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「私たちが別れたのは――私が振られたのは、仕方ないことです。でもその時、私がそれまで好きだって言ってたマンガや映画を、彼は全然好きになれなかったし、私が好きなものはどれもつまらなかったし、……くだらないものだって、彼は嗤って、何度もけなして、……だから私は彼にも、好きなマンガにも、凄く悪いことをしてしまったと思って、」


 どんなに独りよがりなものだったとしても、自分なりの精いっぱいの誠意が、見下されて嘲笑されてしまうことのつらさは、今も胸の痛みとともに忘れられないでいる。

 壮弥くんが、なにか言おうとしてくれたのが、あいまいになった視界の中でも分かった。その口を、またつぐんでくれたのも。

 こんなこと、今日言うつもりじゃなかった。それが分かるから、壮弥くんは全部聞いてくれているんだ。


「それから私、たぶん、男の人が、少し怖くなってしまっていたんです。理屈ではなかなか上手く説明できないんですけど、あの時の気持ちと、交際相手が強く結びついてしまって……。男の人がいる空間では、勝手におびえて、勝手に居心地が悪くなったり、逃げたり」


 その時、私の目頭から、雫が落ちた。

 いけない、と思った。

 今泣くなんてよくない。

 一瞬透明度を増した視界の中で、壮弥くんの顔が見えた。

 真顔で彼はそこにいる。でも、きっと傷ついている。私の話を聞いて、男性として。だから私は、最後まで伝えなくてはならない。

 涙になんて負けずに。


「でも、そんな私を助けてくれたのは、男の子の壮弥くんでした」

「……電車のことですか? 当然のことをしただけですよ」


「そうかもしれません。でも、うれしかった。ずっと男の人を忌避していたあの日までの私に、ほら見ろ、と言ってやりたくなりました。何度も頭では言い聞かせてたんですけど、やっぱり、体感が必要だったんです。立派だな、素敵だなって思える男の人が、絶対にいるんだって。救われたような気がしました」


 そこで、ようやく、少しだけ笑顔になれた。

 また雫が落ちる。

 壮弥くんの張りつめた顔にも、わずかに安堵がにじんでいる。


「……その後おれと仲良くなってくれたのは、もしかして、おれが女装だったのと関係がありますか?」


 それは、何度も考えた。

 女の子の格好をしている人だから、気を許せたのか。

 なら、女装しない人が相手だったら、同じくらい救われた気持ちになれたのか。

 女装だから――壮弥くんは、私にとって特別な人になったのか。


「違う、と思います」


 両手をこぶしにする。

 これは、はっきり言わなくてはいけない。


「私、あんまり自分が好きじゃありませんでした。でも壮弥くんといる時の私は、いつも笑っていて、壮弥くんが喜んでくれることが私にとってはとてもうれしくて、そんな私は、悪くないんじゃないかって。私ができることで壮弥くんが楽しい思いをして、私はいつも大切に扱ってもらえて、お礼を言い合って、そんな私はけっこういいやつなんじゃないかって、……そう思えるから」


 言葉にするときりがないし、だんだん自分でもよく分からなくなってくる。

 だから、答は明確につたえなくては。


「だから、壮弥くんが女装さんじゃなかったとしても、私は壮弥くんと仲良くなれます」


 人に、あなたは私と仲がいいですと言うのは、よほどの確信がないとなかなか難しいと思う。相手から、「あなたとは別に仲良くありませんよ」と言われてしまうのが怖いから。

 でも、今は先に壮弥くんが「仲良くなった」と言ってくれたので、私も言い切れた。


「そうなんだ。……よかったです、それは。とても」


 観覧車が、最高地点を通り過ぎる時、一番遠くまで景色が見通せる瞬間に、壮弥くんは笑顔になった。

 あとは、降りていくだけだ。

 中間地点を通り過ぎると、急に、終わりが近づいてくるのが気になってしまう。

 私はハンカチを軽く目に当てて涙を吸い取らせると、鼻を鳴らして言った。


「と、というわけでですね、これからさらに同人誌を描くのをがんばろうかと」

「……ん?」


 壮弥くんが首をかしげた。


「同人誌をさらに? どうしてですか?」

「だって、壮弥くんが評価してくれてる私の長所って、マンガですよね? なら、愛想をつかされないように、私は努力を重ねる必要があるじゃないですか」


 周囲の景色が上に伸び、私たちのゴンドラはいよいよ地面に近づく。

 そんな空間で、しばらく壮弥くんは無言だった。

 やがて、一度目を閉じて、もう一度開いてから、言ってきた。


「……三織さん。おれが女装でなくてもあなたが評価――評価? まあこの際いいかな――してくれるのと、同じように。おれも、あなたがたとえマンガを描くのをやめても、特に疎遠になったり、愛想つかしたりはしません」

