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「筋って」と壮弥くんが笑う。「でも、今はあまり冷静じゃなかったですね。おれ、自分より明らかに力の弱いものを、脅したり傷つけるやつが嫌いなんです。少し、かっとなりました」


 壮弥くんは、右手首を何度かひねった。そして、顔をしかめる。


「壮弥くん、もしかして、どこか痛めました?」

「力任せに襟をつかんだので、手首の筋を少し。お恥ずかしいです」


 ひゅっ、と私の喉が鳴った。


「なにが恥ずかしいんですか! 分かりました、ちょうど私の家がここから近いので、手当させてください」

「……え?」


「こちらです、早く」

「い、いえ、大丈夫ですよ。そんなに大して痛いわけじゃないですから」


「今はそうでも、悪化するかもしれないじゃないですか! 湿布くらいならありますから!」

「あ、いえその、治りました今治りましたはい大丈夫です、全てがもう」


「なに言ってるんですか、そんなわけ……あ」


 壮弥くんの袖を持って引っ張り出した私は、ぴたりと動きを止める。


「ツミさん? どうかしましたか?」

「……今、私の家……イベント用のマンガ制作の真っ最中で、下書きの紙やタブレットで机の上がとってもすごくごちゃごちゃなんですが……笑わないでくださいね」


 すると、壮弥くんもまた、ぴたりと固まった。


「作業中の……原稿……? ツミ先生の……? まだ世に出てない……制作真っ最中の、……ですか……?」


 そう。

 そうだった。

 時々忘れてしまうけど、壮弥くんは、私のファンなんだった。自分で言うのはなんだか変な感じだけど。

 壮弥くんの目が、みるみるうちにきらきらと輝き出す。夜空の星が落ちてきたみたいだった。そして、「いやでも、そんな……」となにやらもごもごつぶやき出した。

 たった今、怪しい成人男性をとっ捕まえていた人と同一人物には、あんまり見えない。

 そして私は、自分のマンガに対して、こんな反応をされるのは初めてだった。

 この人に、私がしてあげられることってなんだろう。

 そう思ったら、自然と言葉が唇からこぼれていた。


「壮弥くん……よかったら、手当のついでに……私の原稿、見てみますか?」

「…………は…………い…………!」


 街灯の下の宗弥くんの顔が、赤くなっていた。

 自分のマンガが、それも完成品じゃなくて製作途中のものが、こんなふうに喜んでもらえることがあるなんて、考えたこともなかった。

 なんとなく浮かれてしまう。自分は、すごくいいことができる人間みたいに思えてくる。

 私の家には、五分ほどで着いた。

 二階建てのアパートの、二階の隅が私の部屋だった。

 手早く鍵を回して、ドアを開く。


「どうぞ。あんまり、女の子らしくはない部屋かもですけど」


 不動産業をしている叔父さんに貸してもらった、2LDKの角部屋。たぶん、家賃はかなり負けてくれていると思う。

 私の場合、生活空間はそんなに広くなくてもいいんだけど、同人活動はとにかくスペースがいる。

 クローゼットの中は、すでに、服よりも、ジャンルごとに仕分けられた同人誌で埋まりかけていた。

 一応、オタク仲間をいきなり呼んでも構わない程度にはいつも片づけているので(あまり実践したことはないものの)、そんなに見られてまずいものは出していないはずだった。

 靴を脱いで振り返ると、壮弥くんはまだ部屋の外にいた。


「……あの、ツミさん」

「はい?」


「これは、わざわざ言うほうが、おかしな感じになるのかもしれないですけど」

「はい」


「おれ、絶対、なにもしませんから。約束します。……お邪魔します」


 そう言って靴を脱ぎ、ちょこんと揃える壮弥くんの背中を見て、私はようやく状況を理解した。

 慌てて、部屋に置いてある置時計を見る。もう夕方とは言えないけど、まだそんなに遅い時間ではない。


「あの、おれ、よく分かりませんけど……こういう時、ドアって、開けておいたほうがいいんでしょうか?」

「えっ!? あっ、いいですよ閉めて! 空けておくほうが怖いですし! 家の中は、私と壮弥くんだけですもんね!」


 壮弥くんが、びくりと震えた。……今のは、ちょっとよくない言い方だったかもしれない。


「あ、そうそうそう救急箱出しますね! さくっとびしっとずばっと終わらせますから、そこのソファに座っててください!」


 さっきマンガの原稿を見せる話をしていたせいで、オタク仲間モードになってしまっていた。

 私のほうが年上なのに、壮弥くんを困らせてしまったなあ……。


