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第3話 森は眠り、獣は夢を食う

 屋形船しおさいは、川へ乗り換えると性格が変わった。

 海では跳ねる子だったのに、川では慎重な書記みたいに行間を読む。葦が擦れる音、翡翠かわせみの鳴き声、遠くの滝の低音。水面は鏡ほど静かじゃないが、鏡より正直だ。


「潮は嘘をつかない。川もね」

 セイラがともで舵を軽く押す。「森へ行くなら、まず眠りの具合を見るのが礼儀。森は眠って、朝に起きる。でも今は——」


「眠れてない」

 堤の向こうから、同じ顔色の村人が三人連れで手を振った。眼の下に濃い影。言葉が継げないほどの睡眠不足は、声に砂を混ぜる。


夜獣やじゅうだ」

 神官が先に説明した通り、森のほうから夜ごと降りてきて、眠りを食う。寝つけない。眠りに落ちても、夢の手前で引き戻される。結果、村は判断を誤る。薪小屋に火をつけかけた者もいたらしい。


「足跡は?」

「ない」

「匂いは?」

「ない。……眠い匂いだけが濃い」


 眠い匂い。目を閉じると、鼻の奥に湿った土と、落葉の甘い発酵の匂いが立ち上がる。脳が一瞬、まどろみに落ちかけ——俺は頬を叩いた。

 距離計が耳の奥で鳴る。


——ピ。

〈旧パーティ中心からの距離=22.8km〉

〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1〉


 十分、離れてる。けれど、眠気は距離の外から来るタイプだ。能力とは別線。つまり、ルールの違う戦い。


「レオン、わたしが守れるのは水際まで」

 セイラが正直に言う。「森の奥は、フリューの領分。彼女は慎重で、試す。正面からお願いしても、首を縦に振らないかもしれない」


「じゃあ、結果を先に置く」

 俺は屋形船から縄梯子を下ろした。「眠りは戻せる。遠ざけてから」



 村長の納屋を借りた。床に粉砂糖みたいな白い粉が撒かれている。「寝ないための粉」と呼ばれていた。薄荷と灰を混ぜた匂いが鼻を刺す。

 俺はそれを外へ履き出させた。


「寝ないための工夫は、寝る場所に置かないでください」

「え、でも——」

「眠りを食うやつ相手なら、眠りをここで発生させてはいけない。遠くで発生させる」


 港でやったことの森バージョンだ。近くを空にし、遠くで爆発させる。

 村の地図を借りて、俺は赤い線で**“眠りの誘導路”**を描く。川沿いの低地を通り、朽ちかけの猟師小屋へ。そこに古いベッドがあるという。良い。餌にする。


「三つの仕掛けを置く。一つ目は匂い、二つ目は音、三つ目は温度。眠りは快適の合成物だ。獣は合成物が好きだ」


「匂いは何を」

温乳ぬるちちと蜂蜜。ミルク粥を炊く。油は使わない。音は子守唄。温度は火じゃない、湯気」

 湯気は音もしないし、光も少ない。夜獣に見つからない。


 女たちが台所を貸してくれた。大鍋に牛乳と砕いた麦。蜂蜜を少し。塩を一つまみ。指の腹で粘度を確かめ、火から降ろす。

 セイラが小声で笑う。「台所から始まる戦争、二日連続」

「平和なまま勝てるなら、それが一番だ」


 子守唄は、録音がない世界だから生歌だ。村の婆さまが唄えるものを三曲選び、交互に歌ってもらう。声が枯れたら若い男が歌う。歌は共同体の技術だ。


「温度は?」

「屋形船の湯を運ぶ。ポットを四つ。夜じゅう湯気を出し続ける」

 セイラがしゅっと指を弾くと、舟の釜から湯が静かに沸いて、銅のポットに移る。「配管の神を呼ぶほどじゃないけど、これくらいは」


 準備が整ったころには、森が夜の色へ変わり始めていた。

 俺は一本、太いロープを肩に担ぐ。「猟師小屋まで遠回りで行く。距離を稼ぎつつ、誘導路を撒く」

「わたしは川面から見てる。落ちると冷たいからね」

「落ちない」


——ピ、ピ。

〈+34%〉〈+36%〉


