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16頁目 「夏の暑さとは裏腹に、彼女の手が優しく熱を奪っていく」

 夏の海――何て便利な言葉なのだろうか。

 汎用性の高いその言葉の背景には、想像するだけで万人が一致する光景が目に浮かぶだろう。


 そして俺が今立っている場所こそが、夏の海である。


 快晴に恵まれた空は、陽の光が雲に一切遮られることなく海へと注がれる。

 波による浮き沈みがより一層光を乱反射させ、まるで満天の星空がそのまま海に落ちてきたような眩しさが目を奪う。


 暑さなんて吹き飛ばすほどに、海水浴で賑わう人の歓喜なる声が何処からともなく耳に届く。


 砂浜を歩いたときに若干足が沈み、さらさらとした感触が地味に心地良いということを久しぶりに思い出させるこの場所は紛れもなく、そう――夏の海だ。


「――い~やっほーうっ!」


 陽の光で熱さを増した砂浜など気にも留めない走りで豪快に海へとダイブする河野。

 さっさと来いと言わんばかりに塩水をぶちまけられ、高揚感もあってか、普段は決してテンションを上げない山本ですら海に飛び込む始末。


「そ~らぁっ!」


 バシャバシャと互いに水を掛け合い、今でこそ元気な山本だが、ついさっきまで屍のような廃人になっていたあの頃は何処へやら。

 その理由は至極単純で、一緒に行こうとしていた妹の彼方が、友達と市民プールに行く約束が入っていたのだ。幾らロリコンの兄の教育が手厚く施されているとはいえ、小学生ならば兄よりも友達を優先するのは当然の理。

 「彼方の水着姿が……」と、一人のロリコン男子高校生の願いが目の前で潰え、落胆する姿を目の当たりにすると本当にコイツは異常なんじゃないかと思ってしまう。


 だからこそ俺は声を上げて宣誓したい。

 真の健全なる男子高校生ならば、本当に夢見るべき姿の本質を間違えてはいけない。


 つまりはそう、例えばこのような目の前に――


「あははっ、すごく久しぶりだ。おおっ! 見てくれ、海がキラキラと輝いているぞ!」


「わ~本当ですね! とっても綺麗ですっ!」


「綺麗なのは良いけど流石にやっぱ暑いわね。アンタたちちゃんと日焼け止め塗った? 夏の日差しを舐めたら死ぬわよ」


 そう、水着を纏った女性陣を心ゆくまで拝み倒すこと。


 透き通るような白い肌にすらりとしたスタイル、そして周囲の視線を集めるたわわな胸元。日差しが強いのは、彼女たちに脚光を浴びせるための強烈なスポットライトなのではないか。そんな妄言を吐かせるほどに今、三人は輝いている。


「……すっげーな、あれ」


「お、おう……」


 さっきまで大はしゃぎで水を掛け合っていた河野と山本も、女性陣の水着姿に夢中になる始末。

 神崎に至っては俺が選んだ青を基調とした水着を着用し、無事に自分の役目が果たされたことに俺は感無量の極みである。


「うーわ、男どもが揃いも揃ってジロジロと、キモ」


「なっ――し、仕方ないだろ! こちとら女子の水着姿なんて中学で一旦卒業してんだよ。この際だから言っとくけどなぁ、お前らみたいなスタイルの良い女子が水着で来たら男ってのは大体こんな反応をするもんなんだよ!」


「ふーん、じゃあアレは例外なわけ?」


「アレ?」


 花崎が指した方向へ目をやると、そこには合唱をしながらこれまで見たことのない笑顔で昇天している河野の姿があった。


「河野ー! お前って奴は、そんなにあいつらの水着姿が良かったのかよッ!」


 山本に肩を揺さぶられるも、微動だにしない河野はそれはさぞ満足したように仏の笑顔を絶やさない。

 しかしそんな山本も、鼻からうっすらと鮮血が流れていることに本人は気付ているのだろうか。自分を省みずに他者を救おうとするその姿勢に、思わず目頭が熱くなってしまう――なんて、こんな茶番に涙を流す馬鹿が何処にいる。


