第3話 森は眠り、獣は夢を食う
屋形船は、川へ乗り換えると性格が変わった。
海では跳ねる子だったのに、川では慎重な書記みたいに行間を読む。葦が擦れる音、翡翠の鳴き声、遠くの滝の低音。水面は鏡ほど静かじゃないが、鏡より正直だ。
「潮は嘘をつかない。川もね」
セイラが艫で舵を軽く押す。「森へ行くなら、まず眠りの具合を見るのが礼儀。森は眠って、朝に起きる。でも今は——」
「眠れてない」
堤の向こうから、同じ顔色の村人が三人連れで手を振った。眼の下に濃い影。言葉が継げないほどの睡眠不足は、声に砂を混ぜる。
「夜獣だ」
神官が先に説明した通り、森のほうから夜ごと降りてきて、眠りを食う。寝つけない。眠りに落ちても、夢の手前で引き戻される。結果、村は判断を誤る。薪小屋に火をつけかけた者もいたらしい。
「足跡は?」
「ない」
「匂いは?」
「ない。……眠い匂いだけが濃い」
眠い匂い。目を閉じると、鼻の奥に湿った土と、落葉の甘い発酵の匂いが立ち上がる。脳が一瞬、まどろみに落ちかけ——俺は頬を叩いた。
距離計が耳の奥で鳴る。
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=22.8km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1〉
十分、離れてる。けれど、眠気は距離の外から来るタイプだ。能力とは別線。つまり、ルールの違う戦い。
「レオン、わたしが守れるのは水際まで」
セイラが正直に言う。「森の奥は、フリューの領分。彼女は慎重で、試す。正面からお願いしても、首を縦に振らないかもしれない」
「じゃあ、結果を先に置く」
俺は屋形船から縄梯子を下ろした。「眠りは戻せる。遠ざけてから」
◇
村長の納屋を借りた。床に粉砂糖みたいな白い粉が撒かれている。「寝ないための粉」と呼ばれていた。薄荷と灰を混ぜた匂いが鼻を刺す。
俺はそれを外へ履き出させた。
「寝ないための工夫は、寝る場所に置かないでください」
「え、でも——」
「眠りを食うやつ相手なら、眠りをここで発生させてはいけない。遠くで発生させる」
港でやったことの森バージョンだ。近くを空にし、遠くで爆発させる。
村の地図を借りて、俺は赤い線で**“眠りの誘導路”**を描く。川沿いの低地を通り、朽ちかけの猟師小屋へ。そこに古いベッドがあるという。良い。餌にする。
「三つの仕掛けを置く。一つ目は匂い、二つ目は音、三つ目は温度。眠りは快適の合成物だ。獣は合成物が好きだ」
「匂いは何を」
「温乳と蜂蜜。ミルク粥を炊く。油は使わない。音は子守唄。温度は火じゃない、湯気」
湯気は音もしないし、光も少ない。夜獣に見つからない。
女たちが台所を貸してくれた。大鍋に牛乳と砕いた麦。蜂蜜を少し。塩を一つまみ。指の腹で粘度を確かめ、火から降ろす。
セイラが小声で笑う。「台所から始まる戦争、二日連続」
「平和なまま勝てるなら、それが一番だ」
子守唄は、録音がない世界だから生歌だ。村の婆さまが唄えるものを三曲選び、交互に歌ってもらう。声が枯れたら若い男が歌う。歌は共同体の技術だ。
「温度は?」
「屋形船の湯を運ぶ。ポットを四つ。夜じゅう湯気を出し続ける」
セイラがしゅっと指を弾くと、舟の釜から湯が静かに沸いて、銅のポットに移る。「配管の神を呼ぶほどじゃないけど、これくらいは」
準備が整ったころには、森が夜の色へ変わり始めていた。
俺は一本、太いロープを肩に担ぐ。「猟師小屋まで遠回りで行く。距離を稼ぎつつ、誘導路を撒く」
「わたしは川面から見てる。落ちると冷たいからね」
「落ちない」
——ピ、ピ。
〈+34%〉〈+36%〉
村の灯りから遠ざかるたび、頭が冴える。眠りの匂いが濃い方向と薄い方向が、肌の表面温度みたいにわかる。薄いほうを近場に、濃いほうを遠場に集めるのが目的だ。
