第2話 半径十キロの檻
港の歓声が引いて、現実の足音が近づいてくる。
城門の合図——遠征帰還+緊急招集。嫌な組み合わせだ。
「レオン、顔が少しだけ固い」
海神セイラが横目で笑う。「でも大丈夫。波は逃げるより、うまくいなすと強い」
「逃げじゃない。距離を稼ぐだけだ」
言い切った瞬間、耳の奥であの電子音が鳴る。
——ピ。
〈システムメモ:旧パーティ中心からの距離=9.7km〉
〈警告:近接減衰域(10km)に接近中〉
来たか。早い。あの連中の脚の速さだけは信用できる。
「セイラ、近接デバフが切れると戦えない。いったん港を――」
「ううん、港は動かさない。君を動かすの」
女神は指先で空をなぞる。
海面に淡い光の道が走った。波が一瞬だけ凪ぎ、沖へまっすぐ続く潮の歩道が出現する。
「神域の《潮路》よ。人ひとり分、十数分だけ。遠ざかりたい方向へ、最短の遠回りを」
「名前が矛盾してる」
「気持ちいいでしょ?」
気持ちいいかはさておき、ありがたい。俺は頷き、旗ざおを背に括り付けた。
「港長、潮路を使って北の見張り岩まで行きます。三分で戻る」
「三分で沖に!? 足、どうなってんだあんた!」
「最新式の距離駆動です」
跳び出す。
足裏に、波面の弾力。沈まない。潮の歩道は細く、揺れながらもまっすぐ続いている。海鳥が驚いて飛び立ち、陽光が水銀の破片みたいに跳ねた。
——ピ、ピ、ピ。
〈+27%〉〈+30%〉〈+31%〉
数値が伸びるたび、肺が軽くなる。遠ざかるって、こんなに気分がいいのか。
北の見張り岩に跳び乗る。港が模型みたいに小さく見えた。
「よし、10.4km。ここで離隔ロック」
岩に立つ俺の足元から、目に見えない輪が海へ広がる感覚。旧パーティがそこへ踏み込まない限り、俺の数値は維持される。
「で、来客の確認だ」
望遠鏡の代わりに、セイラが空を撫でる。視界がズームインし、城門の外に見慣れた顔が映る。
元リーダーの剣士、硬い笑顔の神官、万能気取りの弓手。
お帰りなさい、俺を追ってくる理由の皆さん。
「レオン、彼ら、港を盾に交渉するつもり」
「わかる。『協力しないと港が困るぞ』ってやつだ」
俺は肩を回す。数値の伸びと一緒に、頭のギアも噛み合っていく。
「なら、困る前に困らせる」
◇
港の目抜き通り。先頭に立つリーダーが、わざと大きな声を張った。
「君がいないと困る。戻ってこい、レオン。港の安全のためにもだ」
都合のいい言葉の三連コンボ。懐かしい、というか胸焼けがする。
代わりに港長が前に出た。「うちはすでに潮見係を雇った。神推しだ」
「神推し?」
「神様が推してるって意味だよ」俺は堤防の上から声を落とす。「で、俺は距離の都合で戻れない。代案を出す」
「代案?」
「君らを遠ざける。十キロの外まで」
弓手が鼻で笑った。「冗談だろ。俺たちが何で――」
合図旗を振る。
堤防の蔭から、一斉に小舟が飛び出す。先ほど黒帆を誘導したチームだ。
小舟たちは旧パーティの真逆方向へ走り、わざと荷物をアピールして海賊の残党を引き連れた。港に被害が及ぶ前に、遠方へと課題を運ぶ。
「は?」神官が固まる。「君、港を囮に!? 危険だろう!」
「危険は遠くで起こす。近場で爆発させるのが一番危ない」
俺は旗で最後の角度を示し、潮の向きを読む。「君らの仕事は遠くに行って戦うことだ。俺の仕事は近くを空にすること。分業しよう」
数字が伸びる。
——ピ。
〈+33%〉
リーダーの顔から笑みが消えた。理解したのだ。俺が同じ盤面で殴り合うつもりはないと。
彼は苦く言った。「……相変わらず、言い訳だけは得意だな」
「言い訳の定義、間違ってる。**設計**って言うんだ、これ」
彼らが動いた。結果的に、港から遠ざかった。
よし、第一段階クリア。