 そんな山本を見て俺も自分の鼻を触ってみるが、一先ず鼻血は出ていない。彼らのように極限まで興奮状態に至っていないのは、俺が直前に神崎の水着姿を一足先に拝んでいるからだ。

 それがなければ今頃、俺たちは三人仲良く変態のレッテルを貼られていただろう。


「――名取君、すまないがビーチボールを膨らませてくれないか。ボクたちは今から日焼け止めを塗るんだ。面倒を押し付けて申し訳ないが」


「ああ、いいよ。そのくらいは寧ろさせてくれ。もうお前たちは仕事をしたようなものだからな」


「え? それはどういうことだい?」


「ふっ……夏の暑さに、感謝を」


「え? え? ちょ、名取君? 本当にどういうことだ!?」


 神崎からしぼんだビーチボールを受け取り、涼しげな表情で背を向ける俺も、いつの間にか暑さでとうとう脳天まで焼かれていた。

 無意識にカッコつけてみるものの、今頃神崎は首を傾げて頭上にはてなが浮かんでいるだろう。


 だが神崎、お前ははてなを浮かべているだろうけど、今、俺たちの心は浮かれているのだ。そんな、火照った身体も冷めるようなセリフを心の中で呟けるほどに、俺の頭は熱を帯びてしまっている。


「――ハッ! や、山本! 俺は一体どうしていた!?」


「やっと帰ってきやがったか。お前一瞬、天国に国籍移そうとしていたぞ」


「マジでか! ……つかお前、どうしたんだ。鼻血出てんぞ」


「え――な、なんじゃこりゃあああっ!」


 未だに続いていた茶番劇を他所に、俺は一人、必死にビーチボールを膨らませていた。



 ◇◇◇



「――それじゃやろうか。はいっ、ミヤちゃん!」


「それ~!」


 そして海では定番の、ビーチボールで互いにトスをし合う遊びが行われた。

 女子にボールが行き、トスをする際に胸元に意識が注がれてしまうのは罠だろうか。中々出番が回ってこない俺はただただ目の前で行き来するボールを目で追うことが仕事になっている。

 下半身が海に浸かって冷たいとはいえ、頭上から容赦なく照らせれる日差しに目を手で覆った時、不意にボールが回ってきた。


「――な~に余所見してんだ名取ィ!」


「ぐはっ!」


 まるでバレーボールのように高く飛んだ河野が俺の顔面目掛けてスパイクを打ってきた。

 軽いビーチボールながら、意識の外にあった時に訪れる唐突の衝撃。成す術もなくそのままバシャンと、海に背中を預ける事となる。その時、仰向けになった俺を嘲笑うかのように太陽が見下していたことに若干腹が立った。さらに言うと、そんな俺を見て皆は腹を抱えて笑っていた。


「おっけおっけ、なるほどな。これは定期的にボールを顔面にぶち込むゲームだったな。忘れてたよ……」


「い、いや、名取君。別にこれはそんなルールではないのだが……」


 ぷかぷかと波に身を任せていたビーチボールを掴み、放り出す。そして渾身の力で河野の顔面に返礼のスパイクをお見舞いする。


「そいやっ!」


「ぐへっ! ――良い度胸じゃねぇか。そらっ!」


「ぶはっ!」


 それからというもの、俺と河野スパイク対決の幕が開いた。ただ互いにボールを顔面にぶつけ合うだけの悪魔のような試合。スポーツマンシップなんてものは今の二人には存在しない。どちらかが白旗を上げるまで行われる意志の殴り合い。その間に入ってこれる人間は誰一人としていない。


「――おいお前ら、そろそろいい加減にしねぇか――どはっ!」


 そして無理やり中断してこようとすれば、山本のように飛んで火にいる夏の虫の如く、そのまま海の藻屑となるだろう。身を挺して止に来てくれたことには賛辞を述べよう。しかし山本よ、俺たちはもう止まらいのだ。それを知るがいい。


「っ……テメェら、片っ端から相手にしてやらぁ!」


 どうやら火に飛び込んだ夏の虫は燃え尽きることなく、寧ろ燃えた状態で三人目がエントリーされた。トスなんてしない、一方的なぶつけ合い。段々とエスカレートしていくそれに、とうとう俺たち三人は燃え尽き、海に仰向けになる。


