8頁目 「モノクロの長い道のりを経て、やがてその名に相応しい場所に美しい花を咲かす」
金曜日の夜、俺はまたしても夜食のためにコンビニを訪れた。
「ーーふふっ、いらっしゃいませ」
そこには当然神崎も居て、入店してきた俺に微笑みかけてきた。
慣れてきたとはいえ、未だ恥ずかしさが後を絶たないのは俺がこれまで女子との接触の機会を逃してきたからだろうか。それとも、神崎小折という大物がコンビニという気軽に立ち寄れるお店の店員なんかしているからだろか。
いずれにせよ、俺はいつも通り、夜食のお菓子とジュースという決まった品物を携えてレジに向かう。
「あれ、またカフェオレを二本買ってる。またボクに差し入れしてくれるのかい? ありがとう。でも毎回じゃなくてもいいんだよ? 何か流れで差し入れを貰ってしまっているけど、それだと君も大変だろ」
「いいんだよ。オレがそうしたくてやっていることだ。それに、就業時間ギリギリまで働いているのに、俺はそれを他所に神崎が働いてるコンビニで呑気にお菓子を買いに来てる。こっちにだって気まずさってものがあるんだよ」
「全く……だらしないのか律儀なのか分からないな君はーーもう少しで終わるから待っててくれないかい? 着替えたらすぐ出てくるからさ」
「別にゆっくりでいいよ」
神崎は呆れ気味で小さなため息をつき、レジを終えたあとで着替えのためにレジの裏に消えていった。
そして俺はコンビニの外で一人、少しの間の待ちぼうけを喰らう。そしてーー
「やあ、おまたせ。それじゃいこうかーー」
「ほれ」
「ふふっ、どうもありがとう」
一本分余計に買ったカフェオレを神崎に渡すまでがこの金曜日の夜の流れなのだ。加えて、そのあと一緒に他愛のない話をするまでがセットだったりもする。
「ーーそれにしても、最近は山本君とも一緒に居るみたいだね。少し意外というか」
「まあ俺自身も意外だったよ。俺の人生においてあんな不良もどきと仲良くなる日が来るなんてな」
「やはり不良ではないのか。成績を見る限りただの不良ではないことは感じていたが。旗から見てもどうしても近寄りづらくてな。なかなか声を掛けることが出来なかったんだ」
ほれ聞いているか山本よ。やはり人は見た目の第一印象には抗えないのだ。お前がどれだけ優しい奴でも、周りからそれを理解されなければ意味がない。つまり山本、お前は損するタイプの人間なのだ。でもあいつの場合、損得で判断するような奴には見えないが。
「神崎も山本と話してみれば分かるよ。あいつは見た目はアレでも良いやつだからさ。それに、めっちゃ面白い裏の事情もあるしな」
「へぇ、それじゃボクも山本君と話してみようかな。ますます気になってきたからね」
すまない山本。神崎が、実は山本がロリコンだと知った時の反応が見てみたいのだ。
などと、友達が他の人に絶句される姿を想像するだけで笑いがこみ上げてきそうになる。
「ーーところで、最近気になることがあるのだが、良いだろうか」
「ん? 何だ?」
そこで神崎は少しばかり神妙な面持ちで話を始めたーー。
◆◆◆
そして月曜日、俺は教室に入るとやはり、ここ最近の違和感が急激に増していくのを強く実感した。
「ねぇ、やっぱりあの噂は本当なのかな?」
「んーどうだろう。でも見た目的にねぇ……そういう噂が立っても仕方ないというか……」
「なぁお前声掛けてみろよ。もしアレがホントならいけるかもしんないぞ」
「ばーーならお前が行けよ!」
そんなヒソヒソ声が教室のあらゆる所から聞こえてくるのだ。誰か一人や二人が話しているならまだいい。だがここ最近、クラスメイトの誰もがその話題に夢中になっているのだ。
「ーーホント、ここの連中はつまんないことばっか考えるよな」
「河野か」
やれやれとばかり頭を掻いていた河野と山本が近寄ってきた。
当然、それらは彼らの耳にも届いているらしく、詳しくを知らない俺は尋ねることにしてみた。
「ていうか、一体何があったんだ?」
「アレだよアレ」
そう河野に指を差された一人の女子。
名前は花崎美咲。
教室ではいつも一人携帯を弄り、乱れた制服に胸元ははだけている。髪は明るい赤に染め上げられ、お決まりと言ったピアスまで空けている。所謂ギャルというものだ。何やらそこのロリコンとシンパシーを覚えるところもありそうだが、寧ろこっちのヤンキーとは縁遠いものだろう。
