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蛸と星屑

作者: 御影鼬宇
掲載日:2025/09/10

おれの手帳の四頁目は、既に正の字でいっぱいになった。小えびが背を丸めたような正の字、鈍刀のように不格好な正の字、新米兵士のような正の字、それら一つ一つが組み合わさって、きめの細かい迷路を形づくっていた。半ば枯れた万年筆を右耳の裏に挟み、おれはさっきからずっと、この迷路の余白部分を人差指でゆっくりなぞっている。紙たばこの最後の一本を吸い終えてからどれほど時間が経ったか知れないが、迷路は全体的に灰色に染まり、ついに、どこを如何ようになぞっているのかもわからなくなってきた。やはり安物の万年筆は乾きが遅くていけない。官給品、とりわけ我々のような使い走りに対する支給物なんぞ、こんなものであると割り切るしかない。しかし、おれのような重度の愛煙家にとって、一日の業務につき紙たばこ一箱というのはあまりに不憫である。今日も確か、午前中のうちに吸い終わってしまったような気がする。もしかしたら、おれの背後で、膝をついて数珠をこすり合わせてフランス国家を諳んじている気味の悪い爺さんに、二本ばかり恵んでやったのかもしれない。婆さんであったかもしれない。ともかく、自身の悪行も善行も次の瞬間には忘れているのだから、おれの頭は都合がまことによろしい。口の端からぷかぷか浮かんで行く煙が、入道雲のシルエットにぴたりと重なるその瞬間をずっと待ち望んで、二本同時に火をつけたり、眉間の前でたばこを聴診器みたいに持って揺らしたりして、いきおい、底の角の潰れた薄い紙パッケージがおれの傍らに残るだけだ。今日はそれすらも残っていないが、その行方はおれの及び知ることではない。おれがこの目で見なかったことは起こらなかったことと同じなのだ。赤茶けたフェイクレザーのカバーに白紙四枚だけが挟まったこの手帳だってそうだ。おれはこの質素なつくりに関する一切を知らないのだ。ただ、毎朝定刻に、事務所の玄関で胡坐をかいた警備員風の男からこの手帳を渡され、そして、貴重な一頁目にずらりと箇条書きにされた規則に従って、四頁目にのみ、気違いみたいに正の字を繰り返し書き込んでいるのである。それ以上に知ることは、この業務に関する契約上は明記されていないのだから、おれがあれこれ勘ぐっても不毛というものだ。おれにとって確かなのは、今現在、この手帳の四頁目を埋め尽くす正の字を指でなぞっていて、たばこを吹かしていないこと、そして、白ペンキが剥げた木製のベンチのうえで尻が痺れるのをひたすら我慢しているということだけだ。だからといって、時折立ち上がってベンチを周回して、たばこの吸い殻が落ちていないか地面を舐めるようにしてうろついているようでは、やはり格好がつかないのだ。これでも、お役人よろしく一丁前に黒服一式を纏っているのだから。どうやら、服すらおれに優しくすることを忘れてしまったらしい。額の皺の間から溢れた汗が一滴、手帳の四頁目の中央あたりに落ちた。先ほどまで直立不動の精神でいた正の字が数匹、灰色の水の中で一斉に貧乏ゆすりを始めた。水滴がじわじわ同心円状に薄く伸びてゆくのとは反対に、おれの眼は始終、最初に汗が落ちた中央の一点からの向心力によって固定されていた。タガが外れた正の字が一個の黒い塊になって中央に押し寄せてくる。それは、一本の黒鉄の槍になっておれの眉間をずぶりとひと突き―― 青くなっておれは慌てて手帳を閉じた。気泡がぷちりと潰れる音がした。これでもう、四頁目はその役割をすっかり終えたはずである。幸い、二頁目と三頁目は全く白紙にしてあるから、おれはこの仕事を続けることができる。おれはすぐに手帳を開きなおしたが、頭を抱えた。しまった! 正の字のやつ、方眼を丸ごと食っちまいやがった。方眼紙でなけりゃ、おれは正の字すらも書けないのだ……。正の字を書くことを諦め、おれは次の仕事に取り掛かることにした。用済みの万年筆をベンチに叩きつけ、真ん中からへし折るつもりが、先端の錆びた金属部分だけが前方遠くに飛んでゆき、砂場で遊ぶ少女の背中に当たるすんでのところで転がった。危うく、おれは彼女の世界に干渉するところであった。いくら仕事に大雑把なおれでも、それだけはしないように気をつけてきたのだ。ニコチンの切れた愛煙家はこの仕事に最も向いていない種族なのかもしれない。おれは足元のボストンバックの中をまさぐって、さっきの失敗の記憶も一緒に放り込んでかき混ぜてしまった。B5サイズのスケッチブックを取り出し、白紙一頁目の規則に目を通す。目を通すといっても、「きみの手で、きみの見たものを描くこと」というゴシック体のお触書しかない。馬鹿にされたような気がした。当局の奴ら、舐めやがって……描く用途をもたずして何をスケッチブックと呼ぶのか。それくらい、おれだって、ちゃんと知っている。第一、「きみ」というのは気に食わねぇ。まるでおれが職務放棄することが前提のような言い草ではないか。律儀に正の字を書いていたおれを見ていないくせに……いや、もしかしたら……。