 私は救急箱を出して、ソファに行儀よく座った壮弥くんの右隣に座る。

 アンドロアンサスでも並んで座ったことを思い出した。

 でもうちのソファは二人用なので、前よりもかなり距離が近い。

 吐息が壮弥くんにかからないように、自然に、呼吸が浅くなった。ただでさえ、動悸が早くなっているのに。

 湿布を出して、壮弥くんの筋張った右手首に貼る。

 動作自体はほんの数秒なのに、一時間もそうしていたかのように、体が緊張で固まった。


「こ、これでよーし! なるべく手首を動かさないようにしてくださいね! では、パソコンが立ち上がるまで、下書きでも見ていてください!」


 壮弥くんは、ローテーブルに置かれたタブレットと、デスクに置かれたノートパソコンを交互に見て、


「タブレットがありますけど、PCで描いてるんですか?」

「はい。最初はタブレットで、今はノートに移行したんです。でも、とりかかり始めとかの時には、使い慣れたタブレットを使うことがあって」


 そう言いつつ、コピー用紙にラフに描いたマンガの下書きを、壮弥くんに束で渡す。


「うわあ、すごい……。これ、おれが見てもいいやつですか……?」

「いいやつですとも。普通は私以外の人が見ることはないので、なんだか新鮮です」


「直に描いていある……鉛筆で……線が、生き生きとして見えます……」

「下書きは、ラフな分思うがままに描いてますからね。あ、立ち上がりました。その下書きをスキャンして、ペン入れしてるのがこれです。コミハリの新刊用ですね」


 言いながら、マンガ制作用アプリを開いて、新作用のフォルダを出す。

 まだ作業内容がまちまちのページが、つらつらと現れてきた。

 これが完成したら、プリントアウトしてコピー本にする。その時はコンビニを利用するのだけど、周囲に極力人がいないタイミングを狙う。見も知らぬ赤の他人と言っても、刷っている最中のマンガを見られるのは、なぜかとっても恥ずかしいのだ。


「ああっ、新刊なのに今見たらもったいない……せめてセリフとか、後のほうのページは見ないようにしますっ……!」

「そこまで楽しんでもらえて、私のマンガは幸せ者ですねえ……」


 それからしばらく、下書きとパソコンの絵を見比べている壮弥くんを眺めつつ、私はお茶を入れた。


「どうぞ」とノートパソコンの横に、コーヒーの入った来客用のマグを置く。


「わ、すみません。いいのに、そんな」


 壮弥くんは、うやうやしく原稿を離れたところに置いてから、マグを持った。

 けっこういいドリップバッグがあってよかった。……のだけど。


「あ」

「どうかしましたか、ツミさん?」


「コーヒーで思い出しました。アンドロアンサスって、ここから遠くないですよね。……そこで手当てしてもらえれば、壮弥くんを、私の家などに引っ張り込まれる目に遭わせずに済んだのに……」

「引っ張り込まれてはいませんっ。……すみません、ツミさん。おれは、さっき、それには気づいていました。でも、言わなかったんです」


「え、さっきって、いつ頃ですか?」

「……それは、まあ、いつでもいいじゃないですか。とにかく、悪いのはおれです。混乱していた、ことにしてください」


 壮弥くんは、名残惜しげに、ノートパソコンと下書きを見つめている。

 コーヒーを飲み干すと、デスクにマグをことんと置いた。


「最高に幸せな時間でした。でも、そろそろ行かないと」

「あ、そうですよね。遅くなっちゃいますから」


 壮弥くんがこの部屋に入ってから、まだ三十分も経っていない。

 でも、ひどく名残惜しい気持ちになった。まるで、壮弥くんがドアを開けて出ていく時、部屋の温度の半分を失ってしまうんじゃないかと思うほど。

 壮弥くんが靴を履いて、かかとを直す。

 駅まで送りましょうか、と言うと、だめだめだめだめここで充分です、と首を横に振られた。


「ツミさん、今日は、不愉快な思いもされたと思います。できれば、一人にしたくないんですが」


 ……そういえば、知らない男性に後をつけられていたんだった。すっかり忘れていた。よくないよくない。


「おれは、電話でもメッセージでも、二十四時間いつでも連絡がつきますから。なにかあったら、いつでも言ってください」

「……はい」


 ああ、行ってしまう。

 思わず伸びそうになる手を、なんとか体の横に張りつけていたのだけど。


「怖い目に遭われた女性に、こんなこと言うの、無責任かもしれないですけど。おれも、おれ以外のファンも、ツミさんのマンガが一番大好きです。どうか、元気を出してくださいね」