「ええっ!?」


 思わず、肘を肩の高さまで持ち上げてリアクションをとってしまった。


「ええって」

「壮弥くんは、できた人ですね……」


 しみじみとそう言った時、ゴンドラが下に着いた。壮弥くんが先に降りて、手を取ってくれる。

 そのまま歩き出して、観覧車から遠ざかりつつ、暮れ始めている空を見た。

 東京ドームが独特の存在感を放っている。


「……おれは、三織さんの元交際相手に、会ったこともないのにこんなことを言うのはなんですが」

「はい?」


「人の好きなものをそんなふうに言う人は、狭い世界に生きている、思いやりに乏しい人間ですよ」

「それはたいてい、オタクが言われそうなせりふ……」


「とはいえおれだって、三織さんにそう言ってもらえるほど、できた人でもなんでもありません。でも三織さんのよさは、まだ知り合ったばかりですけど、分かってるつもりです。それは、取柄なのかもしれませんね」


 壮弥くんは、観覧車から離れてもまだ、私と手をつないでくれている。

 またいつかのように、転ばないようにだろう。私も、大丈夫だから放してくださいとは言わない。とても言えない。

 日の光の下で、壮弥くんと会うのが好きだ。

 でもそれ以上に、暗くなっていく空間を、壮弥くんと歩くのが好きだ。

 トワイライトブルーに包まれながら一緒に歩いていると、どんな人波の中にいても、まるで、空気と同じ温度の水の中を二人だけで泳いでいるみたいな気分になる。

 ふとある言葉が頭に浮かんだ。

 でもそれを、心の中でも読み上げない。

 まだ。まだ気づかずにいたい。その線路に乗ってしまうのは、私には、怖いことでもあるから。ようやく、男の人と手をつないで、歩いているだけの私だから。


「あれ」


 ふいに聞こえた声は、やけにまっすぐに、私の耳に届いた。

 女の人の声。知り合いじゃない。心当たりはない。でも、私に――私たちに向けて、その声は確かに放たれていた。

 声のしたほうに顔を向ける。壮弥くんもそちらを向いていた。

 にわかに、いくつもの声が束になって送られてきた。


「わあやっぱり、緒田くんじゃん。今日ここで遊んでたんだ? うちらもだよう」

「え、緒田くん? マジ?」

「うわマジ緒田くんだ、えーなに……あれ!?」


 壮弥くんが私に、「三人ともクラスメイトです。偶然だなあ」とこともなげに言ってきた。

 へえ、そうなんだ。じゃ、三人とも女子高生ってことで。それにしても、ミニスカートから細い足を大きく出していたり、大人っぽいメイクをしていたり、見覚えのあるブランドのバッグを持っていたり……

 私が高校生の時にもそういう子がいたように、彼女たちは教室の中でもトップクラスに目立つ女子たちなのかもしれない。

 あ。これは、もしかしたらまずいのでは?