「何でももっぱら花崎は"援交”してるって噂が立っているんだよ。他のクラスにもその噂は出回っているみたいでよ」
「援交ねぇ‥…」
援助交際ーー通称"援交”と呼ばれるそれは、簡単に言えば女がお金を要求して男と行為に及ぶことを指している。主に未成年が行う売春行為だ。当然、そんなことを許す学校は全国どこを探しても見つからないだろう。そもそも見つかったら即刻御縄行きとなるが。
「でもまあ火のないところに煙は立たないって言うしなぁ……」
「ああ。実際、年上らしき男やおじさんと一緒に歩いてるのを見た奴もいるらしい」
そんな補足説明を加える山本に一つの疑念が生じる。
「いや何でお前友達居ないのに分かるんだよ」
「これだけ囁かれてれば嫌でも聞こえてくるんだよ。てか、何でテメェは知らねぇんだよ。他のクラスならまだしも、同じクラスだろーが」
まさにぐうの音も出ない意見ではあるが、俺は休み時間などは殆どぼーっと過ごすか、寝ていることしかないため、クラスの最新情報は基本耳から入ってこない。なのでこのように実際に目の当たりにしないと分からない事だってある。
「つーか、河野なら話聞けば良いんじゃねーの? お前なら耳傾けてくれんだろ」
「もうとっくに話し掛けたさ。これよりも噂が広まる前にな。でもまあ何でもないだの、キモいから話し掛けてくんなだの、散々な言われようでな。花崎に話し掛ける度に俺のメンタルがすり減っていくんだわ」
「お、おう……それはすまんな」
分かりやすく肩をがっくりと落とす姿に見てもいられず思わず目を背けてしまう。
しかし、俺の見込みが甘かったのか、河野にかかれば誰でも口を開くものだとばかり思っていた。誰でも分け隔てなく接し、話し上手と聞き上手の両方を兼ね備えたコミュ力の化け物。そんな河野ですらまともに聞く耳持たないとなれば、花崎は相当に他人に興味がないのか。はたまた別の理由があるのか。
なにやともあれ、唯一の手札にして唯一の切り札を早々に失ってしまったのは痛すぎる。
「ーーつか、花崎の件って何か証拠があるのか?」
援交なんてヤバい噂が立つくらいだ。もしかしたら誰かの見間違いかもしれない。花崎だって見てくれは美人の類に含まれる。彼氏の一人や二人いたって不思議じゃない。
「ああ、あるぞ。友達から回ってきたんだけどーーほれ」
「え、マジ? ……あ〜……」
河野はすぐさまスマホを取り出し、その証拠と成り得る写真を俺に見せてきた。その余りの早さにミジンコにも満たない期待があっさりと裏切られてしまった。
そこに写っているのは明らかに年上のーー何なら世間からはおじさんと評価されてもいいスーツを着た男と手を繋いでいる写真。その相手は間違いなく花崎本人だ。二枚目の写真は大学生だろうか。これもまた年上のイケメンと手を繋いで歩いている写真。
どこの優秀なパパラッチが激写したのかは定かではない。いや、撮影した本人も偶然この光景を目にしたのだろう。この写真を一番最初に撮影した人が言いふらし、これを広めた。
噂は空気感染だ。
誰か一人から始まって広まり、瞬く間にそれが伝染していく。耳を持つ者が、目を持つ者が、それに触れさえすればあっという間に感染する。これを解決するには、最早空気と戦うのに等しい。
「な? 花崎もこれがあるから、何も反論しないんだろ。ま、そもそもこれが真実かもしれないしな」
「なるほどな……んじゃま、しゃーねーか……」
◆◆◆
そして迎えた昼休み。
ルーティンである外の自販機でカフェオレを買う時間。一ミリの期待しない自販機のガチャ。今まで四桁のゾロ目が出た試しがなく、必ず最後の一桁が一つ違う数字で外れの羅列が完成する。そんなどうしようもなく当たり前な光景を今日もしかと目に焼き付けて俺は教室へと戻る。
しかし、戻る途中でふと視線がとある人物に注がれる。その人物がベンチに腰掛けている場所ーーそれは、大きな桜の木を囲むようにベンチが敷かれている場所。夏には涼を求めてこの桜の木の陰に集まる生徒も多い。この学校の生徒にとって憩いの場でもある。誰もがここを『桜の木の下』と話せば伝わる。
そんな所に一人、哀愁漂う女子の姿ーー花崎美咲がそこにいた。
「ーーボッチ飯か。楽しそうだな」
「びっくりしたーーってか、何だ名取かよ。一人で飯食って悪いか?」