 村の灯りから遠ざかるたび、頭が冴える。眠りの匂いが濃い方向と薄い方向が、肌の表面温度みたいにわかる。薄いほうを近場に、濃いほうを遠場に集めるのが目的だ。

 誘導路の角に、ミルク粥の匂い袋を吊るす。袋には極小の穴。湯気のポットを石の陰に置く。子守唄は、棒の先につけた共鳴箱が風に揺れて、ほのかに鳴るよう工夫した。


 猟師小屋に入る。古いベッド、古い毛布。寝るための道具がちゃんとある。良い餌場だ。

 部屋の中央に縄を張り、俺は寝たふりの準備をした。


「セイラ、聞こえる?」

「聞こえる。眠気が来たら、ひと口だけ海の匂いを送るから、目を覚まして」

「甘やかしは一口までか」

「それで起きられるなら、二口」


 笑って、目を閉じる。耳が森に溶ける。

 虫の足音、梢の調律。遠くのフクロウの低音。

 そこに、擦れる音が混じった。


 ——床板の鳴りではない。夢の床が軋む音。

 喉の奥の呼吸がすっと浅くなる。眠りに落ちる手前、落差のない滑空。

 そこへ、冷たい舌が這う感覚が来た。


「来た」

 目を開けず、心だけで呟く。

 夜獣は姿を持たない。眠りの導線ルートを嗅ぎ、そこに舌を伸ばして、寝入りばなを舐め取る。

 舐められた“寝入り”は、もう生えてこない。人はいつまでも寝付けない。


 なら、遠くで舐めさせればいい。

 俺は寝返りを打って、誘導路に背中を合わせる。眠りの導線をわざと長距離にする。

——ピ。

〈+37%〉

 頭の奥の針が、さらに軽くなる。夜獣の舌が遠くに伸びたのがわかる。

 その瞬間、縄を引いた。


 ばさり。

 天井の梁から下げておいた樹脂袋が落ちる。火は使っていない。袋が割れて、松の樹脂と乾いたハーブが温い湯気で一斉に香る。

 眠りを深める匂いと眠りを遠ざける匂い。二つを遠くで混ぜた。

 夜獣の舌がもつれる。混ぜものが好きでも、混ぜ方に癖があるやつは、遠い場所で絡まるとほどきにくい。


「今だ」


 目を開ける。縄を引ききる。

 共鳴箱が連動して低い子守唄を鳴らす。婆さまたちの歌声を薄く重ねたものだ。

 眠りは合成物。音が第三の材料になると、舌がさらに遠くへ伸びる。

 そこへ俺は、ベッドをズラした。寝入りの導線が空を切る。

 夜獣が手前で空振り、遠くで自滅。

 体感だが、森の空気の静電気が一つ抜けた。


「レオン」

 セイラの声が耳の奥を撫でる。「今、村で寝息が増えた」

「よし」

「でも、森が怒ってる」


 怒る?

 扉が外から叩かれた。

 じゃない。扉の木目が、内側から目になった。

 女の声が、木の繊維を震わせて入ってくる。


「人の子。森を勝手に動かすな」


 冷たくて、正しい声。

 俺は姿勢を正す。「森神フリューか」

 答えはない。でも、木目の目が細くなる。

「眠りを遠ざけた。やり方はわかる。が、森に傷をつけていないか」


「火は使っていない。匂いは風下。夜明けに湯で流す。導線は川沿いで回収する」

「理屈は立つ」

 木の目が、わずかに緩んだ。「だが、人は理屈を置き忘れる」


「じゃあ、結果を見てくれ」

 俺は小屋を出る。夜の森は、さっきより少しだけ暗い。暗いのは、光が悪いんじゃない。眠りが戻って、影が濃くなったのだ。

 村の家の窓から、寝息のリズムが薄く漏れる。人の群れの拍動。

 フリューの声が、低くなった。「…………確かに、戻っている」


「遠くで混ぜたから。近くはからのまま。ここで寝ると癖がつくから」

「おまえの癖は、遠ざけることだな」

「遠回りの最短ってやつだ」

「言葉遊びが好きな人の子」


 ほのかに、葉ずれの笑い。

 屋形船の影からセイラが顔を出し、ひそひそ声で「ね、甘いって言ったでしょ」。俺は咳払いでごまかす。


「森神。正式に助力をお願いしたい。村の眠りを安定化させる結界が欲しい。ただ、近場で強くするんじゃなく、外輪に厚くしてほしい。眠りを遠くで育てて、近くに露だけ落とすやり方で」


