにもらった包みを取り出す。乾いた夢——夢の抜け殻。夜獣の舌を絡めるための餌。
「方法はある。遠くで寝かせる。ここを空にして、外輪で眠りを育てる」
「外輪?」
「荒野の地図、あるか」
少女が走って持ってきた羊皮紙には、砂丘の起伏と古い井戸の位置。俺は《しおさい》の甲板に広げ、赤で眠り誘導路を描く。
一番外側に星見丘。その内側に廃井戸。さらに内側に石の弧。
「眠りの餌(乾いた夢)を星見丘に仕掛け、子守唄は井戸の風で運ぶ。温度は——」
「火は危ない」
「砂湯にする。石の下に湯壺。音が出ない」
少女の目が輝いた。「式に置き換えられる。眠り=匂い×音×温度×安全。安全の係数がゼロだと何もかけてもゼロ」
「そう。まずは安全を見せる。近くで寝るな。遠くで寝ろ。近場は空」
「……理屈は立つ」
声が背後から落ちてきた。
いつの間にか、野営の暗がりに一人立っている。
黒に近い紺。砂塵除けの薄いヴェール。細い銀縁の眼鏡。髪は夜の色。
瞳は星の反射を拾って、測定器の針のように正確だ。
「夜神ノクナ」
セイラが小さく息を呑む。「来たわね、観測のひと」
ノクナは頷き、俺を評価するように一瞥した。「遠ざけて勝つ人の子。仮説は美しい。ただし仮説は検証しなければ意味がない」
「だから外輪を作る。母数は——」
「私が用意する」
ノクナが指を鳴らすと、野営の影のひとつひとつがゆっくり膝を折った。眠りじゃない。仮眠だ。夜神の安全保障つきの。
「夜の領域での作業。三条件を守るなら許可する」
「三条件?」
「一、火を上げない。二、音を重ねすぎない。三、近場に“成功体験”を残さない。人はすぐ近道を覚える。近道は眠りを壊す」
「了解」
セイラが肘で俺をつつく。「三は生活の真理よね」
「耳が痛い」
◇
作戦は静かに始まった。
少女(書記のキオラと名乗った)と一緒に、星見丘へ移動する。距離を稼ぐため遠回りの稜線を選ぶ。
星が砂に刺さるたび、耳の奥の計器が鳴る。
——ピ、ピ。
〈+39%〉〈+41%〉
丘の頂で、乾いた夢を砂に薄く混ぜて帯状に撒く。香りはほとんどしない。
「これで夜獣の舌は最長に伸びる。井戸で子守唄の風を起こして、舌をさらに外へ引っぱる」
キオラが手帳をめくる。「子守唄のベース周波数は180〜220Hzが良眠に寄与。井戸の共鳴は190Hz付近。合う」
「温度は?」
「砂湯。石の下に湯壺。露は外、熱は内。音はゼロ」
「係数が一に近づく。いい式」
キオラは満足げに頷き、ペンを走らせる。銀のペン先が夜気を切る音が、やけに気持ちいい。
井戸へ降り、共鳴箱を設置。風は井戸の口を舐め、低くユウと鳴る。婆さまの歌と違い、ここは機械仕掛けの子守唄だ。
「夜神」
井戸の縁で声を落とす。「安全は?」
「半径二百歩、夜獣の侵入を阻む。だが、人は阻まない」
ノクナはそう言って、眼鏡を押し上げた。「人の近道までは、神でも止めにくい」
◇
誘導路が整う。
俺はキャラバンの寝台を解体させた。近場の成功体験を残さないためだ。砂上に寝台跡が消える。
「眠りたいなら、郊外へ。星見丘の外輪で寝る。近場は座るだけ」
最初の寝息が、丘の外輪で落ちた。二人、三人。
ノクナが静かに目を細める。「寝入りの波形、良好。夢前期に滑り込めている」
「夜獣は?」
「舌を伸ばしている。遠くへ。よく引いた」
夜神の声は淡々としているが、わずかに機嫌がよさそうだ。
砂の上、星の光が線になって動く。見えない舌が乾いた夢に絡まり、井戸の低音に導かれる。
「さあ、空振りしてこい」
そのとき。
砂の稜線の向こうから、誰かが駆け降りてきた。
赤いマント、光る剣。見慣れた背中。
旧パーティのリーダーだった。
距離計が反射的に鳴る。
——ピ。
〈距離=10.6km〉
……ギリギリ。
こいつ、嗅ぎつけたな。港での誘導、森での結界、そして今度は荒野。遠くで勝つ俺の癖を、嗅いで追ってきた。
「レオン!」
リーダーが剣を掲げる。星明かりに刃が白く光った。
「眠りを操る魔術があると聞いた! そんな危険、俺が断つ!」
「やめろ!」
思わず声が荒くなる。
「近くで断つな! 眠りは遠くで処理してる!」
「言い訳だろう」
剣に聖句が走る。まっすぐ——井戸へ。
ノクナの眼鏡が冷たく光った。
「近道だ。最悪の」
俺は走った。丘と井戸の間を、遠回りで。
セイラの潮運が背を押し、フリューの再生結界が脚の筋をほどく。
——ピ、ピ。
〈+42%〉〈+44%〉
リーダーが井戸の縁に飛び乗る。剣が振り下ろされる——
刃を見ない。刃の周囲の空気を見る。
俺は横から旗ざおを滑り込ませ、剣の角度だけをずらす。