 それでは、と壮弥くんはドアを閉めて出て行った。

 それからようやく、私がここ数分どこかぼうっとしている様子が、ストーカーにつきまとわれていたことのショックによるものなんだと、壮弥くんが心配してくれたんだということに思いが至る。

 だから、あんなに気遣った言葉をかけてくれたんだ。

 ドアを離れて、ベッドに座った。

 ……壮弥くん、なんだか、いい香りがしたなあ。

 異性がいい匂いがしたというのは、男の子が女子に抱く感想としてマンガによくでてくるなあ、これじゃ逆だなあ、お店でつけてる香水とかなのかなあ、などととりとめもなく考える。

 そして突然、壮弥くんに言われたある一言に、カメラのピントがいきなり合ったように、ばちっと意識が集中した。

 一番大好きです。

 ……そんなこと言われたの、生まれて初めて。

 その日は一晩中、ずっと壮弥くんのことを考えていた。

 お酒を飲んだことはないけど、飲んだらこんな感じかもしれないなというふうに、首から上が熱っぽくてふわふわしていた。



「ようこそ、アンドロアンサスへ! 今日はお一人ですか?」


 壮弥くんがうちにきてから、三日ほどした日の夕方。

 私を出迎えてくれたんは、シンさんだった。

 この前とは違うキャストさんが、ちらほらいるのが見える。

 露出度の高い人から、布地がたっぷりした服を着こなしている人まで、様々だった。

 それにしても、一度きただけの私の顔を覚えてくれているなんて、シンさんてすごいなと胸中で感心してしまった。


「はい。あの、スイさんいますか?」


 そう訊いたものの、壮弥くんが今日出勤しているのは、あらかじめメッセージを交換していたので知っている。

 空いている席へ通されて、すぐにスイさん――壮弥くんがきてくれた。今日はブルーのロングドレスで、シルバーブロンドのウィッグをつけている。


「いらっしゃいませ、ツミさん」


 壮弥くんは女装している時でも声色を変えないので、そのまんま男の子の声だ。

 飲み物はエルダーフラワーのハーブティを注文した。

アンドロアンサスは女性客が多いからなのか、フレーバーティの類がけっこう充実している。普段ハーブティのあるお店なんてそうそう行かないので、珍しいものはいずれ一通り飲んでみたい、なんてひそかに思っていたりする。


「スイさん、てお呼びしますね。えへへ、きちゃいました」

「すごくうれしいです。ここ、気に入ってもらえましたか?」


「はい。みんな生き生きとしてますし、楽しい空間だなって思います。今日は、息抜きしたくてきたのもあって」

「息抜き? っていうと、大学のレポートとかですか? あ、違う、もしかして、まさか」


 壮弥くんが、はっとした顔をする。

 私はというと、眉根を寄せてうつむいた。


「ええ。そのまさかです」

「……このやりとり、ちょっと憧れでしたけども。では、原稿の?」


「はい。もう四月も下旬ですからね。五月の連休のイベントなので、コピー本と言えど、さすがにマンガの本文部分は仕上げないとなのです」


 たいていの同人誌は、マンガ部分を描いて終わりじゃない。

 表紙も要れば、面つけという作業もあるし、なによりコピー本なら印刷して本の形に折るという手間が発生する。これらが意外に時間と体力を奪われるのだ。

 マンガを描くのはひたすら楽しいけど、製本作業は苦手という同人作家も割といる。


「うわあ。もしかして、修羅場ってやつですか?」

「それなりに慣れてはいますんで、本気で落ちそう――未完成になりそうってことはないんですけど。一応予定通りいけば、無事完成する予定です」


「あまり根を詰めないで……と言いたいところですけど、正念場ってことですよね」

「はい。前にも言いましたけど、私のサークルの頒布数が増えたのって、大手サークルさんとのご縁で、本当に運がよかったんです。それで毎回読んでくれる読者さんのためにも、できる限りのことはしたいので」


 ゴールデンウイークの前は、大学で課題を増やす教授も多いので、学業のほうもなかなか大変だったりする。でも、やれることを前倒しで少しずつ進めていけば、今の勉強と趣味の量なら両立できるはずだった。

 ……というか、勉強をおろそかにしたら大学にきた意味がないので、趣味に偏り過ぎないように自重は一応している。これでも。


 ふと見ると、ドアのところに、清算を済ませた女性の三人連れがいた。これから帰るところなのだろう。

 彼女たちは惜しみなく笑顔を振りまいて、楽しそうな様子で帰っていく。


「スイさんたちは、立派ですね……」

「と言いますと?」


「だって、お店にくるお客さんて、もともと知らない人たちですよね? そんな人たちとお話して、みんなあんなに楽しそうな顔で帰っていくなんて……私には絶対できないです」

