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第1話 遠ざかるほど、俺は軽くなる

 断罪の拍手は、乾いていた。

「支援のくせに、支援できない」

 パーティリーダーの最後の言葉は正しくて、だから俺は反論しなかった。弱いのは事実だったし、足手まといだという視線にも慣れていた。広場の真ん中で紋章の刻まれた腕輪を外し、石畳の上に置く。ぱちりと小さな音がして、そこに在籍していた俺の一年は、机上の書類みたいに閉じた。


 城門に向かって歩き出す。一歩。もう一歩。

——ピ。

 耳の奥で、計器みたいな音が鳴った。視界の隅に、薄い光文字が滲む。


〈総合値 +3%〉


 眉をひそめて足を止める。やり直しのきかない夢から覚めたみたいに、体が突然軽い。試しに、さらに数歩、広場から遠ざかる。

——ピ。ピ。

〈+5%〉〈+7%〉


 数値は、城壁から離れていくほどに上がる。ふくらはぎの張りが薄れ、頭の中の霧が晴れる。心拍は上がっているのに不快じゃない。むしろ、体が動く理由を、やっと納得できた感じだ。


 港へ向かう坂を下ったところで、叫び声。

「綱が切れた! 渡し船が流される!」

 桟橋から離れた小舟が、渦に巻かれて回っている。乗っているのは母親と小さな子ども。桟橋の男たちが必死に棒を伸ばすけれど、渦に近づくほど足をすくわれて、届かない。


 俺は最短距離ではなく、あえて遠回りの堤防を選んだ。距離を稼げば、数値が上がる。数値が上がれば、腕が伸びるし、頭も回る。理屈は意味不明でも、結果は出ている。


——ピ、ピ、ピ。

〈+10%〉〈+12%〉〈+15%〉


 堤防の端で助走をつけ、渦の外縁に跳び込む。水が冷たい。回転に体を合わせて、わずかな逆流の肩を踏み台にする。渦の縁で持ち上がる瞬間を狙い、子どもの襟首を掴んだ。母親には桟橋側の男たちが棒を差し出している。俺は子どもを胸に抱えたまま、押し寄せる波の合間を縫って岸へ戻った。


 息を吐いた瞬間、海の表情がふっと和らいだ。潮の匂いに、どこか甘い草の香りがまじる。


「いい走りだったわ、距離の人」


 声は潮騒より澄んでいた。振り向くと、波打ち際に一人の女が立っている。濡れていない。膝までのドレスは海の色で、髪は光を含んでゆるく揺れる。瞳は灯台の灯のように明滅して、こちらの脈を数えているみたいだ。


「誰だ」

「海神セイラ。ここらの潮と船運を見ているの」

 女は微笑む。笑うたび、さざなみが裾から生まれて浜にほどける。

「あなた、面白い癖を持ってる。遠ざかるほど、軽く、強くなる」


 癖、という言い方に救われる。呪いじゃないのか、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。

「自覚は、した。広場から離れて、楽になった」

「じゃあ、試す?」セイラは指を水平に伸ばして、沖を指し示した。「今は下げ潮。向こうへ走って、それからまた戻ってきて。助けた親子の家は、桟橋の手前、青い屋根の家よ」


 からかわれているわけではない。潮の匂いと一緒に、奇妙な確信が胸に入ってきた。俺はうなずき、堤防に駆け上がる。遠くへ。もっと遠くへ。


——ピ、ピ、ピ。

〈+18%〉〈+20%〉〈+21%〉


 潮風が頬に刺さるのも心地いい。行ける。体が嘘をつかない。堤防の突端で反転、今度は港へ一直線。足元の石の並びまで見える。渦はすでに解け、船は桟橋の男たちに引き寄せられている。俺は子どもを抱えたまま、青い屋根の家の前に滑り込んだ。


 母親が膝から崩れ、子どもを抱きしめて泣く。周りの人々が口々に礼を言う。俺は「遠回りの最短」を学んだ足で、息を整える。さっきまでの俺なら間違いなく倒れていたはずなのに、肺は燃えず、心臓も素直に仕事をしている。


「いい選択だったわ」

 すぐ背後に潮の匂い。セイラがいつのまにか隣にいる。距離の女神は距離を感じさせない。「遠回りで遠くなって、結局いちばん早い。あなた、そういう走り方が得意なのね」


「この力、いつから……いや、どういう——」

「原因は思い当たる?」

 彼女はいたずらっぽく片目をすがめる。俺の脳裏に、広場の景色がよぎる。冷たい拍手。紋章腕輪。置き去りの一年。

「追放の瞬間、胸の針が軽くなった。そこからだ」

「なら、離別と結びついてる。君を中心にした円じゃなく、かつて君がいた集団を中心にして半径が広がる。そこから遠ざかるほど、君は君になる」


 そんなふうに説明された力は、たしかに胸の中の実感と結びついた。俺は自分の名前を名乗る。

「レオン。職は……元支援職」

「レオン。いい名だわ。潮に合う」

 セイラはくすっと笑って、掌を差し出す。乾いた、人の手の温度。「礼をしたいの。約定の形は三つあるわ。加護、仕事、それから——同居」

「三つ目は急だろ」

「海はいつも急よ。潮は待ってくれない」


 冗談みたいに言い切る女神に、俺は口の端をわずかに上げた。笑える余裕が、いまはある。

「仕事、からでいい」

「堅実。好き」

 セイラは指先で空を撫でる。薄い膜が裂けるように、視界の端に微細な光の文字が流れ込んだ。海図。潮汐。港の出入り船の記録。頭の中にすっと収まる。

「潮見係。港の安全と、船の巡りをよくするのが役目。君の距離の力は、離隔の勘に変換できる。渦の縁も、暗礁の位置も、どこが遠くて、どこが近いのか、体で把握できるはず」