「いや悪かねーよ。俺も経験者だからな。その心情は理解できる。やっぱ一人の時間って大切だよな」
「何が言いたい? つか邪魔なんだけど、どっか行ってくんない? 落ち着いてご飯食えやしない」
「確かになーーそれじゃ、どっこいせと」
そうして俺は今は海外の人になりきって、日本語が通じない人を演じて花崎の隣に座る。詳しく言うと人ひとり分空けて座り込んだ。
「は? アンタ人の話聞いてた? 何で隣に座るのよ。キモ」
「俺もたまには女子と話してみたいんだよ。ちょっと話し相手になってくんね?」
やべ、久しぶりに面と向かってキモいとか真正面から言われるとやはり傷付くものだな。でもこればかりは明らかに俺がどう見てもキモいので言い訳できない。
「何でアンタみたいな馬鹿と喋んなきゃならないわけ? 馬鹿が移るから止めてくんない?」
「馬鹿かどうか分かんないだろ? 今まで喋ったこと無いんだし」
「アンタ最近、山本とも仲良いじゃん。この間の休み時間、アンタ達三人でグラビアの話で盛り上がってたでしょ。周りに普通に女子が居る中、あんな大声で話す内容じゃないのに。そんな奴らを馬鹿と呼称しないで何と言うわけ?」
淡々と正論の中にド正論を織り交ぜた正論パンチに一瞬にしてグロッキーになってしまう。打たれてもいないのにみぞおちが痛くなるのは言葉の暴力が実態となって俺の腹を殴ってきているからだろうか。
このまま俺が不利な状況のまま話を進めたら体力が保たない。ここは強引にでも話題を変えてリジェネ効果で徐々に回復するのを待つしかない。
「ーーにしても、可愛らしい弁当だな。お、卵焼きじゃん。甘い?」
「甘いわよ」
「おーいいねー。花崎のお母さんは分かってらっしゃるな。やっぱ卵焼きと言ったら甘いのがーー」
「いやこれアタシが作ったんだけど」
「は?」
おおよそ女子が昼休みに食べる分には足りるであろうピンクの小さな弁当箱に、素人目で見ても手の凝ったものであると分かる。それの作ったのが、ここにいるギャルギャルしい花崎本人なのだと、そう告げられた。
「その反応は失礼じゃない? アタシだって料理くらいするわよ。男だって将来のお嫁さんは料理が出来る人で〜とか理想論をこねくり回してるじゃない。じゃあ何で、いざそれが現実になった時、そんなに絶句するのよ。ホント、男って勝手な生き物ね」
「わ、悪いっ! 別にそういうつもりじゃーー」
そこで、俺はあらぬことを考えてしまう。それは朝、エプロンを纏った花崎がウキウキで楽しそうにお弁当作りをしてる光景。キャッキャウフフと、この全く感情を表に出さない花崎の、あり得るかも知れないイフの姿。もしそんな姿が拝めるのだとしたら、幾千幾億のパラレルワールドを駆け巡って見つけなければいけない。
そんな下卑た想像が顔に出ていたのか、花崎は一歩俺から離れた。
「アンタ……何かヤバいこと想像してるでしょ。キッモ」
わざわざ女子から食べ物をつまみ食いするつもりもないのに、さっとお弁当箱を隠す仕草をする花崎。
「ーーてかさー、いい加減まどろっこしいの止めない? どーせアタシの噂について聞きに来たんでしょ」
目線は下に移したまま、食べ物を口に運んでいた箸の動きもピタリと止み、そう切り出してきた。
隠しても無駄、ということだ。タイミング的にも男子が花崎に話し掛ける理由なんてこれの他にないだろう。俺も最初からそのために花崎に話し掛けた。
「あぁそうだよ。単刀直入に聞くけど、援交してるってのは本当なのか?」
「だったら何だって言うの? アタシがそれを肯定した時、アンタは何が目的? アタシの体目当てなの?」
そう言って花崎は自分の胸に手を当てた。確かに神崎がぶら下げているそれはよく見なくても男子から視線を浴びるだろう。大人の大きさに成長した豊満な胸に興味を抱かない男はいない。だが、今はそんなことを言ってる場合じゃない。
「何でこの年で金払ってまでそんなことすんだよ。大人になってからゆっくり楽しむわーーまあ? どうしても触ってほしいと言うなら期待に応えなくもないけど」
「は? 誰がアンタなんかに触らせるかってーの。馬鹿の発言も休憩を挟みながらにした方が良いわよ」
「じゃあ事実ってことで良いんだな? 俺は別にどうでもいいけど、このままじゃ面倒な事になるぞ」