「セイラ、潮路の維持を少し延長してくれ。俺、もう一つやる」
「追加料金は同居の検討よ?」
「サブスクリプション重いな!」
港の笑いが軽く弾ける。空気の重さが一段下がったのを、体で感じた。笑いは強い。近接デバフも、空気が軽いと刺さりにくい。
◇
午後。
沖に連れていかれた海賊の残党が、暗礁迷路で足止めを食らっている。港は無傷。旧パーティは北へ追い、港から十キロ圏外へ。数値は安定のプラス圏。
「作戦、完了。港は当面安全だ」
「レオン」
背後から涼しい声。振り向けば、波の粒子からセイラが形を取る。海は自由だ。女神も自由だ。
「君、森の匂いに反応してる」
「森?」
「北東から、風が一本。再生の匂い。多分、森神フリューがご機嫌ななめ」
セイラが肩をすくめる。「木々が泣くと、川も泣く。海もね」
森。再生。
距離の計器が、わずかにさらに遠くを指した気がした。
「行きたい」
言葉が一歩先に出る。セイラが笑う。「そう言うと思った。じゃ、移動式ハウスを用意しましょう。神域の屋形船。潮を辿れば川へ、川を遡れば森へ行ける」
「屋形船でハーレムって、悪い響きだな」
「悪いと思うなら、健全に使えばいいの」
女神はさらりと言う。「順番制、港で決めたでしょ?」
「決めてない!」
「じゃあ、森で決めましょ」
そんな軽口を叩いていると、港の子ども——午前に助けた少年が、ぎこちない敬礼をしに来た。
「お兄ちゃん、ありがとう」
「また泳ぐなら、浮き輪持ってけ」
「泳がない!」
母親の視線が刺さって、少年は真っ赤になる。港は平和だ。
「レオン、出航は今夜の干潮がベスト。風向きは北東、追い風」
「了解。準備する。港長、船を一艘――」
「貸すどころか、町の総力で仕立てるさ!」港長が胸を叩いた。「潮見係が遠くで戦ってくれるなら、近くは俺らが守る。分業だろ?」
いい港だ。
俺は深く一礼する。潮の匂いが胸に落ち、体の針がまた少し軽くなった。
——ピ。
〈本日の最長離隔:14.2km〉
〈加護:セイラの潮運Lv1/疲労回復Lv1〉
〈更新:屋形船整備中〉
◇
夕暮れ。
港の端、波止場に並ぶ提灯。神域仕様の屋形船は、木肌がほんのり光を帯びて、波間に浮かぶ小さな家みたいだ。甲板に小さな台所、干し網、潮位計。まるで旅する家政屋根。
「いい家だ」
「褒め言葉として受け取るわ」
セイラが袖をまくって、軽やかに鍋を揺らす。あたりに魚の香り。港の人たちが差し入れしてくれた干物と野菜。
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝る。生活が先、戦いは後。これが海の基本」
「森も、そうだといいな」
「フリューは厳しいけど、甘いわ。芯はね」
食べて、片付けて、出航準備。
夜風が潮を撫で、港の灯りが点々と遠ざかる未来を想像させる。
すると、堤防の向こうに見覚えの影が現れた。
旧パーティの神官だ。単身、手ぶら。距離計がぴくりと震える。
——ピ。
〈距離=10.1km〉
ギリギリ、境界外。
彼は風にかき消されそうな声で言った。「レオン。……助けてくれ。あれは、無理だ」
あれ?
港長が眉をひそめる。「何が来る」
神官の顔は本気で青い。
「夜獣。森から降りてきた。眠りを食うやつだ。村が……眠れない」
眠りを食う。胸の中で何かがつながる。
夜、眠り、夢路。
遠い星の音が、耳の奥でかすかに鳴った気がした。
「セイラ」
「うん。これは森と夜の領分。次の章の扉が、今、開いた」
屋形船が、波間で静かに身じろぎした。
遠くへ行くほど、俺は強い。
そして、遠くには——まだ会っていない誰かが待っている。
「出すぞ。遠ざかる最短で、森へ」
帆が上がる。潮路が伸びる。
港の灯りが離れていくたび、胸の針が軽くなる。
遠ざかれ。もっと。
その先で、二人目の女神に会うために。