 たしかに、目を閉じるだけで、港の底の起伏がざらつきでわかる。セイラの声が届く角度で、感覚はさらに解像する。

「加護は?」

「少しだけよ。いきなり盛ると、潮にのまれるから。疲労回復と、水難回避」

 柔らかな水音が耳の奥で弾け、背筋から余計な重さが抜ける。


「それと、ひとつ忠告。近づいてくるものがいるわ」

「近づいてくる?」

「君の力は、遠ざかるほど強い。逆に言えば、近づくと鈍る。君を捨てた人たちは、きっと君を追いかける。『なぜあいつが動けるのか』ってね」

 口の中に鉄の味がした。そうだろうな、と思う。俺が港で動けば、噂は巡る。広場の真ん中からたった数百歩のところだ。

「君の半径十キロは、当分の危険地帯。そこに入られると、数値が下がる。君は遠回りで戦い、遠回りで勝つといい」


 十分後、港の鐘が不穏に鳴った。沖合から、黒い帆の列。海賊旗。港の連中がざわつく。

「最悪のタイミングだな」

「最悪はだいたい、いい練習台よ」セイラは肩をすくめる。「君の遠回りの最短、見せて」


 俺は堤防に駆け上がる。海風が強くなる。黒帆がこちらに舳先を向け、陸の蔵を射程に入れようとしている。弓兵たちが慌てて壁に上がるが、矢は潮風に流される。正面から迎え撃つのは悪手だ。

 遠くへ。敵よりも遠く、そして敵を遠ざける。

 港の北側に、浅瀬と暗礁の帯がある。さっき頭に流れ込んだ海図が正しければ、あそこは満ち潮前に入れば抜けられない迷路になる。俺は港の鐘楼に駆け込んで、合図用の旗を掴んだ。


「北へ流す! 南の堤で囮を出して、追わせろ!」

 港の古株の男が目を剥く。「正面から来るやつらを、わざわざ北に?」

「遠ざけるんだ。港から、町から、人から。近くで戦うより、遠くで迷わせたほうが安い」


 合図旗が風を切る。南側の小舟が一斉に動き、わざと遅い獲物を演じて黒帆を北へ誘導する。俺は堤防の突端に走り、海に叫ぶ。

「セイラ、引き潮をほんの少しだけ!」

「少しだけ、ね」

 女神の声が笑う。海面の表情がわずかに変わり、黒帆の船腹が想定より浅瀬に近づく。

——ピ、ピ。

〈+23%〉〈+25%〉


 俺は旗で最後の角度を示す。黒帆は獲物を焦って舵を切り、暗礁の並びに自ら入っていった。潮が戻る。出口が狭まる。船底が削れる音。一本、二本、三本、黒帆が立ち往生した。


 歓声。弓兵が矢をつがえ、港の男たちが綱を投げて船を引き倒す。俺は膝に手をついて息を吐く。体の針は、まだ上へ行けると告げていた。

 セイラが肩越しに囁く。「お見事。遠ざけて勝った」


 港長が駆け寄る。「あんた、どこのギルドの——」

「新規採用です。港の潮見係」セイラが先に答えた。「紹介状は、海」

 港長は口をぱくぱくさせ、それからどっと笑った。「なら、今日からここはあんたの職場だ!」


 人々に押し上げられて堤防を降りる途中、耳の奥で別の鐘が鳴った。城門の方角。ひどく聞き覚えのある合図。遠征帰還と、緊急招集。

 胸の中の計器が、かすかに震える。

——ピ。

〈+24%〉


「来るわ」セイラが視線だけで城壁を示す。「君を近づけるものが」

 俺は頷き、港の水面に映った自分の顔を見た。さっきより少しだけ強く見える。遠ざかったぶんだけ、軽くなった。

「距離を稼ぐ。港を守りながら、世界の果てまで」

「いい宣言」女神は微笑む。「なら、礼の三つ目も、検討に入れておいてね。部屋は波の音がする方角がいい?」

「まだ早い」

「海はいつも早いの」


 セイラと視線を交わしたとき、港の子どもが俺に手を振った。助けた少年だ。青い屋根の家の前で、母親に抱かれながら、ぎこちない敬礼をする。俺は同じ敬礼を返し、背を向ける。

 城門の向こうで、誰かがこちらへ向かっている。半径十キロの縁が、じりじりと近づく。


 さあ、遠回りで勝とう。

 遠ざかるほど、俺は強い。

 そして、遠くへ行けば行くほど、海も森も星も、誰かが「一緒に」と言ってくれる——その予感だけは、もう確信だった。

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