誘導路の角に、ミルク粥の匂い袋を吊るす。袋には極小の穴。湯気のポットを石の陰に置く。子守唄は、棒の先につけた共鳴箱が風に揺れて、ほのかに鳴るよう工夫した。
猟師小屋に入る。古いベッド、古い毛布。寝るための道具がちゃんとある。良い餌場だ。
部屋の中央に縄を張り、俺は寝たふりの準備をした。
「セイラ、聞こえる?」
「聞こえる。眠気が来たら、ひと口だけ海の匂いを送るから、目を覚まして」
「甘やかしは一口までか」
「それで起きられるなら、二口」
笑って、目を閉じる。耳が森に溶ける。
虫の足音、梢の調律。遠くのフクロウの低音。
そこに、擦れる音が混じった。
——床板の鳴りではない。夢の床が軋む音。
喉の奥の呼吸がすっと浅くなる。眠りに落ちる手前、落差のない滑空。
そこへ、冷たい舌が這う感覚が来た。
「来た」
目を開けず、心だけで呟く。
夜獣は姿を持たない。眠りの導線を嗅ぎ、そこに舌を伸ばして、寝入りばなを舐め取る。
舐められた“寝入り”は、もう生えてこない。人はいつまでも寝付けない。
なら、遠くで舐めさせればいい。
俺は寝返りを打って、誘導路に背中を合わせる。眠りの導線をわざと長距離にする。
——ピ。
〈+37%〉
頭の奥の針が、さらに軽くなる。夜獣の舌が遠くに伸びたのがわかる。
その瞬間、縄を引いた。
ばさり。
天井の梁から下げておいた樹脂袋が落ちる。火は使っていない。袋が割れて、松の樹脂と乾いたハーブが温い湯気で一斉に香る。
眠りを深める匂いと眠りを遠ざける匂い。二つを遠くで混ぜた。
夜獣の舌がもつれる。混ぜものが好きでも、混ぜ方に癖があるやつは、遠い場所で絡まるとほどきにくい。
「今だ」
目を開ける。縄を引ききる。
共鳴箱が連動して低い子守唄を鳴らす。婆さまたちの歌声を薄く重ねたものだ。
眠りは合成物。音が第三の材料になると、舌がさらに遠くへ伸びる。
そこへ俺は、ベッドをズラした。寝入りの導線が空を切る。
夜獣が手前で空振り、遠くで自滅。
体感だが、森の空気の静電気が一つ抜けた。
「レオン」
セイラの声が耳の奥を撫でる。「今、村で寝息が増えた」
「よし」
「でも、森が怒ってる」
怒る?
扉が外から叩かれた。
じゃない。扉の木目が、内側から目になった。
女の声が、木の繊維を震わせて入ってくる。
「人の子。森を勝手に動かすな」
冷たくて、正しい声。
俺は姿勢を正す。「森神フリューか」
答えはない。でも、木目の目が細くなる。
「眠りを遠ざけた。やり方はわかる。が、森に傷をつけていないか」
「火は使っていない。匂いは風下。夜明けに湯で流す。導線は川沿いで回収する」
「理屈は立つ」
木の目が、わずかに緩んだ。「だが、人は理屈を置き忘れる」
「じゃあ、結果を見てくれ」
俺は小屋を出る。夜の森は、さっきより少しだけ暗い。暗いのは、光が悪いんじゃない。眠りが戻って、影が濃くなったのだ。
村の家の窓から、寝息のリズムが薄く漏れる。人の群れの拍動。
フリューの声が、低くなった。「…………確かに、戻っている」
「遠くで混ぜたから。近くは空のまま。ここで寝ると癖がつくから」
「おまえの癖は、遠ざけることだな」
「遠回りの最短ってやつだ」
「言葉遊びが好きな人の子」
ほのかに、葉ずれの笑い。
屋形船の影からセイラが顔を出し、ひそひそ声で「ね、甘いって言ったでしょ」。俺は咳払いでごまかす。
「森神。正式に助力をお願いしたい。村の眠りを安定化させる結界が欲しい。ただ、近場で強くするんじゃなく、外輪に厚くしてほしい。眠りを遠くで育てて、近くに露だけ落とすやり方で」
間。
木々が、根から枝へと何かを相談している気配。森の決議は速くないが、遅くもない。
やがて、空気がやわらぐ。
「条件がある」
「聞く」
「一本、折れた若木を植え直せ。おまえの手で。遠くではなく、ここで」
近場でやる作業もある。うなずく。
倒れかけの若木を支柱で立て直す。根をほぐす。土を戻す。水をやる。生活の手は、祈りの手に近い。