 間。

 木々が、根から枝へと何かを相談している気配。森の決議は速くないが、遅くもない。

 やがて、空気がやわらぐ。

「条件がある」

「聞く」

「一本、折れた若木を植え直せ。おまえの手で。遠くではなく、ここで」


 近場でやる作業もある。うなずく。

 倒れかけの若木を支柱で立て直す。根をほぐす。土を戻す。水をやる。生活の手は、祈りの手に近い。

 指の腹に土の冷たさ。眠気が、今度は心地よいほうのベクトルでやってくる。

「いい手だ」

 フリューの声が、木肌を通ってすぐそばに聞こえた。「同居の相談は、その手が決める」


「ちょ、順番制は?」セイラが慌てて割り込む。

「森は順番を嫌わない。季節が順番だから」

「海は潮が順番」

 二柱の女神がさらっと世界を運用していて、俺は笑いを飲み込んだ。幸せな混乱だ。


「結界は外輪に張る。おまえの言う外側の眠りから、中へ露が落ちるように」

 森が呼吸した。梢が一斉に鳴り、夜の色がさらに深く美しくなる。村の家々の屋根が、露でしっとりと潤った。

 遠くで、子どもが寝返りを打って、もっと深く寝た。


「ありがとう」

「礼は要らない」

 フリューは現れない。けれど、声が少し近い。「おまえは、遠くで勝つ。だが時々、ここで手を使え」


「肝に銘じる」

「では、加護を少し。再生結界Lv1。傷が浅いうちに治る」


 背中の骨の一本一本に、樹液が染みわたるみたいな感覚。

 セイラが「潮運と相性がいいわ。遠くへ行って、帰る確率が上がる」と満足そうに頷く。



 村はその夜、眠った。

 翌朝、笑っている顔の数で成果がわかった。パンを焼く匂い、薪の音、朝の音階。

 昼に簡単な祝祭が開かれ、蜂蜜入りの粥がまた配られた。今度は起きて食べる粥として。

 村長が頭を下げ、「ここに泊ってくれ」と言う。

「泊りたいが、俺は遠ざかる。距離が、俺の燃料だから」

 軽口に笑いが返る。笑いは強い。村はもう、大丈夫だ。


 帰り支度をしていると、旧パーティの神官がまた現れた。今度は顔色が昨夜よりマシ。

「レオン……ありがとう。村は救われた。あいつらは今、北の峠で足を止めてる。君の距離がある限りは、すぐには来ない」


「そのうち来るよ。十キロはいつか踏み越える。その日用の設計は、こっちでも進める」

 神官はうなずき、それから言いにくそうに続けた。「……リーダーは、怒ってる。君が**“遠くで勝った”のが気に入らない」

「近くで勝てる相手じゃないさ」

 俺は肩をすくめて笑った。「だから遠ざかる**」


 見送る人々に手を振り、屋形船に戻る。

 船べりに、影が立っていた。

 森神フリュー。

 姿を持つと、森の影そのものが人の形になったみたいだ。深い緑の髪、鹿角のような細い飾り。瞳は苔の色。

 彼女は無言で小さな包みを差し出す。

「乾いた夢。夜獣の舌を絡める用。次の土地で」

「助かる」

「それと、同居は保留。季節の巡りで決める」

「つまり——」

「今週は海、来週は森」

 セイラが即座に勝ち誇る。「やっぱり週替わり当番制!」

 俺は頭を抱えた。「堂々と公認される未来が見える……!」


 フリューの口元が、ほんの少し柔らいだ。

「笑うな。森は真面目だ」

「真面目なのに甘い」セイラが小声でちゃかす。

「海はうるさい」

 言い合いに見せかけて、二柱の温度は並んでいる。この並び、たぶん最強だ。


「じゃ、出すぞ。星の荒野へ」

 舟が首を振る。川面が光を割る。

 遠ざかるたび、胸の針が軽くなる。

 森の端で、フリューが指先だけ振った。

 セイラが頬杖をついて、俺の横顔を覗く。「三人目に会う準備、できてる?」

「睡眠最適化は助かる。夜神は味方に回す」

「味方に回して、求婚される未来も見える」

「それは季節と潮が決める」


 空は昼の青を薄め、星砂の気配が遠景をきらめかせる。

 耳の奥で、計器が小さく鳴った。


——ピ。

〈本日の最長離隔:41.6km〉

〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1〉

〈更新:乾いた夢×3/目的地:星砂の荒野(夜神ノクナの領分)〉


 遠くへ。もっと。

 遠回りの最短で、夜の神に会いに行く。


距離メモ:

・眠りは“匂い×音×温度”の合成物。近場で作るな、遠場で作れ。

・夜獣には“空振り”を与える。導線をズラし、遠くで絡ませる。

・森神の結界は“外輪厚め→中に露”。近場は空を保つ。

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