 ひたすらに撃たれ続けた俺たちのおでこは真っ赤に腫れあがり、そんな同士討ちを目の当たりにした女子三人は笑っていた。その笑い声に誘われるように、むすっとしていた俺たちも、薄く、徐々に笑い声が大きくなる。

 全く何を馬鹿なことをしていたんだと。花崎が付けた”トライアングルバカ”がこんなにも的を得ていたんだなと、この光景を見て思い知らされた――。



 ◇◇◇



 運動すれば当然お腹も空く。という訳で、俺たち男三人組は海の家に買い出しに来ていた。購入したのは定番の焼きそば。

 女子たちが待つ場所まで歩いている最中、またしても山本は落ち込んでいた。


「はぁ……」


「おいおい、どうしたんだよ。疲れたのか?」


 河野が心配して、海の家で買ったジュースを山本に差し出すも断られる。


「いや、やっぱ彼方の水着姿が見たかったなーってよ……」


「……なぁ河野」


「ああ、もうこいつ海に沈めちまおうぜ」


 どうやら俺と河野が心配していたのは杞憂だったようで、山本が嘆いていたのは妹の彼方の水着姿の件だった。さっきまでの山本はから元気だったのか、それとも海でテンションが上がったのかは定かではない。それでもあんなに楽しそうにはしゃいでいた時と今のこの状況の落差が半端ではない。

 人の心配を他所にこのロリコンは、あろうことか未だに妹のことを引きずっていたのかと思うと、海に放り出したくなる気持ちも当然だ。


 どうやってこのロリコンに落とし前を付けようかと考えてた矢先、女子たちが待つ場所で今まさに修羅場が訪れていた。


「――お姉さんたち、三人で遊んでんの?」


「丁度俺たちも三人だからさ、これから一緒に遊ばない? あ、もしかして疲れてる? だったらこの先にホテルがあるんだけど、どうかな?」


「ちょ、ちょっと! 止めてくれないか……!」


「何なのアンタたち! キモいってば!」


 海でナンパなんて漫画でしか見たことが無かったが、それが実際に現実に起こっていた。

 三人の日焼けした男――恐らく成人しているだろう。止めに入ろうにも、こんな屈強そうな男たちを前に力で勝てる訳もない。

 何か良い策はないかと頭を悩ませている中、小さい悲鳴が聞こえた。その悲鳴は神崎から。男が不意に神崎の腰に手を回したのだ。それを見た俺は頭に一気に血が上り、回していた思考を無視して噛み付く。


「お前ぇ! 汚ぇ手でそいつに触んなッ!」


「な、名取君――」


「なぁ、お前らよぉ……人が虫の居所が悪い時に何してくれてんだァ?」


 神崎の元へと駆け寄ろうとした時、ふと、誰かの手が男の肩を叩いた。


「お前らはさァ、妹、いる?」


「は、ハァ? い、いないけど」


「だよなぁ……そうだよなぁ……。そんな奴によぉ、俺の気持ちなんて分かるわけねぇよなァ――さっさと消えろゴミ共が、殺すぞ」


 顔を上げたのは怪物――いや、鬼の形相をした山本だった。

 普段一緒にいる俺や河野でさえもその顔に思わず後退りをしてしまうほど。


「お、男が一緒だったのか。お、おい、こいつやべぇ。さっさと行くぞ……!」


 流石の熟練のナンパ師も恐怖を覚えたのか、人を搔き分けて何処かへ走っていった。


 そんな、大活躍の山本を労うかのように花崎がぽんと肩を叩いた。


「――やっぱアンタが居て助かったわ。ありがと」


「っは、人が機嫌悪ぃ時に出しゃばってくっからだ。あんなもん忘れて、さっさと飯食おーぜ」


 わいわいと、何事も無かったように騒ぐ五人を見て、俺は一人、遅れて輪の中に入った。



 ◇◇◇



 焼きそばを食べ終え、ひとしきりの休息の後、今度は砂浜で彼らは遊んでいた。

 砂でお城を建築する天宮と花崎の隣で、河野は横たわる山本の体に砂を盛っていく。徐々に盛られていく砂はやがて大きな胸が出来上がり、抵抗空しく辱められている。

 そんな馬鹿馬鹿しい光景にくすっと薄い笑みを零し、俺はパラソルの下で仰向けに寝そべる。


 目を閉ざすと、瞼の裏で思い出されるのは先程のナンパの景色。

 元々ナンパ対策の要員でもあった山本がいたから今回は何事も無く済んだ。女子たちも怪我をすることなく、今も楽しく遊んでいる。ただこれが、一歩間違えれば、このような光景は目にすることが出来なかっただろう。そう――その一歩が、俺であったかもしれないのだ。


