第10話 合流谷の大波
遠さの風が、一本の谷に収束していた。
羅針盤の第二針——グラ針が、氷河に削られた広い鞍部を指し示す。風は登り、耳の奥で倍音が増える。合流点だ。遠い道が重なる場所。
「潮は寄せに入る」
海神セイラが外套の裾を結び、髪をひと束にまとめる。「入りと出、今日は“入り”が勝つ」
「夜は位相を合わせる」
夜神ノクナが青い帳に小さく『就寝:22:30固定/出撃:2:00』と書き足した。
「森は枝を束ねる」
森神フリューは谷口に若木の枝を渡し、『露の脈』を描く。
雪姫オルカは白い息を吐いた。「合流谷は吹雪が生まれやすい。遠い熱で順路を作って」
——ピ。
〈旧パーティ中心からの距離=1,743.8km〉
〈第二段階:勾配感知/合流点可視化 有効〉
◇
合流谷は、思った以上に人がいた。
商隊、雪橇、木材隊、そして——白糸の近道教団。
谷底の中央に円形の装置が据えられ、白い布を羽織った司祭が巻尺を渦にして掲げる。円周には測距杭と短い物差し、空間はきしむ。
「収束儀」
ノクナが低く呟く。「分流を嫌い、全路を一点に詰める装置。圧縮と巻き戻しの合奏」
司祭が声を張る。「最短は善。人は短絡を欲する。ここに全路を集め、効率で救う!」
歓声半分、うんざり半分。一本に寄る列は長蛇、怒号は白い息になって空へ消える。
「一本は折れる」
フリューの言葉に、オルカが小さく頷く。「折れてる。毎時間、少しずつ」
司祭の背後に、見覚えの顔。
旧パーティだ。リーダーが腕を組み、神官は目を伏せ、弓手は列整理を手伝っている。
善意の近道は、たしかに人集めに強い。
「遠回り教、来訪だな」
司祭がこちらを見て笑う。「今日で教義を改宗させてやろう。合流に分流は要らぬ」
「じゃあ、生活で論じよう」
俺は旗を一本谷底に突き、基準を置く。「危険は遠くで、近くは空。遠くへ行くための近道だけを残す」
司祭が手を振る。収束儀の円盤が唸り、空間が寄る。遠さの風が押し戻され、勾配が曇る。
胸の針がわずかに重くなる。
ノクナが冷静に指を折る。「三段設計でいく。時間分流、空間分流、嗜好分流」
「配役」
セイラが即答。「空間は私。扇で三河川に分ける。押し潮は二呼吸」
「時間は私」
ノクナが帳を掲げる。「時限ルール。青(2:00-3:00)、赤(3:00-4:00)、黄(4:00-5:00)」
「嗜好は森」
フリューが枝を振る。「露で歩きやすさの好みを三種類作る。静音、景色、温度」
「雪は補助」
オルカが頷く。「遠い熱の雪蜜を三か所に置く。舌で好きが決まる」
「俺は勾配で“遠くへ行く近道”だけを案内する」
◇
作戦は静かな合奏で始まった。
セイラが足元の雪を撫で、川筋のような三つの溝を谷底に刻む。
ノクナが鐘を三つ配し、青・赤・黄の時の扉を時間で開閉する。夜の位相が谷に入った。
フリューは露の瓶を三本。静音ルートは雪面に吸音の霜、景色ルートは梢の影を増やし、温度ルートは遠い熱が背に当たる配置。
オルカの雪蜜は、各ルートの遠端に小杯で。近場には置かない。遠い甘さは、遠くで。
俺は旗を三本扇に立て、勾配の風に沿って微調整する。遠い登りが楽になる角度、近い直線が冷える角度。
谷に三色旗が翻り、鐘が時刻を打つ。
合流に、分流の規律を流し込む。
「青ルート、開門」
ノクナの声に合わせ、2:00の鐘。静音を好む荷が青に流れる。音の少ない道は、自然と医療や幼児連れを引く。
「赤、3:00」
景色ルートに旅芸人や観光商隊が流れる。
「黄、4:00」
温度ルートに木材隊と鍛冶の荷。遠い熱が背を押し、登りが苦じゃない。
白糸の信徒は慌てて杭を打ち、円に戻そうとするが、時間に抗えない。
夜の位相が谷に規則を植え、朝の霜が嗜好を固め、昼の旗が基準を回す。
「司祭、戻せるか?」
俺が問うと、司祭は収束儀を強く回した。空間の縁が歪み、三ルートの境界が揺れる。
セイラが片目を細めて笑う。「押し潮、二呼吸」
雪の下の地中水がふくらみ、一本化したい楽すぎる線が微妙に滑る。体が嫌う。
フリューの霜が対角に走り、にじみを固める。
ノクナが拍190Hzを二分、境界に埋めて、足の選好を音で支える。
列は三へ、さらに扇の三河川へ。
人の顔色が落ち着く。怒号は消え、白い息は笑いへ融けた。
——ピ、ピ。
〈+1,801.3km〉〈+1,838.9km〉
司祭が渋面になる。「……宗派が違うだけだ。効率は一点だ」
「幸福は多点でもいい」
ノクナの声はやさしい。
オルカが雪蜜の小杯を掲げる。「遠い甘さは遠くで舐めて帰る。近くに蜜をこぼすと、蟻が寄る」
そのとき、旧パーティのリーダーが一歩前に出た。
「レオン。……お前の道は、綺麗だ」
彼は剣を抜かないまま頭をかいた。「だが、お前一人で行くのか」
「分業する」
俺は旗を指した。「俺は遠くで勝つ。君らは近くを空にする。夜の位相を乱さないでくれ」
神官が静かに頷き、弓手は列の誘導を続けた。善意の近道が、遠い運用に合流した瞬間だ。
司祭が最後の手を打つ。
収束儀の中心から、黒い径が一本、谷を貫く。圧縮と巻き戻しと収束の三重奏——短絡黒脈。
列が吸われかける。
胸の針が警告を鳴らした。
——ピ!