「もうとっくに面倒な事になってる。今更これ以上のことなんてないでしょ」
「……それもそうか。後はせいぜい親が呼び出されるくらいかーー」
「それだけはダメ!」
ここで初めて花崎が声を荒げた。手に力をこれでもかと入れ、これが割り箸なら折れていたかもしれない。歯を食いしばり、冷や汗が頬を伝い、かなり焦っているのが分かる。
「ダメって言ってもなぁ。今は奇跡的にまだ教師たちの耳に入ってないのが幸いだけど。このまんま時間がすぎればいよいよそれも現実味帯びてくるぞ」
学校の生徒が援助交際をしているなんて噂が教師に伝わってしまえば、まずは最初に本人が呼ばれる。その場で肯定するにしても否定するにしても、親が呼ばれる結末は変わらないだろう。ここで駄々をこねても、そうなる未来は時間の問題なのだ。
「親だけは絶対にダメ! それだけは、絶対に……!」
今度は徐々に声が小さくなっていく。
親が呼び出される事実に、やたら花崎は抵抗している。
この噂が立って以来、恐らく花崎にはそういう目的で近付いてきた男も少なくないだろう。しかし本人はそれに対しては目を瞑り、横へ流してきた。仮に俺が女子なら、親よりも男が寄ってくることに嫌悪感が生まれる。しかし花崎の場合は親に対しての反応が過敏だ。それ程までに厳しい家庭なのか、或いはもっと違う別のベクトル。
「じゃあ何で援交なんかしてんだよ。いずれ公になるかもしれないのに。そんな事が分からない馬鹿でもないだろ」
「ーーじゃない……」
「え?」
「援交じゃない……。アタシは、援交なんかしてない……」
「じゃあ何してんだよ。やっぱ普通に彼氏か? 何か二人居るみたいだけど」
「本当の彼氏じゃない。出回ってる写真は偽りの彼氏ーーつまり、アタシはレンタル彼女をやってんのよ……」
「レンタル彼女か……」
暴かれた正直の真実ーーそれは、花崎は援交しているのではなく、レンタル彼女をしていたのだ。
レンタル彼女とは言葉通り、偽りの彼女を演じ、その場限りの偽物の恋人をする彼女代行サービス。男はキャストである女の子にお金を払い、女の子はその人の恋人欲求を満たす役割を果たす。援交とは一線を超えないバージョンであるともいる。とはいえ、この行為も未成人なら完全にアウトなのだ。
俺はふとスマホを取り出し、来るはずもないメールアプリを開いて弄り始める。
「何でレンタル彼女なんてグレー寄りのレッドラインを選んだんだよ。金が欲しいのか?」
「お金が欲しいわけじゃないーーいや、嘘ね。お金は欲しい。でもそれ以上に価値のあるものが欲しかったんだと思う」
「思うって言われても……。金が欲しいなら普通のアルバイトすればいいだろ。レンタル彼女の相場は知らないけど、危ない橋を渡るよりは断然そっちの方がいいだろ」
援交やレンタル彼女のことは詳しくは知らないけど、コンビニやスーパーのレジ打ちより割高なのは間違いないだろう。しかし大抵の女子高生なら売春行為なんて自分の身を捧げうようなことはしない。メリットよりもデメリットが目立つ上に、そもそも好きな人以外に身体を触られたくないという意見が目立つだろう。
そんな分かりきっている一般論を逆撫でして人生を棒に振ってまで、そっち路線のアルバイトをすることに違和感しか覚えない。
「……アンタ、口は軽い方?」
「へ? まあ、言いふらす奴もいないしな」
「アタシは所謂、母子家庭ってやつでね。物心がつく頃にはもう父親は病気で他界。だからアタシの母親はいつも夜遅くまで働いているのよ。お陰様でアタシは親との時間より、一人でいる時間の方が必然的に多くなったーーさて、お馬鹿な名取君? ここから先のことは、そのシワの少ない頭の中身でも分かるかな?」
ここで初めて、花崎は俺と目を合わせた。それは霞んでしまったような虚ろな眼。
ここまで説明されて、感づかない人の方が少ないだろう。
一言で言い表すのも簡単すぎる答えーー。
「寂しいってか」
「はははっ、笑っちゃうだろ? 母親に相手にされなくなった幼い少女は、この年まで愛に飢え続けた。いつの日かそれは心の成長とともに愛を汲み込む器だけが大きくなり、ちょっとやそっとの水の量じゃ満足できなくなってしまった」
「だからレンタル彼女なんてものを選んだのか。お前は偽りの彼女を演じるだけじゃなく、その相手から偽りの愛情を注いでもらうためにーーその寂寥感を埋めるために」