 もし今回、山本が居なかったら、俺は真っ向から男たちに当たっていただろう。後先を省みず、ただ一時の感情に身を任せて。その方が楽になるから。でもそれは大きな間違いであると、事を得た後に思った。

 それが間違えであると、気付くのが遅かったのだ。無力なまま指を咥えるよりも、怒りに任せて手を出した方が感情が楽になるから。未熟な俺は、どちらにせよ彼女たちを傷付けてしまったかもしれない。


 そんな過ぎ去ってしまった過去が、どうしても頭にチラつくのだ。


「――何しているんだい?」


「……神崎か」


 目を開けると、俺を覗き込んでいる神崎の姿があった。


「遊ばないのかい?」


「ちょっと疲れてな、まだ休憩中だ。神崎こそ、皆と遊ばないのか?」


「だって君の姿が見えないなーって思ったら、一人で涼しいところに居るんだもん。ちょっと邪魔したく――心配になってしまってね」


「もしもし? 本音が漏れてますよ」


 そんな俺のツッコミを満足そうに受け入れ、「よいしょっ」と言って神崎も隣に仰向けになった。


「あ~これ凄いね。潮風も気持ちいいし、このまま目を瞑ったら寝てしまいそうだ」


「別に寝てもいいぞ。……今度はちゃんと見てるから」


 そんな俺を見て何を思ったのか、隣で神崎はくすっと笑った。


「ねぇ――ここ、触ってみて」


「触るって――は!? 何で腰?」


 神崎が指をさしたのは腰の部分。訳の分からないその提案よりも、そもそも女子の体を触ったことが無い俺は、そんな事でさえも動揺してしまう。


「いいから……触って……」


「――こ、これで良いのか?」


 ふるふると震える俺の手がゆっくりと伸び、神崎の腰に当てる。

 ただ触っただけだが、このすらりとしたくびれに、想像通りの感触が伝わってくる。俺の手が熱いのか、ひんやりとした神崎の体も相まって余計に心地良くなってしまう。

 さらにあろうことか、神崎はそんな俺の手の上に自分の手を重ねてきた。


「ここね、さっき男の人に触られたとこなんだ」


「え?」


 それはさっき、ナンパしてきた男の手が回してきた場所だった。


「結果的に今回は山本君が解決してくれたけど、君、かなり怒ってくれてたよね。君のあんな顔、初めて見たよ。普段のやる気のない君からは想像もできないね」


 そう言うと神崎は腰に触れている俺の手を擦った。もしかすると、その手で危険に晒されていたかもしれない、世間知らずな俺の手に。


「その時ね、ボクはすっごく嬉しかったよ。名取君がボクたちを助けようとしてくれたことにね」


「……違う、俺はそんな褒められるようなことはしてないんだ。寧ろ、そのせいでもっと神崎たちを悲しませたかもしれない。だから俺は、お前に感謝されるべきじゃないんだ」


「ううん、そんなことはないさ。君はちゃんと守ろうとしてくれた。これは感謝されて然るべきなんだよ。だからありがとう、名取君――かっこよかったよ」


 そんな俺に構わず感謝を述べると、いつしかすーすーと神崎は寝息を立てていた。

 俺は彼女が起こさないよう、重ねられた手をゆっくりと引き抜く。まだ仄かに残る神崎の手の感触を閉じ込めるように、もう片方の手で覆った。


 風邪を引かないように、悪い虫が寄り付かないように、俺は神崎にバスタオルを掛ける。

 良い夢でも見ているのか、神崎の口角が小さく上がったような気がした。


 そんな、隣で眠る女の子の頭を、俺は少しだけ撫でた――。

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