指の腹に土の冷たさ。眠気が、今度は心地よいほうのベクトルでやってくる。
「いい手だ」
フリューの声が、木肌を通ってすぐそばに聞こえた。「同居の相談は、その手が決める」
「ちょ、順番制は?」セイラが慌てて割り込む。
「森は順番を嫌わない。季節が順番だから」
「海は潮が順番」
二柱の女神がさらっと世界を運用していて、俺は笑いを飲み込んだ。幸せな混乱だ。
「結界は外輪に張る。おまえの言う外側の眠りから、中へ露が落ちるように」
森が呼吸した。梢が一斉に鳴り、夜の色がさらに深く美しくなる。村の家々の屋根が、露でしっとりと潤った。
遠くで、子どもが寝返りを打って、もっと深く寝た。
「ありがとう」
「礼は要らない」
フリューは現れない。けれど、声が少し近い。「おまえは、遠くで勝つ。だが時々、ここで手を使え」
「肝に銘じる」
「では、加護を少し。再生結界Lv1。傷が浅いうちに治る」
背中の骨の一本一本に、樹液が染みわたるみたいな感覚。
セイラが「潮運と相性がいいわ。遠くへ行って、帰る確率が上がる」と満足そうに頷く。
◇
村はその夜、眠った。
翌朝、笑っている顔の数で成果がわかった。パンを焼く匂い、薪の音、朝の音階。
昼に簡単な祝祭が開かれ、蜂蜜入りの粥がまた配られた。今度は起きて食べる粥として。
村長が頭を下げ、「ここに泊ってくれ」と言う。
「泊りたいが、俺は遠ざかる。距離が、俺の燃料だから」
軽口に笑いが返る。笑いは強い。村はもう、大丈夫だ。
帰り支度をしていると、旧パーティの神官がまた現れた。今度は顔色が昨夜よりマシ。
「レオン……ありがとう。村は救われた。あいつらは今、北の峠で足を止めてる。君の距離がある限りは、すぐには来ない」
「そのうち来るよ。十キロはいつか踏み越える。その日用の設計は、こっちでも進める」
神官はうなずき、それから言いにくそうに続けた。「……リーダーは、怒ってる。君が**“遠くで勝った”のが気に入らない」
「近くで勝てる相手じゃないさ」
俺は肩をすくめて笑った。「だから遠ざかる**」
見送る人々に手を振り、屋形船に戻る。
船べりに、影が立っていた。
森神フリュー。
姿を持つと、森の影そのものが人の形になったみたいだ。深い緑の髪、鹿角のような細い飾り。瞳は苔の色。
彼女は無言で小さな包みを差し出す。
「乾いた夢。夜獣の舌を絡める用。次の土地で」
「助かる」
「それと、同居は保留。季節の巡りで決める」
「つまり——」
「今週は海、来週は森」
セイラが即座に勝ち誇る。「やっぱり週替わり当番制!」
俺は頭を抱えた。「堂々と公認される未来が見える……!」
フリューの口元が、ほんの少し柔らいだ。
「笑うな。森は真面目だ」
「真面目なのに甘い」セイラが小声でちゃかす。
「海はうるさい」
言い合いに見せかけて、二柱の温度は並んでいる。この並び、たぶん最強だ。
「じゃ、出すぞ。星の荒野へ」
舟が首を振る。川面が光を割る。
遠ざかるたび、胸の針が軽くなる。
森の端で、フリューが指先だけ振った。
セイラが頬杖をついて、俺の横顔を覗く。「三人目に会う準備、できてる?」
「睡眠最適化は助かる。夜神は味方に回す」
「味方に回して、求婚される未来も見える」
「それは季節と潮が決める」
空は昼の青を薄め、星砂の気配が遠景をきらめかせる。
耳の奥で、計器が小さく鳴った。
——ピ。
〈本日の最長離隔:41.6km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1〉
〈更新:乾いた夢×3/目的地:星砂の荒野(夜神ノクナの領分)〉
遠くへ。もっと。
遠回りの最短で、夜の神に会いに行く。
距離メモ:
・眠りは“匂い×音×温度”の合成物。近場で作るな、遠場で作れ。
・夜獣には“空振り”を与える。導線をズラし、遠くで絡ませる。
・森神の結界は“外輪厚め→中に露”。近場は空を保つ。