俺は幸運にも、家庭には恵まれている。父親にも母親にも何なら姉にも、平等に愛情が注がれている。この問題は、恵まれた環境に産み落とされた者には分からない。これは、そんな悲惨な環境で育ってしまった者にしか分からないーー分かってはいけない問題。”悲惨”なんて言葉は、当の本人に言ったら憤怒するだろうか。言葉足らずな俺は、心の奥ではそんな不躾な言葉しか思い浮かばない。同情するには、余りにも環境が違いすぎる。そんな上辺だけの薄っぺらい言葉じゃ、花崎の心を逆撫でするだけにしかならない。
「でもどうしてだろうね。幾らお金を積まれても、生易しい言葉を吐かれても、アタシの乾きが潤うことはなかった。それなのに、親に褒められれば顔を赤くして喜ぶし、親が居る間は空いた穴が塞がるの。結局のところ、アタシは本格的にまだ幼いのよ。親から与えられるべき何かを、アタシはまだ足りてないのよ」
「親に恨みはないのか?」
「は? あるはずないでしょ。アタシのために夜遅くまで働いてるのよ。そんな親を誰が恨むっていうの。贅沢にもほどがあるでしょ。だから、そんなママには迷惑をかけたくない。でも、もう遅いのかもね。こんなにも噂が広まったんじゃ収集がつかないし」
「……なあ、本当に援交はしてないんだな?」
「だからしてないって」
「親にも迷惑をかけたくないんだな?」
「だから、そうだって言ってんじゃん!」
ここまで執拗に問いかけるには勿論理由がある。親の愛情に代わる何かを俺が花崎に与えることは出来ない。それが俺以外の誰かであっても。しかし、こうやって花崎の決意の表明が聞けたのだ。俺が知りたかったのはたったこれだけ。それだけで、俺が動く動機には充分すぎる。
俺はスマホを弄って送信ボタンを押した。
そう、たったこれだけの仕事。あとは後続の人間が上手くやってくれるのをただひたすら祈るしかない。
「ま、お前の告白はちゃんと届いたよ」
「アンタなんかに届いてもしょうがないんだけど……。でもまあいいや。何かスッキリしたし、ちょっとは気が楽になったわ」
そう言って食べかけの弁当に蓋をし、花崎は立ち上がる。
その表情は何か吹っ切れたような、悪いものでも振り払われたような。決意が固まった一人の少女の微笑み。
だが、まだ花崎のここでの役目は終わっていない。
「まあ待てよ。お前はまだここに居ないと意味がない」
「……なにそれ、どういう意味ーー」
「名取君、待たせてすまないな」
聞き覚えしかない女子の声が花崎の声を遮って、風の隙間を縫って届いた。
「か、神崎? それに天宮まで……。一体何の用だ?」
「こんにちは、花崎さん。私まで後を付いてきてしまい、申し訳ございません」
「ーーじゃ、後は任せたわ。花崎のメッセージはちゃんと届いたよな?」
「ああ、おかげで。確かに届いたさ」
「な、何なんだ、一体……」
「花崎、俺にとっては別にお前がここで枯れようが構わないけど、どうせならちゃんとした鉢に植え替えた方が良いだろ。花が咲くとしたら、どうせならそれに相応しい場所がお似合いだからな。勝手にそこで養分でも吸ってるんだな」
ようやくここでの仕事を終えた俺は席を立ち、教室に戻る。本当の最後の仕事は、この後の結末を見届けることだ。正直ここから先は、なるようになるしかない。横目で神崎の目を見て、俺はその場を立ち去る。後は女子同士に任せるしかない。
「ーー何で神崎たちがここに来たんだ」
「正直に話すと、元々はボクが彼にお願いしたんだ」
「お願い?」
「ああ、何とか花崎さんの事情を掴めないかってね」
それは昨晩、名取と神崎がコンビニから帰宅している最中のことーー
◆◆◆
「ーー花崎に変な噂?」
「そうだ。どうやらここ最近、彼女を中心に悪い噂が立っていてね。それの真実を確かめたいんだ?」
「いや何故それを俺に……?」
俺は神崎からある依頼を受けた。それは現在、クラス内外で花崎のとある噂が広がっていることについてだ。俺も最近教室で何やらヒソヒソ話がやたら聞こえてくることに疑問を抱いていた。だが、あまり面倒なことに関わりたくないがために、今日までひっそりと鳴りを潜めたいた。
しかしどういう因果で何の因縁があってか、神崎は俺にそのことについて花崎から何か聞き出してほしいとのこと。当然、真っ先に口走るのは何故俺なのか。