「絶対とは……。接客とかは苦手なんですか?」


「はい。私のアルバイトは、基本的に人としゃべらないで済む単純作業系か、裏方仕事です」


 くいと黒縁眼鏡を指で持ち上げ、胸を張って(なぜか)答える私に、壮弥くんは苦笑した。


「おれは、ツミさんと話していて楽しいですけどね。いいか悪いかは別として、友達と話す感覚で接客しているキャストもいますから、そんなに持ち上げたものでもないんですが」

「友達かあ……それはそれで、すごいですね……私、友達作る才能ないので……」


 遠い目をして、天上から下がったシャンデリアの向こう側を眺める私。

 オタク仲間はいても、イベントで盛り上がることはあれど休日に一緒に出かけるようなことはない。

そのあたりは、私の中に微妙な線が引かれていた。こういうところが、私の社会性の乏しさなんだろうと思う。こんなことで、いずれ就職して会社勤めすることになった場合は、やっていけるんだろうかと不安になることが度々あった。


「ツミさんが最初にここにいらした時に、お友達とご一緒だったのでは……」

「あんなちゃんは、大学で唯一のお友達なのです。あんなちゃんには私以外にも友達がいますが、私には彼女しか友達がいないのですよ……フフフ」

「笑ってる……」と壮弥くんが敬語を忘れてつぶやく。


「私だって、たまには友達と買い物に行ったり、ファストフードなどを食べておしゃべりしてみたいんですけどね……」

「おれとは行ったじゃないですか」


「はい。あれは私には、過ぎた幸せでした……」


 そう口にしてから、はっとする。

 幸せ、という言葉を自然に使ってしまったことに、自分で驚いた。

 壮弥くんと一緒に過ごしたことが幸せ。嘘ではない。全然嘘ではない。でも、そんなふうに簡単に口にしてしまったのは、なにかがまずかったような気がする。


「幸せ、ですか」

「あ、いえあの、スイさん、今のは、その」


「ツミさん、おれと一緒に出かけると、幸せな気分になってくれるんですか?」


 今まで明後日のほうに向けがちだった視線が、壮弥くんと、ばっちりと合った。

 壮弥くんが、私の顔を覗き込んでいる。

 答えなくては。

 嘘をつかずに、ごまかさずに。

 私は、「はい」とうなずいた。


「なら、ツミさん。今度の週末、おれとどこか行きませんか?」

「どこか……? でも、特に新しい服は必要ありませんし……」


「特に用事がなくても、一緒に出かけたい人とどこかに出かけるって、いいと思いません?」


 シルバーブロンドが、首の傾きに合わせて、さらさらと揺れた。

 壮弥くんの細くて長いつけまつ毛が、すぐ近くで瞬きする。


「……思います……」


 気がついた時には、そう答えていた。


「思いますけど、……でも」

「でも、なにか?」


「私は、これでも一応、なにげに実は、女なんです」

「充分存じてます」


「私と一緒に歩いて、壮弥くんが、あらぬ誤解を受けては」


 本当は、気にする必要はないのだろうけど。

 でも、こんなに格好いい男の子が、近い年齢の私と一緒に歩いていたら、特別な関係の男女だと思われかねない。

 壮弥君に、自己肯定感が低いと言われたことを思い出した。本当だと思う。私は、街で行きかうだけの他人に、壮弥くんが私の恋人なのだと思われてしまうことが、いたたまれなくてならないのだ。

 もともと、濡れ衣の類というか、本当はそうではないのに周りにそう思い込まれてしまうというようなことが、私は苦手で仕方ない。

 それが、私でなく、壮弥くんに関わることとなるとなおさらだった。


「それは、あるかもしれませんが。気になりますか?」

「はい。ごめんなさい、私、卑屈ですよね」


「そんな言葉、ツミさんが自分に使うことはありませんよ。でもそういえば、もともと友達の話でしたよね。たぶん、ツミさんがイメージされていたのは、同性の友人ですおね? では、おれが女装してご一緒するのはいかがでしょうか」


 私は目を、

 ぱちくり

 とした。


「声を出してしゃべらず、肌も出さなければ、ぱっと見には女性同士の二人組に見えるかもです。ま、ちょっと身長はありますけど」

「私が……女装状態のスイさんと……?」


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