 おれは読めもしない英字新聞の裏に顔を隠し、上端から眼の上半分だけを出して正面一帯をのぞいてみた。しかし、誰もおれのことを見ていなかった。砂場の少女は同級生と積み上げた鉛色の塔の側面を穿って窓をつくるのに躍起になっていたし、近場の小学校からそのままやってきた少年たちは、ざらざらの滑り台に跨り、その単振運動を繰り返すサッカーボールをひたすらまじまじと見ていた。中折れ帽を目深に被った詩人風の男は、正面のポプラの木の緑葉が地を這って舞ってゆくのを色鉛筆の先で追いながら、癖毛の茶色い髭に顔をしきりにうずめていた。彼が、落ちる、落ちると呻いても、砂の塔はみるみる高くなり、サッカーボールは単振動をやめないで、公衆便所の奥の方からフランス国家は聞こえ続ける。逆さに持った英字新聞の経済面では、今後十年の景気動向を紹介する折れ線グラフが、心臓病患者の心電図のように見えた。おれは急いで赤い絵の具を取り出して、新聞紙の上からじかに、グラフの左端から新聞の端まで勢いよく絵具をひねり出した。ふと目に入った「fate」という字、その短い単語の意味も分からないのに身の毛がよだち、おれは、余った絵具でそれも塗りつぶしてしまった。

 おれはスケッチブックの二頁目を開いた。手帳とは違って、これは使いまわしの品らしい。いつかの前任者は、その頁の右上の方に小さく歪な星型のマークだけを彫りつけるように描いて、他には何も描かなかったようだ。おれと同じく暇を持て余したそいつが吸ったらしいたばこの灰が、その星を囲むように潰れていた。その受け皿の位置に、一方向から斜めに強く灰をこすりつけた部分があった。どうやら火の始末をしくじったらしい。数頁にわたって同じところが黒く焦げて破れていた。三頁目以降は黒マジックで一面を塗りつぶした頁と件の星を描いた頁が交互に並び、おれが担当すべき頁は、スケッチブックの最後の頁であった。この仕事の前任者には、おれを含めてまともな奴が一人もいないようだ。真っ黒な頁と星の頁を各々最初に描いた人間は、芸術家気どりの馬鹿であり、後には、その前衛性に惹かれてほとんどを模倣した右脳閉塞予備軍が続いている。ただでさえ、昼下がりに公園のベンチに独り腰かけ、黒服に纏わりつく熱気に耐え忍び、意味も分からない仕事に徹しているのだ。一人や二人、狂気の沙汰に違いない。規則通りにするならば、おれは左手に握った黒マジックで一面を塗りつぶすべきである。しかし、どうも面白くない。おれのあばらあたりに巣くった小さなプライドがきりきり喚いている。これは、規則を逸することへの陳腐な衝動ではない。おれはそれほど勇敢ではない。スケッチブックの最終頁を担当するおれの後任者はいないわけだから、このスケッチブックの仕事の結び方を委ねる人間がいない。二冊目のスケッチブックがあるのかもしれないが、一冊目の後始末は間違いなくおれの責任である。畢竟、おれは、おれ自身でその結末を決めてしまうのが怖いだけの臆病な人間なのだ。そのうえ、頁を黒く塗りつぶすことで、その恐れが当局の連中、ひいてはおれを取り巻く全ての存在に感じ取られてしまうことが、どうも許せない。小人とはおれのことである。そうはいっても、やはり、最終頁をいかように飾るべきか皆目見当がつかない。いや、方針はある。おれが見たものをおれ自身の手で素直に描くだけでよいのだ。それが、おれが従うべき唯一の指針であり、おれの不甲斐ない部分をすっぽり覆ってくれる唯一の救いである。しかし、果たして、おれが見るものとはなんだ? ニコチンの切れた頭で考えることではない。ええい、視覚に頼るからいけない。目をつぶっている方が案外色々、目に浮かんでくるものだ……。それにしても、前任の輩は一体どうして、具体的なものを一つも描かなかったのだろう。もし労働条件がおれと同じであれば、あいつらもこの真昼の時間帯にこうしてベンチに座って汗をぬぐっていたに違いないのだ。星なんて、見えるはずがない。星を一つだけ描いているというのも、水銀を吹きかけたみたいに一面に散った星屑が見えていないことの証拠ではないか。頁全体を真っ黒に塗りつぶした連中のほうがまだ理解し易い。今おれがまさにそうしているように、目を閉じて、スケッチブックの角の輪郭を確かめながら、ただひたすらに、偶然何らかの形が浮かび上がることを待ちつづける。よく見れば、頁の左上の部分に前の頁の星型を写し取ったような歪んだ白い曲線がある。その曲線で囲まれた部分は他の黒い部分より色が薄く、黒い星がじんわり浮かんでいる。彼等は最後まで自ら見ることをしなかった。いきおい、前の人間が描いた星の写しを、その蚯蚓のような白線を、唯一の戦利品として受け取るほかなかったのである。おれの前任者が描いた星は、とりわけ大きくゆがんでいて、あちこちで交差した線の先端が蛸の触手みたいに四方八方から飛び出して、おれを丸ごと取り込もうとしているようだった。黒い触手がおれの方に徐々に伸びて、やがて空中で大きく脈打って半透明の糸になり、おれの虹彩に沿ってくるくると回り始めた。顔の反対側に伸びていった糸はおれの首に巻きついて、一気にこわばる。スケッチブックの真白な面がおれの鼻先に向かって飛び上がり、おれの焦点から同心円状に灰色が染み込んでゆくその刹那に、おれの顔は裏返って、ネガフィルムを通した世界に原子になって溶けてゆく……。