そもそも俺は花崎とは入学してから一度も会話をしたことがない。それは他のクラスメイトにも言えることなのだが、彼女だけは雰囲気が違うのだ。まるで人を寄せ付けないーー寄せようともしない物々しい雰囲気がひしひしと感じるからだ。
例え普段俺から誰かに近寄ることもないのだが、花崎だけは誰もが近寄りたくないという目に見えないバリアでも貼っているかのような感覚がある。それは他人に興味を示そうとしない彼女が無意識に発するものかは不明だ。だから、そんな根本的に関わりがない俺よりも同じ女子同士ならまだ話す余地があると思うのが普通だ。
「ボクが話し掛けたのでは変に警戒されてしまうからな。これでもボクは自分のことは理解してるつもりだ。ボクは誰にでも優しい。でもそれは、見方によれば怪しい一面でもあったりする。誰にでも優しいというのは、自分が思うよりも不気味がれるものだろう?」
「だから別に俺じゃなくても。俺なんてホントに何の接点もないんだぜ?」
「だからこそじゃないか。特に君は基本一人で居るときの方が圧倒的に多い。こういっては何だが、花崎さんも常に一人でいる身だ。何にでもない同士なら、警戒心も薄れるんじゃないか?」
随分と自信満々に鼻高々と豪語しているが、一言一句俺に対して失礼なことを言っていることに気付いているのだろうか。
しかし神崎の意見には一理ある。クラスの人気者が問題を抱えた人間に歩み寄った時、考えられることは二つある。
一つは、クラスの人気者ーーつまり、誰からも信用される人物から話を聞かれ、心を許してしまうこと。これは信頼における安心から来るものだろう。この人に話せばもしかしたら解決してくれるかも。そうじゃなくても何かしらのキッカケになるかもしれないと。
二つ目は、クラスの人気者であるが故に警戒されること。人は誰からも脚光を浴びる人間にほど、その裏を疑ったりするものだ。それはただの思い違いかもしれない。それでも、何か自分にとって利益に繋げるために敢えて善人を演じる悪どい人間も存在する。
これはあくまで直感でしかないが、花崎の場合は後者の予感がする。それは何か決定的な証拠があるわけでもない。彼女の教室での態度や周りからの評価ーー人間性を買ってのことだ。
つまりこの場合、神崎の指摘通り、俺が適任ではあるのかもしれない。クラス内で数少ない、殆ど信頼されていない人間だから。
自己分析してて悲しくなり、それと同時に重大な使命が与えられたことに深いため息をつく。
「まあいいけどさ、期待はしないほうが良い」
「ふふっ。『無理』と言わないだけの分は期待させてもらうよ。何か分かったら直ぐに教えてくれ。頼んだ手前、ボクに出来ることなら協力はするよ」
「ああ、適当にやってみるわ」
そうして、俺は確約出来ない神崎の申し出を受けたのだ。
(あ、てか俺、神崎の連絡先知らないんだけど……)
◆◆◆
名取がその場からいなくなり、女子同士の一触即発のような雰囲気が辺りを支配していた。
「ーーで、アンタは名取とグルだったわけか。何でそんなアタシのこと気にすんだよ。適当に無視すりゃいーじゃん。今までアタシ達まともに話したことないんだしさ」
「そうだね。ボクも自分のステータスを優しさに割り振っているわけじゃない。君のしていることが事実だったとしても、軽く説教して止めにかかるくらいだろうな」
「結局止めるんじゃん。別に関係ないじゃん。アンタ達に迷惑かけてるわけじゃないんだし。アタシが何していようと自分の勝手でしょ? 関係ない奴らにとやかく言われる筋合いなくない?」
「確かに、ボク達には何も迷惑は掛かっていない。でも君、母親に迷惑が掛かるかもと思っていま内心焦っているんだろ?」
唐突に告げられたそれに花崎の目が大きく開かれる。
何故この女がそんなことを知っているのか。その話はたった今、名取相手にしかしていない。無論、他の誰にも話したことのない仮面の内側の話。
「何で、それを知って……」
「これだよ」
そして神崎が取り出したのはスマホ。
「スマホ……?」
徐ろに取り出したスマホを操作していると、そこから聞き覚えのある音声が流れ出した。
『アタシは所謂、母子家庭ってやつでね。物心がつく頃にはもう父親は病気で他界。だからアタシの母親は――』