刃は井戸の石に触れ、火花の代わりに低音が鳴った。共鳴箱は壊れていない。
「どけ!」
「遠くで戦え!」
「眠りの魔は——」
「魔じゃない。式だ!」
リーダーは言葉が通じないときの顔になった。懐かしいほどに。
その背後で、夜の空気がすっと緊張する。
「観測は妨害された」
ノクナの声が低く落ちる。「なら、再設計する」
夜神が手を広げた。
砂の上に星図が現れる。
寝息の落ちる地点、乾いた夢の帯、井戸の共鳴、風の角度、人の動線。
全てが細い光で結ばれ、ひとつの設計図になった。
「レオン。遠ざけるのは君の役割。私は眠りを最適化する。二十息持つ?」
「二十息なら行ける」
セイラが囁く。「潮路を砂に写す。一度だけよ」
足元に、見えない砂路が延びる。遠くへ。もっと遠くへ。
「リーダー」
俺はひとつ深呼吸して言った。「港を守った。森で眠りを戻した。今は荒野で寝台を遠くに置く。俺は近くでは勝てない。だから遠くで勝つ」
「勝ち負けの話じゃない!」
「いつも君は、そう言う」
軽く笑って、背を向ける。
遠ざかる最短を走る。
——ピ、ピ、ピ。
〈+45%〉〈+47%〉〈+50%〉
星見丘の外輪に飛び込み、乾いた夢の帯をさらに外へ延ばす。
砂湯の石の下に湯を継ぎ足し、井戸の対面に第二井戸(共鳴箱)を仮設。二点干渉で、夜獣の舌を引き回す。
キオラが息を切らせて並走する。「式、更新! 夢前期の落差が復活、入眠率上昇!」
ノクナの声が上から降る。「近道の影響、打ち消し完了。眠りの外輪、安定」
息を吐く。二十息のはずが、たぶん十五で足りた。
井戸に戻ると、リーダーは剣を下ろしていた。自分の声が夜に吸われていくのに驚いたのだろう。
夜は静かだ。眠りは音を嫌う。
「……レオン」
彼が低く言う。「ほんとうに、勝ったのか」
「勝った、というより寝かせた。朝になればわかる」
喉は乾いていたが、声は落ち着いていた。遠ざかると、言葉も遠くへ届く。
ノクナが静かに歩み寄る。眼鏡の奥の瞳が、測る。
「仮説→設計→検証。合格。加護Lv1《睡眠最適化》を与える。君と同居する条件は——」
「順番制」
セイラが食い気味に割り込む。
ノクナはわずかに口角を上げた。「週間スケジュール提出。就寝時刻は固定。夜食は外輪で」
「固い……! でも嫌いじゃない」
俺は笑って頷く。「歓迎する。生活が先、戦いは後。夜の習慣を作る」
「なら、今夜から」
ノクナが指を鳴らし、屋形船の寝台に薄い青の帳がかかる。
「二十三時就寝、六時起床。ベッドの四隅に星砂。寝入りは音190Hzを二分。夜食禁止。セイラ、甘いものは明日」
「夜神、容赦ない」
「夜は容赦なく優しい」
◇
明け方。
キャラバンから初めての欠伸が漏れ、初めての笑いが生まれた。
パンの匂い、羊毛のきしみ、遠い鈴。朝の音階が荒野に戻ってくる。
リーダーは剣を鞘に収めた。
「……レオン。戻る気は」
「ない」
彼は目を伏せ、短くうなずくと、砂丘の向こうに消えた。距離計の数字がわずかに上がる。
——ピ。
〈+51%〉
キオラが銀のペンをくるりと回した。「式、きれい。遠回りの最短、論文にしたい」
「名前欄、共同著者にしておいてくれ」
「もちろん」
ノクナが横に立つ。眼鏡を外すと、夜の色の瞳は少し眠そうだった。
「私も眠る。規則正しく」
「どうぞ。同居の件は?」
「週替わり当番制。今週は海、来週は森。再来週は夜。文書は後で出す」
セイラが勝ち誇る。「条文ついた!」
「条文が好きなんだ、夜は」
「ルールは、眠りの友だち」
屋形船の上、三人で短い朝食を取る。
セイラが海藻スープ、ノクナが塩を一粒だけ、慎重に落とす。
「一粒だけ?」
「過剰は眠りを壊す」
ノクナの声は、砂の上の露みたいに小さいが、はっきりしている。
「次は?」
「北の辺境。距離係数の第二段階の“鍵”がそこにある」
ノクナが砂図に指で線を引く。「1,500kmで開く層。星の道を使えば、日数は短縮できる」
セイラが肘で俺をつつく。「行ける?」
「行く。遠くへ。もっと」
胸の針が、また軽くなる。
——ピ。
〈本日の最長離隔:92.3km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1/睡眠最適化Lv1〉
〈更新:夜間ルーチン確定/星の道・暫定ルート入手〉
遠くへ。
遠くで勝ち、近くを空に。
遠回りの最短で、次の境界へ。
距離メモ:
・眠りの式=匂い×音×温度×安全。まずは安全係数を1に。
・近場に“成功体験”を残すな。人は近道を覚える。
・夜の味方はルール。就寝固定で翌日の戦闘力が上がる。