 あぇっ。潰れたリコーダーから洩れたような声がおれの妄想を断ち切った。砂場の方を見やると、中腹で半分に割れた砂の斜塔を踏みつけながら、五歳ほどの女の子がもう一人の少女の肩をがっしり掴んでいた。彼女はうつむいたまま自分のひざと友達のひざの間で視線をうろつかせて、何かにおびえてがたがた震えていた。事件の久しい到来に、おれは嬉々としてベンチから尻を浮かして、たばこの吸い殻を踏みつけ、スケッチブック片手に砂場に向かった。おれが彼女のすぐ後ろで鹿の剥製を観察するようにしていても、砂場を囲うブロックの内側で、二人だけが冷たい油に浸かっているように静かであった。声をかけるのを躊躇い、ただ、事の顛末を痴呆の顔で眺めていた。

 おれは、肩を掴まれた友人の指先の輪郭が曖昧になって、正午につららが溶けていくように、か細く浅黒い指が雫になって、砂の上にぽとり、ぽとりと沈んでいくのを見た。指だけではない。液状化した手の甲の皮膚がさらにその下の皮膚に覆いかぶっていくのを見た。やわらかく赤茶けた産毛が光を受けて、その一つ一つが砂金のようであって、ぶよぶよの皮膚の波がそれらをのみこんで、一緒にのみこんだ空気がはぜてできた穴を土砂崩れの原理で埋めていく。人差し指の先の方で溶けた皮膚が薬指の付け根あたりのそれと結合して、ゆで茄子のようにずんぐりした指、砂時計のようなかたちをした指、そして、不格好な雪だるまの首をぶら下げた指なんかが、縦横無尽に走る。彼女の指と指の隙間を風が縫ってゆき、そのたびに指の頭と胴体がひっくり返り、金平糖みたいな星屑がぽとぽと彼女の足元へ転がってゆく。血潮を閉じ込めた筋肉と指の付け根の白い肌色が半ば混ざった白桃色のピューレが、茹る砂場の真ん中に築いた塔にとめどなく滴る様子を、おれは、じっと見ていた。皮膚の張りと体温がまだ残ったゴムのような手の残骸と、乾いた石灰色の砂、濡れてごわごわした黒い土とが層を成して積り、積り、その層のうねりは次第に大きくなる。縦に積み上がった彼女の塔はとうとう崩れた。もう、動かない。

 彼女のすべてが溶けてゆく始終、おれは件のスケッチブックの最終頁に、淡々と積み上がっていく砂の塔と不遇な少女の童顔を描いていた。おれ自身の手でおれの見たものを描く覚悟は、もう、できていた。全く、おれは何にそんなにおびえていたのだろうか。

 手首から先が溶け切った頃、彼女がおれに話しかけてきた。彼女は必死に目でも訴えかけてきた。指があれば指しているであろう方向を見て、血の気がさっと引いて背筋が凍った。同じ目線の高さで、黒スーツを纏った男と目が合った。――おれである。おれらしい男はスケッチブックを胸の前に抱えながら、右手で鉛筆を縦に構えて自分とおれの距離を測る構えをしている。そして、おれの眉間とそいつの人差し指が透明な毛糸でつながった瞬間、おれの手は溶け始めたのである。

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