それは正真正銘、自分の音声。そして語られていたのはさっきまで名取としていたやりとり。
「なんで、そんな……」
「名取君は君と話している時にスマホで録音をしていたんだよ。君の仮面のその内側、それの確固たる証拠を掴むために。ボクもこのやり方は賛同しづらいのだがね。でもお陰で、君を納得する理由が出来たよ」
花崎自身、名取が何やらスマホを弄っていることは確認していた。人との会話の最中にとても不躾だなと。
「ーーまさかさっきのは……!」
そこでようやく理解した。名取が去り際に神崎に言った「メッセージはちゃんと届いたか?」のセリフ。録音していた行動の理由がそれを神崎に渡すこと。その用意周到さに不気味さえ感じるが、全てはそれを受け取った神崎が音声を振りかざして自分に鉄槌を下してもらう算段なのだ。
決して語ることは無かった己の弱さ。誰もが抱えるそれを知られたくはなかった。名取はそれに該当しない。彼は完璧ではないから。しかし神崎は違う。彼女は誰もが憧れ、敬う完璧な人間。だからこそ嫌だったのだ。
完璧な人間は必ず裏がある。
手を差し出し、取り合った人間を寸でのところで捨て去りそうなイメージがあった。偏見と言われてもいい。これが妬みなのだろう。それでも、そのように持て囃される人間の笑顔が信用できないのだ。
悍ましい程に、吐き気を催す程に。
「ーーはっ、それで? レンタル彼女のこともそれに入ってるんだろ? じゃあ改めてどうすんだよ。アタシを馬鹿だなって罵るのか? それとも同情して慈愛のハグでもするつもりか? 気色わりーったらないな」
「いえ、そのどちらもしません。私達からはたった一つだけーーご一緒に、お昼でもどうですか?」
「……は?」
常にほんわかした雰囲気を醸し出す天宮が可笑しなことを言い始めた。能天気が空振って頭がついに沸いてしまったのかと。
「おや? 何か可笑しなことでも言ってしまったのでしょうか?」
「おかしいに決まってんだろ! どういう流れで一緒に飯食う流れになるんだよ。さっきアタシを説得するとか言ってただろ!」
「うん? ボクたちはただ君をお昼に誘いに来ただけさ。でもどうせ君は断るだろう? だから断ろうとする君を説得するんだ」
「……は?」
今日何回目の疑問だろうか。花崎からすれば神崎が何を言っているのか全くもって理解できていない。最初から花崎と彼女たちとで話が嚙み合っていないのだ。だから花崎は次に出てくる言葉に詰まってしまう。
「もう一度言うよ。僕たちとお昼でもどうかな? 積もる話もあるだろう。それはこちらも同じだ。でも、そんな殺気めいた雰囲気を出されては困る。まずはゆっくり、お昼でも食べながらお話でもしようじゃないか」
神崎小折は手を差し出した。それは花崎にとって最も嫌う行動。何から何まで上から目線で、まるで自分が救世主かのような立ち振る舞い。そんな痛い勘違いメシアに鏡を見せて自分の赤っ恥を反射させたい。
でも一番嫌いなのは、そんな小物の真似事しかできない自分自身。
自分の弱さを認知できず、あたかも被害者のような面をして正当化しようとする。認めたくはないのだ。誰も味方に居てくれない事実に。いつまでも埋まらないこの心の空白に。
いつの間にか積みあがった心の壁を軽々と飛び越えてきてしまう存在が、本当は怖かったのだ。だから我が身可愛さにこの頭は、勝手に土足で侵入してきた者を悪者と判断し、嫌悪する。殻に閉じこもる自分自身が世界における正しき者だと――そう信じて止まなかった。
「……いいのか? アタシと関わればアンタたちももれなく同罪だ。世間からのハブられ者としてこれからの学校生活を送らなきゃなんない。誰からにも後ろ指を指されながらの生活は堪えるだろ? だからそんな中途半端な誘いは乗らないわよ」
「ふっ、ご丁寧に断る理由を丁寧に並べてくれたけど、そうはならないよ」
「その根拠は?」
「教室に戻ればわかる。それ以上は言えないな」
挑発とも取れるその発言に警戒心を抱かずにはいられない。
「……わかった。付いていくわよ」
それでも、このたった一回だけ試してみようと思った。信じるに値しないその妄言に乗っかろうと――裏切られることを前提で。それで裏切られ、神崎のこの発言が虚言であると分かったなら、改めて正真正銘、花崎美咲が正当化される。その際は神崎に感謝をしよう。そしてさよならの言葉と共に、自分以外の全てを否定しよう。