 私がそう思ったのと同時に、三つの声が揃って叫ぶ。


「彼女!?」


 三人の女子高生の視線は、まっすぐに私に突き刺さっていた。

 そして次に、私たちがつないだ手に向かう。

 どうしよう、と私は壮弥くんに視線を送った。

 すると壮弥くんは、三人に向かって言う。


「うん。そう」

「壮弥くん!?」


 ぎゃあ、と悲鳴のような声を三人が上げた。

 壮弥くんはひそひそと小声で私に告げる。


「すみません。でもそういえばおれ、今三織さんの彼氏でした」

「嘘のね!?」


「でも遊園地で手をつないでる女子と、なんの関係もないっていうのは、さすがにちょっと」

「正直に、あるがままを言えばいいじゃないですか」


「正直に……あるがままを……? いや、それは」

「けっつまずきやすい人の手を取ってあげていたんだって、真実を伝えればいいんですよ」


 壮弥くんの動きが止まる。なんだか今日、こういうことが多いな。

 三人の女子高生は、ぱたぱたとこちらに近寄ってきた。


「わーかわいいー! 細い黒縁眼鏡もかわいい!」

「えーなに、どこで会ったんですか!? うちの生徒じゃないですよね!?」

「でも邪魔しちゃ悪いよ! あっでも彼女さん、月末の文化祭はきますよね!」


 文化祭? と、私は再び壮弥くんを見る。


「うちの高校、五月末が文化祭なんです。もし三織さんがよければ」


 ミオリさんだって、きゃー! と高い声が響く中、私は即答できずにいた。

 果たして、私が行っていいものなんだろうか? 場違いだったりしないかな。


「おれは、三織さんがきてくれたらうれしいですけど」

「行きます」


 女子三人と別れて、私たちは、水道橋の駅に向かった。すぐに電車が来たので、乗り込む。

 最後ににぎやかなことになったけど、それでも打ち消せないくらい、一度頭の中に浮かんだ言葉は、ずっと鳴り響き続けている。

 壮弥くんが電車のつり革を持っている。

 その横で、他愛ない話をしながら、私は何度もこっそりと、その横顔を見上げた。


 壮弥くん。私はあなたのことが好きになってしまいました。



 一体どういう心身の作用なのか分からないけれど、翌日の同人イベントは、思いもよらないくらいに体調が抜群に良かった。思えば、いつもは作業を前日まで詰め込んで、へろへろで参加していたような気がする。気がするというか、確実にそうだった。

 いろいろな声でざわめく会場の中、自分のサークルの出展準備をしていると、自分のところの設営を済ませたオタク仲間があいさつにきてくれた。

 主にBL作品で活動している、黒のパンツスタイルが決まっているお姉さんだ。


「そうそうツミさん、千葉だったよね? 北西部で、オタクのストーカーが捕まった話知ってる?」

「え、なんですかそれ」


 柏は、ずばり千葉県北西部だった。


「女性同人作家ばっかりを狙ったストーカーがいたんだけど、最近捕まったんだって。なんでもターゲットにしてた同人作家が五人くらいいて、そのうち一人をストーキングしてた時に、作家さんの協力者がつかまえたらしいよ。ニュースにもなってるけど、オタクの間では有名なやつらしくて、同人の間でのネットワークのほうが早くて細かいね」


 ……おお?

 まさか、それは。

 私は、その犯人の特徴や、つかまった経緯をなるべく詳しく聞き取って、壮弥くんにメッセージを送った。

 イベント開始後しばらくして、壮弥くんから返信がきているのに気づいた。人相風体から見て、前に壮弥くんがつかまえかけた男性に間違いないみたいだった。

 よかった。胸をなでおろす。というか五人も標的にしていたとは……。

 スペースの前に人影が見えたので、慌てて立ち上がる。


「こんにちは! よかったら、手に取って読んでみてください」


 そう告げた相手は、高校生くらいの女子だった。なんとなく見覚えがある気がする。今までに何度かきてくれていた子かもしれない。

 でもその子は、私と新刊を見比べると、さっときびすを返してどこかに行ってしまった。

 ううん、表紙の時点でお気に召さなかったかな。まあ、こんなことは珍しくない。イベントに参加したはいいものの一冊もはけない、なんてことが一次創作オンリーイベントでは珍しくない。そんな中で、今回の新刊も完売ペースだった。

胸中で、壮弥くんとあんなちゃんにお礼を述べる。


 でも、ストーカー、つかまったんだなあ。

 それはもちろん、喜ばしいことなんだけど。

これで、壮弥くんが、私の嘘彼氏を装う必要はなくなってしまったんだな。

 少し寂しかった。



 ところが。


「ありがとうございます、三織さん。せっかくの休日に、おれの学校まできてくれて」


 私は、五月末の日曜日、壮弥くんの高校の文化祭にきていた。

 ひっそりと大人しく見て回ろうと思っていたのに、最初に壮弥くんの教室に挨拶しに行ったら、例の三人の子たちがしっかりと大きな声でクラス中に私を「緒田くんの彼女だよ!」と紹介してくれたので、一気に騒ぎになってしまった。

 壮弥くんも、「そういうわけで、今日は彼女でお願いします」と耳打ちしてきた。……願ってもありません。


「おれのクラス、ベルギーワッフル店なんですけど、ひと段落したら抜けられますので」

「え、いえ、いいんです。壮弥くんの迷惑にならないように、一人で回るつもりでしたから。お友達と約束とかあるでしょう?」


「ないですよ、三織さんを誘っておいてそんなわけないでしょう。っていっても、文化祭今日で三日目ですから、昨日までにシフトも友達との予定も充分済ませてるんですけどね」