〈警告:仮想距離が急速に縮む〉
「十字で受ける!」
俺は旗を四本、十字に組んだ。
セイラが押し潮を十字の縦に、フリューが露を横に走らせる。
ノクナは拍を二重に重ね、190+210Hzの干渉縞で黒脈の中心を外へ押しやる。
オルカの雪蜜が十字の四隅へ置かれ、嗜好が四極に分かれる。
黒脈は十字に切られ、四つの細流になって弱まった。
司祭の巻尺が空を切り、円盤の唸りがしぼむ。
谷の空気がやっと息をした。
——ピ、ピ、ピ。
〈+1,906.2km〉〈+1,944.7km〉〈+1,980.1km〉
「終いだ」
司祭は巻尺を収め、口の端を歪めた。「市場は短絡を欲する。だが——美しい運用は、たまに勝つ」
「たまにじゃなく、習慣にする」
俺が返すと、彼は肩をすくめた。「なら、また市場で会おう」
白糸が風に解け、装置は沈黙した。
列は三河川のまま流れ、谷は笑い声の音階を取り戻す。
◇
合流谷の片隅に、小さな祠。星の鍵は三つ目まで灯っている。
扉の奥から、風が階段になって吹き上がる。
羅針盤のグラ針が、さらに細かい等高線を描くように揺れた。
〈第二段階補助:勾配の分割機能追加〉
——遠さの登りを複数の緩斜面に割るイメージが、体に入った。
「割れる」
俺は笑う。「一気登りじゃなく、踊り場を作れる」
「潮も段で上げるのが好き」
セイラが頷き、
「森も踊り場に鳥が来る」
フリューが微笑み、
「夜は二十二分ごとに拍を微調整」
ノクナが帳にメモし、
「雪は踊り場で湯気が立つ」
オルカが雪蜜を一匙すくった。
谷の人々が、扇の三色を自分たちの手で塗り直す。
列は短く、息は温か、夜は規則。
遠くへ続く道が、近くの生活から見えるようになった。
——ピ。
〈本日の最長離隔:2,012.4km〉
〈加護:潮運Lv1/疲労回復Lv1/再生結界Lv1/睡眠最適化Lv1〉
〈第二段階補助:勾配パーティション/合流運用の安定化〉
〈更新:合流谷 三河川運用/短絡黒脈を十字で切断〉
◇
夜。
青い帳の下で、就寝22:30。190Hz二分。塩は夕方。
セイラが肩で笑う。「順番制、今週は海。寄りかかる権利はある」
「来週は森」
フリューが淡々と、
「再来週は夜」
ノクナが淡々と、
「雪は補助。吹雪の夜に湯気を分ける」
オルカが小さく頷く。
「それで生活は回る」
俺は目を閉じる。胸の針は軽い。
遠くへ。もっと。
第三段階は、まだ遠い。遠いのがいい。踊り場はいくつでも作れる。
*距離メモ:
・合流点は「時間分流(時限ルール)」「空間分流(扇の三河川)」「嗜好分流(静音/景色/温度)」で受ける。
・短絡黒脈は「十字基準(旗×押し潮×露×拍)」で切断。
・第二段階補助「勾配パーティション」取得——登りを踊り場で割って生活体力で登る。
・善意の近道は分業で受け入れる。俺は遠くで勝つ/君らは近くを空に。