そうして花崎は、神崎と天宮と一緒に教室に戻る。
教室に戻る最中、考え事をした。ドアを開けた時、クラスの奴らはどう思うのだろうかと。自らに向けられる視線――その出所となる瞳にはどんな色をしているのだろうか。
そんなことを考えていると、不思議と笑みが零れてしまう。何もかも諦めてしまった、乾いた微笑。
神崎が教室のドアに手を掛ける時、花崎は口内に溜まった固唾をごくりと飲み込んだ。
「――おっ! 花崎じゃねーか!」
ドアを開けたその先の世界は、とても想像できなかった光景が広がっていた。
「……え?」
「聞いたぜ花崎、お前母子家庭なんだってな!」
「写真で隣に映ってた男の人って親戚のおじさんと従兄なんだって!?」
「母親の代わりに甘えるとか、案外かわいーとこあんじゃねーか!」
「ホントホント! 花崎さんって意外と可愛い一面あるんだねー」
一体これはどこのペテン師が仕掛けた舞台なのだろうか。クラスメイトがその目に宿している色は、想像していたより遥かに明るい色をしていた。
声のトーンや表情からするに、明らかに自分を歓迎していると錯覚させてくる。これは違う、違うのだ。そんな反応は期待していない。疎外され、迫害されるはずの自分に向けられる感情ではないのだ。
「一体何なの? これは……」
「――良かったな。このクラスにヒーローが居て」
「名取!? アンタがこれをやったのか?」
「そんな訳ないだろ。河野が突然言い出したんだよ。神崎と花崎が話しているところを盗み聞きしたって。そしたらその内容が、花崎が母子家庭で~とか、実は親戚のおじさんと従兄が~とか大声で言い始めてな」
なんて溜息交じりにネタバレするが、恐らく花崎にはバレているだろう。これは俺が河野に仕組んだことなのだと。
俺ではこの状況は作り出せない。河野と同じやり方でも、誰も信じようともしないし、聞く耳も持たないだろう。そこで河野の出番だ。このクラス内において発言力、影響力が突出している河野だから出来る芸当。
これが同性の神崎では意味がない。花崎を庇っているか、クラスメイトを説得する形に捕らえられてしまうから。だからこの役目は河野が妥当なのだ。思わず聞いてしまう喋り方が、トーンが。それに後押しするように幸いしたのが、花崎と関りが少なかったということ。あくまで他人事のように言い聞かせることで、河野の人間性と合わさってこれだけの手の平を返すことができた。
ヒーローと呼ぶとするなら、その称号は河野にこそ相応しい。
「ま、要は空気には空気をぶつけんだよ。その前段階を河野がやってくれたってことだな。後で感謝しとけよ」
「ア、アンタがこれを――」
そこで花崎はクラスメイトに囲まれてしまう。言葉が混雑していて聞き取れはしないけど、中には謝罪や困惑の言葉も混ざっていた。そんな言葉の雑踏の中で、花崎は母親とのやり取りを思い出していた。
それは遠い記憶、小学生の花崎が宿題として自分の名前の由来を親に聞くというのがあった。
仕事から帰宅した母親に由来を尋ねたところ、腰を落とし、優しく頭を撫でてこう答えた。
『あなたにはね、あなたらしく居てほしいのよ。決して周りには流されず、自分を大切にしてほしいの。あなたは美しいお花だから、芽吹く場所は慎重に選んでほしい。きっと、あなたに相応しい場所があるはずだから――そんな私たちの願いが込められた名前なのよ』
そんな言葉を、優しい目で語ってくれたあの日の記憶が鮮明に呼び起こされた。
もしかしたら自分は、そんな場所を探していたのもかもしれない。今まで探していたその場所は、とても歪んでいたのだ。だから安心できなかった。足りないものがあった。
両親が願いと共に付けてくれたこの名前を、自分自身が汚そうとしていたのだ。それが余りにも愚かで、情けなくて。でも、ようやく見つけた気がするのだ。自分が今まで見放してきた人たちの手によって。
涙は出ない。それは反則だから。結局、悪いことをしていた事実に変わりはないから。
でも今だけは素直に笑うことができる。
それは唐突に現れたペテン師に、状況を変えてくれたヒーローに、手を差し伸べてくれた二人に――そして、誰よりも愛してくれた最も身近な人に向けての、今できる精一杯の笑顔を――。