 結局その日は、半日ほど、壮弥くんを独占してしまった。

 当たり前だけど、校内にいる人はほとんどが高校生で、自分もほんの二年前までは同じ立場だったとは思えないくらいはつらつとしている。

 中でも、壮弥くんは目立っていた。廊下を歩けば女子が振り返るし、教室展示や露天に顔を出せば男子が声をかけてくる。


「陽キャ……!」

「言われるかな、とは思いましたけど。そんなんじゃないですよ、たまたま高校で知り合いが多くできただけで」


「それを陽キャと言うのでは」

「自分ではどちらかというと、内向きな人間だと思ってるんですけどね」


 壮弥くんが頭をかく。

 途中、校舎二階の教室で、コスプレ喫茶をやっていた。店員役の生徒さんだけでなく、お客もコスプレができるらしい。


「私の高校、こんなにいろんな企画ありませんでしたよ」


 そう言って、ドアから中を覗いて、どんな衣装があるのかを見てみる。

 学校の制服、チャイナ服、ゴスロリ、作務衣……といろいろ取り揃えてあった。

 つい、ちらりと壮弥くんを見てしまう。すると、


「言っておきますけど、女装はしませんよ、ここでは」


 壮弥くんが半眼で言った。


「えっ!? い、いやですねえ、ちらっと思っただけですよ!」

「おれのバイトのこと知ってる人、学校にはいませんからね。そのために、うちの近くっていうよりは学校から離れたところを選んで、柏にしたんですから。念のため、アンドロアンサスのホームページにもおれは載せないでおいてもらってますし」


「私は、壮弥くんのアルバイトが、いかがわしいものとは思いませんけど……誤解を生みそうかな、とは思うことがあります」

「そゆことです。……三織さんは、なにか着てみたい服ありますか?」


 急な提案に、へっ!? と声が出てしまう。


「い、いえいえ! 私、コスプレなんてしたことないですし!」

「ここの服着るだけですから。きてもらった記念にでも」


「き、記念て言っても……あ」


 私の目に、一つの衣装が止まった。

 えんじのジャケットに、チェックのプリーツスカート。細くて上品な赤いリボン。


「あれって、この高校の制服ですよね」

「冬服ですね。あれでいきますか?」


「……はい」

「オーケーです。あ、ねえ、あれ借りたいんだけど」


 壮弥くんが、係の生徒さんに素早く声をかけ、更衣室へ案内してくれた。

 自分の高校とは違うところの制服を着る機会というのは、あまりないと思う。

 それだけでも新鮮だったけど、その服を着てみたかったのは、


「……これで、壮弥くんと、同じ学校の生徒に見えるかな」


 着替え終わって、姿見に自分を映しながら、そうつぶやく。

 壮弥くんのほうが背が高くて大人びているので、私が先輩には見えないかもしれないけど。

 壮弥くんのところへ戻ると


「わあ、似合いますね! 私服以外って新鮮! 三織さんが先輩でいてくれたら、学校がもっと華やぐのにな」

「は、華やぐことはないと思いますけど。でも私も、壮弥くんがいる学校なら、とても通いがいがあると思います」


 とても穏やかで、代り映えのしなかった、私の高校時代。

 悪いものではなかった。ほとんど自分の想定通りの毎日を送ることができた。

 それでも時々、つらい思いをすることはあった。

 壮弥くんがいたら、感情が激しく起伏する日々で、そんなつらさは忘れてしまうような高校生活だったかもしれない。

 思わず、架空の、私と壮弥くんの高校生活を思い浮かべそうになった。いや、ここはしっかり追及して、次の同人誌のストーリーに採用してもいいかもしれない。ラブコメなんて、描いたことはないけど。


「壮弥くん、言い損ねていましたが」

「ええ」


「久しぶりに制服姿が見られて、私こそ新鮮です」

「あ、そういえば。では三織さん、せっかくなので写真撮ってもいいですか?」


「えっ。この格好でってことですよね?」

「もちろん。貴重な機会なので」


 ウェイター役の生徒さんに頼んで、壮弥くんのスマートフォンで撮ってもらった。

 後で送りますね、と壮弥くんがにこにこ笑っている。

 その時、五人ほどの男子の集団が、廊下を通ってきた。


「あ、緒田じゃん。よう」


 五人が五人とも壮弥くんと顔見知りらしく、口々に挨拶してくる。

 そして、


「あれっ。その子今の彼女!? 知らない子じゃん、何組?」


 茶髪で長身の男の子に顔を覗き込まれ、少し狼狽しつつも


「あ、私、ここの生徒ではなくて……」


 とだけ、なんとか口にする。


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